戦記

2010年3月17日 (水)

京都は爆撃されないほ-神話?

京都は爆撃されない

「京都、奈良は文化財が多いので空襲されない」という神話がささやかれていた。

さすがに米国はこんな激しい戦にもそのような配慮をしているのかと感心したが、戦争は非常なものでそんな配慮はなかったことを知った。

二年ほど前に京都の商家の主人が、日本経済新聞に京都も爆撃にあっている。

しかも二回もである。ウナギの寝床のように細長い家の中庭に不発弾が落ちて今も記念に保管していると言う。しかも「終戦がもう二三カ月遅ければ京都にも原子爆弾を落とす計画もあった」と。

戦争は敵味方必死の戦いである。米国も始めは、軍の施設や軍需工場を空襲していた。そのうちに無差別攻撃となり東京、仙台、長岡の空襲のように焼夷弾を落とし大衆の家を壊滅状態にしている。

本来戦争は敵対するものを攻撃し大衆には危害を及ぼさないものである。

それにつけても終戦の時のロシヤスターリンの発言には驚かされた。火事場泥棒のように終戦がわかってから参戦し「日露戦争の仇を討った」といった。国化の元首の言う言葉ではない。

それに対して支那事変出苦しめられた蒋介石総統は「今までは不幸に敵味方に分かれて戦ったが、これからは仲好くして行こう」と賠償金も取らず、兵士たちの帰国を直ぐ行ってくれた。後に中共軍も蒋介石が賠償を取らなかったのでそれと同じ条件にした。

東洋のマタハリと云われた川島芳子の裁判も、養父川島浪速の蒋介石への助命には売国奴であるからと耳をかさなかったが、遺骨は浪速に送り届けている。

日本の政治家たちの中でも蒋介石の終戦の時の発言に感謝して、中共軍が支那大陸から蒋介石を台湾に追い込んでからも蒋介石の政府を認め、中共を政府とは認めなかった。

ちなみに蒋介石は、日本の陸軍士官学校を出て、少尉に任官し高田の連隊に配属されていたことがある。

また東京裁判では、インドの判事が東京裁判は勝者が敗者を裁く裁判だと職まを退いて帰国してしまった。

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2010年3月13日 (土)

サイパン

サイパン

私と中学同期の友に「サイパン」と云うあだ名の男がいた。彼はサイパン島から当時の金千円を持って単独で親戚の化学の先生を頼ってきた。

サイパンは第一次世界大戦に日本が参戦し、ドイツから委任統治としてまかされた日本領であった。日本の委任統治はマリアナ諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島、パラオ諸島などが含まれ、ただガム島だけは米国領であった。

「私のラバーさん酋長の娘、色は黒いが南洋じゃ美人、赤道直下マーシャル群島、踊れ踊れ踊らぬ奴に、誰がお嫁に行くものか」という歌がはやっていた。

南洋の測候所の所長として親父が転勤し、私の小学校に転校してきた男性がいた。彼は南洋育ちのせいか色が黒く丸顔のかわいい子で、彼の妹も色が黒かった。

後年同級会で彼の思い出話をしていた時、彼の父親は黒人であったと聞かされ色が黒かったことに納得した。

サイパンとは同級になったことはないが、部活は弓道部に属していて毎日顔を合わせていた。サイパン陥落の日彼は家族の安否を心配していたが、慰める言葉もなかった。しかも彼の頼って来た親戚の化学の教師も病気で亡くなってしまった。

後に彼から聞いた話では、戦後インフレで物価は上がり、金の価値が急激に下落してサイパンから持ってきた金も底をつき彼は学校をやめようと、教師たちに相談したところ教師たちは皆中学を修了するまではやめるなと云い、彼が闇で買って持ち運んできた米を各自の先生がこっそり買ってくれ、試験の前日には試験に出そうな問題を教えてくれたと云う。

戦後一時期中学の剣道場のガラス窓が破損されていていた。なぜかと疑問に思っていたがサイパンの友達の一人が一緒にガラス窓を盗んで街で売り、自分は僅か取って共犯になり、残りはすべてサイパンに譲り、お陰で助かったと漏らしていた。これも友情の変形というべきか。

サイパンは中学を修了して、自衛隊へ入隊し下士官になっていた。自衛隊では経理担当であった。「自衛隊の戦史でも米国の記録でも、我々の中学の先輩で硫黄島の最高司令長官栗林中将(戦死して大将に昇進)が玉砕した硫黄島の戦が日米両軍で最大の犠牲者が出ている」と云っていた。

しかも彼が心配していた家族は親父は亡くなったが、お袋と妹は無事であった。

下士官の定年は早く四十代で再就職の心配をしていたが、無理がたたったのか若死にしてしまった。

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2010年2月14日 (日)

戦艦大和の最後

戦艦大和の最後

今から三四十年前、通信高校講座でNHKは教材の「戦艦大和の最後」の作者吉田満を招いてその書物を出版したいきさつを聞いた。

その時吉田は「私は学徒出陣で海軍入った。一年の特別幹部候補生の教育を受けて少尉に任官した。戦艦大和に乗り組呉軍港を出港して巡洋艦、駆逐艦と合流して、戦艦大和以下十隻の特攻艦隊は帰りの燃料を持たず、目的は沖縄本島の米軍上陸地点に突入し、そのまま陸兵になることで作戦の成功は即死を意味していた」この時飛行機の護衛は付かず丸裸のままで「艦隊は豊後水道を南下すると米潜水艦ガ出没し、遂に戦闘機、爆撃機の編隊につかまり猛攻撃を受け大和が傾くと、上官は君たちは生きて護国に尽くせと言って兵を海に投げ出した」奇跡的に生還を果たした吉田は「戦艦大和の最後」を一日で書きあげた。戦後出版は占領軍の検閲があり、無修正で刊行したのは講和条約発効後である」と。なお作者吉田満は日銀の理事になってお国御奉公している。

確か司令長官は伊藤整一海軍中将で、兵たちと別れを告げそのまま司令室に入り、最後まで司令室から出ることはなかった。艦長の室賀幸作海軍大佐は艦の羅針儀に体を三か所縛り付け部下が艦長の掌に残した「ビスケット」四枚のうち二枚を口にして食いながらニヤリとして艦と運命を共にした猛者であった。コメントによると室賀艦長は旧制第三高等学校のヨット部の「琵琶湖周航の歌」の作詞者小口太郎と諏訪中学の同級生だそうだ。感謝、感謝。

これが戦艦大和の正しい記事で前回の記事は記憶違いであった。失敗失敗!

ここにあらためてお詫びをする。

前回述べた加来少将は、大和の艦長でなく昭和十七年七月のソロモン沖の海戦で艦と運命を共にした提督であった。墓の立つ鎌倉の本妙寺は日蓮宗の名刹で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の乳母の比企一族の住まいを寺にしたものである。

F100000913_3 F100001116 F10000081112 F10000022 門には仁王がいないが仁王門に当たり隣は本堂で、その左隣は加来少将の墓である。確か本堂に向かって左に大きな墓があったと記憶していたが、三十年もすると様変わりして見つからなかった。そこで寺務所を訪ねご住職に案内してもらって探し当てた。しかし以前より何文の一も小さな墓で記憶の曖昧さを知らされた。しかし墓碑を見ると平成七年に建てたとなっていて記憶の通り小さく作り直したようだ。

比企一族の妙本寺は、屋敷跡で二代将軍頼家が重病で伏していると、北条時政らは比企一族を謀反の疑いで攻め滅ぼし、奥方若狭の局と頼家の子まで皆殺しにし、病から直った頼家は一人ぼっちになり伊豆の修善寺に流され暗殺される悲劇となった。

それを戯曲にしたのが「修善寺物語」で、写真の小さなお墓は頼家の子の墓である。

感謝、感謝。

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2010年2月 9日 (火)

インパール作戦

インパール作戦

今次大戦で一番悲惨であったのは、ガタルカナル島の転戦(実は退却)した。ガダルかナル島はオランダ領ニュー二ヤ島と云い現在はインドネシヤて゛ある。ここから無事帰還した兵隊は同僚を見捨てて帰って来たと皆泣いて語っていた。次はインパールでここはビルマと云い英国領土であった。インド独立の志士チャンドラボースのインドを独立を焦った要望で軍が立ち上がったものでもともと無理があった。

戦場では最高司令官牟田中将が気がふれ散々な戦いで転戦すなわち退却して帰った。

先日ある会合で老人がインパール作戦に参戦しその苦労話をしていた。しかし次の機会に別の老人も自己紹介でインパール作戦で戦ったと話していた。後日前者の老人に後者の老人の話をしたら前者の老人は後者の老人をご存じで「あの人は砲兵隊だた」と云っていた。大砲を引いての突進、退却は大変だったに違いない。。

しかし前者の老人は八十九歳、後者の老人は九十一歳と年をとられた。

今次大戦で一番の激戦地は、東京都小笠原諸島の硫黄島で日米の戦いで両軍の被害は大きく最高司令官栗林中将(戦死後大将)を米軍は今次大戦最高の猛将と褒めている。

硫黄島では、全員玉砕即ち全滅した。

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