教育

2010年9月12日 (日)

反面教師

反面教師

反面教師を辞書で引くと、「(第二次大戦後、中国から来た語)見習い学ぶべきではな

いものとして、悪い手・見本となる事柄・人物」とある。

私の反面教師は、小学校4,5,6,年の三年間担任の恩師である。当時の先生は師範

校出たての若気のしたりか、どちらかというと勉強のできない生徒たちをいじめて

た。

まず**ふみ子という女生徒は、毎日のようにいじめられ、遂に学校へ登校しなく

なってしまった。**須恵美という男生徒もしばしばいじめられていた。

特に記憶に残っているのは、**麗子という女生徒に対して「名は体を表さないよすぎ

名前だ」と親のつけた名前にまで難癖をつけていた。

6年生のころ日記を就けるように勧められた。日記帳を買って日記をつけ始めてい

たらあるとき学校へ日記帳を持ち寄らせ、二人の生徒の日記を読み、一人の生徒

は、一日の事象のほかに感想文が書いてあり、他のほうは、一日の出来事を書い

てあった。すると前者をほめ、後者を悪い例として紹介した。

後者は私の日記で以後絶対日記を書くのをやめてしまった。

事象だけ書いた日記も「吾妻鏡」のように貴重な伝記である。一概にけなすのでなく

そういう点も補足してくれれば日記を書くのをやめることはなかった。

授業中のいじめは収まらず、山奥から転校してきた**芳郎も転向してきてからいじ

められた。後年**芳郎は同窓会の幹事となり、同窓会では先生にいじめられたと

生涯言い続けた。

**芳郎は同窓会に毎回出席しているが、**ふみ子、**須恵美、**麗子、は同窓

会に一度も出席していない。

恩師は九十数歳になり、校長を歴任し、前回の同級会にも一人で汽車に乗り参加

し一晩宿泊して帰って行ったが、翌年帰らぬ人となった。

現在ならばPTAも教育委員会も黙っていないであろう。当時の父兄は教育熱心な

な先生と見守っていた。

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2010年8月 6日 (金)

河原操子

河原操子

最近の大相撲は、モンゴール出身の力士の活躍が目ざましい。

前横綱朝青龍、現横綱白鵬、その他朝赤龍、時天空等枚挙に暇(いとま)がない。

彼らは若くモンゴールから日本に来てここまでのし上がって来た。しかし彼らに

は少なくとも入れ体制が整ている。

しかし河原操子の場合はこれよりもずっと過酷な状態であった。女は日露戦争が

始ま る直前、モンゴール(旧内蒙古)のカラチン王の要請に答え、若き女の身で単

身モンゴル渡り、モンゴールの高等女学校の開設に尽力し、職責をまとうしてモン

ゴール政府から謝され、モンゴールの女子留を三人連れて帰国している。し

かも当時の陸軍からは、密を受けて、ロシヤ対する諜報活動もしている。

瀬戸内晴美編<明治の女性の知的情熱>で岩橋邦枝著の「河原操子」によれば、

原操子は、信州松本藩の藩士で代々藩に仕える儒者の一族である。

父は日本と支那との友好は東洋平和をもたらすと信じ、そのために支那の事情をF10000022

よく知り、信頼関係を結ばなければならない。また国家百年の計は教

育にありと説いていた。

彼女は小学校高等科を優秀な成績で卒業し、校長の推薦で県立長

野師範の女子部へ進み、師範学校を卒業すると長野市の小学校で

教鞭に立った。日清戦争が始まるともっと学問をしなければならないと考え、東京女

子高等師範学(現お茶の水大学)^へ進学した。その頃の女子高等高師は選り抜

きの才媛の集まる最高学府という誇りに加えて、全学科を受け持つ教師を育成する

ため、学業の負担が大きく彼女は無理がたたって肋膜炎をわづった。一年休学し

て、千葉の海岸で療養して復学するが、病気が再発し「これ以上無理な勉学を続け

ると寿命を縮める」という医者の忠告と校医の診断に従って途退学をする帰郷し

静養に勤めたが、新設の県立長野高等女学校(現長野西高)に乞われて教壇に立

ち数学、理科、歴史を受け持った。当時華族女学校(現女子学習院)の校長である、

下田歌子の信越講演旅行が報ぜられた。下田歌子は、実践女学校(現実践女子大)

の創立者でもあり、当時の女子教育の第一人者であった。下田歌子は支那問題に

関心が深く、日本で初めて清国の女子留学生を受け入れたのも実践女学校であっ

た。教育者下田歌子の信州来訪を知り、奉職先の女学校の校長の紹介状を持って

歌子と面談し、操子の抱負を語った。下田歌子との面会してひと月も立たずに操子

は「至急上京せよ」という歌子からの電報を受けた。上京した操子は華族学校の官

舎に田歌子を訪ね「横浜の大同学校で、この度女子部が新設され日本人の女教

師を人採用することになったが行く気はないか」と相談された。大同学校は横浜

留の支那人の子弟の教育機関で、名誉校長はのちに五・一五事件で暗殺された

犬養である。彼女は大同学校に奉職し、教頭から北京語を習い、将来支那に渡っ

たときに備えて、夜間は生徒としてフランス語を学んだ。

上海の呉氏から「支那人独自の務本(ウーベン)女学堂を創設する為め、日本から

女教師を一人迎えたい」と下田歌子に女教師の斡旋を頼んできた。

下田歌子は河原操子に白羽の矢をたて、河原操子は女学堂に赴任したが、校長は

創立者の呉氏で、操子はただ一人の日本人女教師、他はすべて支那人の男性教

師であった。操子はとりあえず、年齢の違う四十五名の女生徒を三学級に分け、日

本の小学校程度の授業を行った。彼女の受け持ちは、日本語、日本文、算術、唱

歌、図画であった。操子が着任してひと月目ごろ、当時の東京高等師範学校(旧東

京教育大学、現筑波大学)校長の嘉納治五郎が上海を訪れた。河原操子の生徒た

ちは、日本語の歌を歌って嘉納治五郎を迎え、別れに際しては口々に「どうぞまた

おいでください」と日本語で叫び、嘉納をいたく感動させたという。これからしても河

原操子がいかに有能な教師であったということが分かる。

一年が過ぎた頃、日本総領事から蒙古のカラチン行きの話が持ち上がった。

F10000033 「蒙古のカラチン王から日本の女教師を推薦してほしいとの要請が

来ている」と相談され、即答は避けて日本に残した父の同意を得る期

間の猶予を得た。彼女の父は蒙古行きを知り心から喜んで激励して

きた。「日支親善に尽くす人は多いが、日蒙親善のために働く人はい

ない。名誉ある有り難いことだから力の限りご奉公するように****。万一の際はこ

懐剣で自任務は教育事業だけでなく、表面はカラチン王家の教育顧問であるが、

蒙関係をつなぐ外交官であり、命を賭けた軍事秘密情報員として選ばれたのであ

る。当時の日露関係は切迫し、戦争は避けられない情勢にあった。

カラチンは日露両国の勢力が接触する微妙な位置にあって、操子の蒙古行きは教

目的のためだけではなく、蒙古は昔から露国の勢力の強いところで、日本は対

工作に苦心していた。幸い内蒙古のカラチンの王妃は、親日派の実力者である

国の粛親王の妹に当たり、軍部や支那浪人川島浪速(川島芳子の義父)カラチン

王と王妃に働きかけ日本の味方に付けることに成功してた。

操子のカラチン行きに同行した軍曹は表向きは護衛であるが、実は軍曹の任務は

蒙古の地勢を調べて沿道の地図を作ることで、日露戦争で決死の潜入をして有名

な横川省三、沖貞介らの特別任務班の活躍に役立った。

河原操子がカラチンに到着すると王は自ら出迎えて王宮内の案内をし、夜の歓迎F1000004457

晩餐会でも王夫妻は同席して厚くもてなした。

到着した翌日操子は長旅の疲れを休める暇もなく王妃と改めて会っ

て女学校創立の相談にかかった。

王家では開校準備に一か月を予定していたが、操子は一週間後に開校するよう

言し、王妃の同意を得た。操子が急いだ理由の一つは、王内に大多数を占める

露派の反対を危惧したこと。もう一つは一日も早く学校を開校して、裏面の軍事

任務を隠す必要からでもあった。

学校の名は矯正女学堂で、開校までの一週間操子は不眠不休で陣頭に立って準備

万端を整えた。開校式は王夫妻が臨席し、来賓は二百名にも上る盛大な式典であ

った。操子が蒙古入りをして二月目に日露戦争が勃発した。

北京の川島浪速から「近日中に特別任務帯びた決死隊がカラチンを通過する」とい

う連絡が入ったのは開戦間もなくであった。

操子は決死隊の一行を迎えた。それが横川省三、沖貞介たちである。彼らは支那

の商人やラマ僧に変装して到着した。一行の最年少の脇光三は偶然操子の長野

範学校の恩師の息子であった。彼らの任務は敵地深く潜入し、興安嶺大トンネ

爆破して露軍の交通路を断つ重大な使命を帯びていた。

一夜をともに過ごすが、彼ら一行との人生最後の歓談のひと時となった。

戦前、横川省三、沖貞介は、スパイ活動をしてロシヤ軍に捕えられ銃殺刑となる。

銃殺の際二人は目隠しはいらないと拒否して銃殺された烈士として語り継がれてい

。現在の広辞苑で横川省三は「新聞記者、軍事探偵、盛岡藩士の子。自由民権

運動・千島探検に参加。日露戦争で沖貞介とともにロシア軍の後方に潜入、鉄道

破壊を企てたが発見され、ハルピンで銃殺」とある。

二日後一行は、雪の中を出発し、途中で二班に別れ、敵の行動を妨害し、鉄道、電

線、火薬庫の爆発などの活躍をしたが、横川、沖の二人は敵軍に捕えられ銃殺刑

に処せられ、他の一名は奉天で戦死し、脇以下四名は馬賊に惨殺された。

日本軍が鴨緑江を渡り、戦場が満州平野に移ると操子の秘密任務はより忙しく重い

ものになった。情報機関が赤峰に設けられ、そこから届く情報を熱河で受けて北京

へ打電し、逆に北京からの通報を赤峰に伝える、カラチンはちょうど中間の中継地

であった。昔読んだ「近代を築いたひとびと」坂本玲太郎著の河原操子は主に教

面が書かれ軍事面はあまり触れていなかったため、このような男顔負けの軍事活

をしていたとは知らず今読んでも感動する。「近代を築いたひとびと」では特務

一行にいたのは、長野高等女学校初代小林校長の子息となっている。

小林校長の銅像は、現在も長野西高の正門を入ると建っている。

こうした危険な裏面活動に追われながら教育者としての本務を着々進めていた。

開校の際二十四名であった生徒数が、一月後には六十名に増え中には王の妹も交

じっていた。六十名を三学級に分け学科は日本語、算術、地理、歴史、習字、図画

体操、編み物、唱歌(日・蒙両国の歌)、読書(日・蒙・漢の三種類)で上海と同様編

み物に人気があり、毛糸の頭巾は特に評判が良かったという。気候のよい陰暦八

月の園遊会は大成功で、官民三百人が集まり、生徒の図画、習字、裁縫、編み物を

展示日・蒙の唱歌を聞かせご馳走を並べてバザーのような楽しい雰囲気を作り、王夫と操子が教育の必要性を分かりやすく説いた。

翌年秋の園遊会は出席者七百名を超す大盛況であった。

日露戦争が終結して、彼女は秘密活動から解かれた。女学校の基礎もようやく固ま

り彼女は惜しまれて帰国する。北京駅頭には王夫妻そろって見送った。このように

王夫妻が外国人を見送るのは前代未聞の出来事である。

彼女は帰国に際し、蒙古の女子生徒三名を日本に留学させるため同行した。

彼女は帰国後横浜正金銀行のニュウヨーク支店長と挙式を挙げた。

その後「蒙古土産」を書き表し、昭和になって「カラチン王妃と私」という題名で複刊

している。複刊は純粋な志もって誠心誠意尽くした一人の女子教育者とその時代と

の運命的なかかわり、彼女のたどった軌跡を伝えている。

まず何よりも素晴らしい名文が印象に残る著書である。さらに戦前の支那の模様が

克明に記録され資料としても貴重な価値を持っている。作家の保田与重郎は、河原

一の珠玉」と絶賛していると、作家岩橋邦子は結んでいる。

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2010年6月28日 (月)

高齢者講習

高齢者講習

今年は、自動車の免許証の書き換えの年である。県の公安委員会から免許証書き換え前に「高齢者講習会」を受講して、免許証書き換えの申請時に、受講終了の証明書を同時に提出するようにという通達を受けた。

講習内容は、

1.講義

2.運転適性検査器材使用診断と指導

3.実車による診断と指導

で手数料は\5,360である。

持参するものは

1.運転免許証(眼鏡使用者は持参)

2.筆記用具

3.手数料

4.高齢者講習のはがき

である。

高齢者講習は、これで三回目に当るが、講習内容は、前回と同じである。

今日は、講習会の日に当たるので自動車教習所へ行くF10000031 F10000022 F100000134_2 と手数料は、\6,000であると云う。理由は講習予備検査(認知症検査)代がプラスされるからという。

今回免許証を提出して気がついたことであるが、前回まで普通車の免許証であったものが、中型免許証に変わっていたことである。質問するとは規則改定で、中型車(8t)限って運転できるようになったのだと云う。

3年間気がつかずにいたとは***

予備検査は、一枚のボードに四件の物を書いた絵を四ボード見せ、時間をおいて、十六の物件の名称を順序不同で、書けという問題と、ヒントを与えて十六の物を書けと云う問題で、結果ヒントなしで、9件/16件ヒント付きで15件/16件で、「記憶力、判断力に心配なし」であった。

運転適正検査は、CRTディスプレーで、青、黄、赤信号で、アクセル、ブレーキ、ハンドルの左右操作が決められていて、その操作を誤りなく出来るかというテストで「同年代と比較して普通」であった。

動態視力測定は「同年代での評価は普通」で両眼測定視力回復時間は「同年代でやや劣る」であり、眩光下視力は「同年代でやや劣る」であった。

視野測定結果は「同年代と比較して良好」であった。

最後の運転適性結果は、実地運転で「同年代と比較して普通」という結果であった。通算三時間半の講習会であった。

最後に高齢者講習終了証明書を貰って解散となった。

疲れた、疲れた。

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2010年3月28日 (日)

わが落第 の記-その2

岩波茂雄

安部能成著「岩波茂雄傳」によれば、岩波の最所のつまずきは一高入学試験試験に受験して不合格となり、翌年一高を受験して入学。安部次郎、上野直昭、萩原井泉水鳩山秀夫(現鳩山首相の曾祖父)と同級になった。一高一年の時ボート部へ入り一部の第三選手のトップになる。この時代が岩波は「ボーキチ(ボート狂い)」のあだ名を付けられたと云う。一高二年に進学して間もなく、足尾の鉱毒事件が世を騒がせ、岩波は渡良瀬川の現状を見るため、足尾へ行っている。二年の初期からボート部への情熱も冷め、煩悶して二年の試験を放棄し落第して安倍能成と同級になったと云う。この年一高生藤村操は日光の華厳の滝で、「厳頭の辞」を残して自殺し岩波と安倍はひどいショックを受け立ち直れずに二人とも落第する。なお安倍能成の奥さんは、藤村操の妹である。

岩波は同じ学年を二度落第したので規則上退学になってしまう。

岩波は、母親に一高の退学を告げれず、昔何かの本でで読んだ所によれば一高の卒業記念写真にチャッカリ顔を出し、写真の中に入って母親に送ったと言う。

その後岩波は東大哲学科の選科を出ている。戦後しばらくの間は、代議士などの履歴に大学の本科か選科卒かを区別していた。広辞苑によれば本科は、その学校の本体をなす課程と書かれ、選科は、学科の一部を選択して学習する過程と書かれている。

此処に旧制の学校制度は予科と本科があって予科は本科に入るための予備の課程で、旧制大学入学前の段階で旧制高等学校に相当する過程。東京商大(現一ツ橋大学)・北海道帝国大学、私立大学に設けられたとある。

新制大学に成り本科、予科、選科の区別がなくなり、代議士の履歴から本科、選科の区別はしなくなってしまった。

F100000112 F10000023 F10000045 後年岩波は岩波書店の人に「なぜ選科でなく本科を出なかったか」尋ねられ岩波は「本科はもう一度高等学校へ行かなければならないし、本科も予科も同じようなものだから」と答えているが、安倍は「岩波にはもう一度多くの学科を学んで受験する学力がなかったから」と書いている。

岩波は女学校の教師をし、教師を辞めて古本屋を開きその後新刊本屋とな岩波のメリットは岩波が新刊本屋になった時、旧友たちはそうそうたる学者になっており、容易に出版を許されたことによる。

F100001414F100001515_3  今日岩波の墓が有る鎌倉の東慶寺によって見ると、以前あった道路沿いの東慶寺の門は取り除かれ、岩波、安倍能勢、鈴木大拙、清水幾太郎、らの御墓は以前より大きく成っているようであった。さら に小林秀雄、出光、安宅などの御墓も増えていた。

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2010年3月27日 (土)

わが落第の記-その1

わが落第の記

ご五十年ほど昔「わが落第の記」という題名で、当時の著名人が自分の落第(現在の留年)や入試の失敗談を書いていた。

中には著名な評論家、中島健蔵の中学四年と五年から入試を失敗し、都落ちして松本高等学校へ合格した話とか、徳川無声の高等学校入試の失敗で、進学をあきらめた話などであった。

特に印象に残ったのは、名前は忘れたが、初代道路公団総裁の話は面白かったのでここに記憶をたどりながら書いてみた。

彼は福島の中学校から一高へ合格したが、その年東大駒場の農学部と本郷の一高との土地交換の話が持ち上がり、一高百年の大系を決める一大事だと交渉委員に選ばれ、授業にも出席せずに交渉にレ専念した。時の東大総長山川健次郎は、学校は大丈夫か心配したが、一高のためだと頑張り通した。その結果は見事に落第した。

すると一高の寮の舎監が遥々福島へ出向き、一高のために頑張って落第したむね両親に報告してれた。寮では「落第して舎監を走らせた」として有名になったと云う。

次は翌々年一高ヨット部のために落第し、更に隔年に何か一高のために落第し、都合三年落第した。一高を卒業してか、東大を卒業してか、結核にかかった時前記山川健次郎は彼の病状を心配し、山川の湘南の別荘に転地療養させ、療養途中は彼を助手として山川のポケットマネーで給料を払ってくれたと云う。良き時代を彷彿させる。

山川は彼の心意気に感じたせいもあろうが、山川自身会津の藩士であり同郷のよしみでもあったのであろうか。

その後彼は満州で活躍するが、終戦で引き揚げ失職している時、一高六年の同級生たちが、彼を初代道路公団総裁に推挙してくれたと書いていた。

まさにうらやましい良き時代であった。

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2010年3月 4日 (木)

高校むの授業料無償問題-取りやめるのも手

授業料無償問題

鳩山内閣は高校の授業料無償化は公約であるからと云って実施しようとしている。

内閣が第一番にやるべき問題とは思ないが***ここに思いがけない邪魔が入った。

朝鮮人学校への支給は拉致問題もあり、国民感情を逆かなですることになるので朝鮮人学校を除くと云うという世論もある。それに対し北線は「民族差別だ」「差別するなら国際問題だ」と意義を申し立てている。これは明らかに内政干渉だ。田中真紀子はまたシャシャリでて来た。

無償支給をするから政府間問題となるのだ。いっそ無償支給は取り止めとし、支給したければ、形を変えればれば問題は解決する。公約を順守でなく融通無碍(ゆうずうむげは親鸞に叱られるかな!)にすれば受給者側も納得し、政治問題にもならなくて済むのではなかろうか。

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2010年3月 2日 (火)

長野県は教育県であった!

長野県は教育県

小学校の教師が修学旅行の旅先で、高松宮とお会いして宮から「どこの県から」と尋ねられ「長野県」とお答えすると宮は「長野県は教育県だね」とおっしゃったといたく感激して話してくれた。

長野県が教育県と言われる訳の一つに小学校が義務教育となった明治初年に就学率第一位は筑摩県で第二位は長野県でいずれも現在の長野県である。

次は長野県ではせめて学校教育だけは***言う気風があった。そのため旧制高等学校、専門学校、大学の教授になる人は枚挙にいとまがなかった。

宮澤俊義東大法学部教授、吾妻一橋大教授、金子・吉江喬松早大文学部長、十代田早大理工学部長、中村早大政経部長、峰村慶応法学部長など多士才々で峰村教授は末広厳のあとを継いで中労委委員長もしている。

歌人でわ「アララギ派」の島木赤彦(小学校校長)、大田瑞穂、四賀光子、等がいる。

以前お袋が「大学の総長、学長のほとんどが長野県出身者で占められたことがある」

と言っていたがそんなことはと疑問視していたが、調べてみると誇長でないことがわかった。

沢柳政太郎東北、京都両帝大総長・大工原銀太郎九州帝大、同志社大総長・熊谷岱蔵東北帝大総長・長田新広島文理大学長・務台理作東京教育大学長・中島東京外語大学長・田中穂積早大総長・今村力三郎専修大学総長・原嘉道中央大学学長・横田秀雄明大学長・山岡万之助日大総長・児玉幸多学習院大学長波多野精一玉川大学長と一県でこのような総長、学長を輩出している県はないのではなかろうか。

長野県には明治前半に信濃教育会と云う教師の教育研究機関が設けられている。

また戦前岩波文庫が一番購入されたのも長野県あったと云われた。

教育者で現総理の曽祖母鳩山春子女史も長野県出身で共立女学校(現共立女子大)を創設した。

教育者ではないが王子製紙の社長で商工大臣をした藤原銀次郎は戦時中藤原工業大学を創設し、彼が出身の慶応大学に工学部がないので藤原工業大学を慶応に寄付し慶応の工学部にした。また藤原には子供がいないので戦後二三回慶応と共立女子大に高額の寄付をして新聞をにぎわしていた。

現在の長野県は外から見聞きすると決して教育県とは言い難く、過去の遺産にあぐらを書いているように思えるがいかに!

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2010年2月10日 (水)

留学生ドルジとラーシ

留学生ドルジとラーシ

元横綱朝青竜は本名ドルゴルスレン・ダグワ・ドルジという。

私の田舎の中学の一年一組に戦時中にドルジとラーシという蒙古人がいた。

当時の蒙古は、外蒙古と内蒙古に別れ外蒙古は親露派で、内蒙古は親日派であり留学生二人は勿論内蒙古である。

蒙古は現在モンゴルと云い朝青竜の出身地である。我々の中学の先輩に大蔵省の三羽烏といわれ三人とも大蔵大臣を歴任し、戦後の公職追放後代議士になった人がいる。先輩もその一人で当時大東亜相をしていた関係で田舎の中学へ留学生として来たものと思っている。

二人はふけて見え無口で、私とは余り話をしなかった。しかし修練の時間かで何回か相撲を取ったが二人は突っ張りが強く連勝を続けていた。しかし足腰が弱いせいか私と組むと簡単に足を掛けて投げ飛ばしていた。今になるとあるいは勝ちを譲って呉れたのかも知れない。

しかし終戦の少し前になって「日本が負けるから国に帰る」と云い帰国した。同級生はそれを聞き憤慨していた。

戦後中学、高校の同期会で一年の時クラスは違ったが、後に医者となり代議士となって政務次官を何回か歴任した友が、「いくら探してもドルジとラーシの消息は知れなかった」と。「朝青竜ほ本名がドルジだと云う」と話すと「モンゴルにはドルジと云う名が多くて一族かどうかわからない」と云っていた。

ドルジとラーシは戦後日本に留学したという理由で処刑されたのかもしれない。

その昔のように相撲は大関が最高位の時代では、朝青竜は識徳円満とは言えず大関にはなれるが、横綱には推薦されず今回の事件は起こらなかったのではなかろうか。

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2010年2月 9日 (火)

教育先進国日本

教育先進国日本

明治100年が叫ばれていた四十年ほど前NHKのテレビ番組で日本の教育について論じている日本の歴史をよく知っている外国人がいた。彼は後の駐日大使ライシャワーであったように思う。

その外人は「日本の明治維新後と終戦後の発展は一に日本の教育にある」と云っていた。「現在の日本の小学校は20,000校余りで、明治時代小学校を義務にした時は10,000校余りあった。江戸時代の寺子屋の数も10,000位で明治政府が義務教育制度を施行した時これらの寺子屋をそのまま小学校とした。しかも日本の義務教育制は仏国に遅れること一年、英国に先立つこと一年早く、他の欧米列強に先駆けていた」と。これは驚きであった。確かに終戦で進駐して来た米兵の中には自分の名前すら書けない人々がいたと聞いたことがある。

明治政府の高官たちは外国に追いつけ、追い越せと努力した。また役人たちは官立八幡製鉄所、官立富岡製糸(群馬県)などに最新鋭の機械を投じ御雇外人にその操作を習わせた。「汽笛一斉新橋***太」と歌われた汽車も電話の施設も早かった。ベルが電話を発明して間もなく留学生金子堅太郎と伊沢修二の二人がベル研究所を訪ね日本語で話しあった。そこで電話で話をした外国語は日本語であったと言われている。また富国強兵に努め軍隊は独国式を採用し、憲法制定では伊藤博文が欧州に行き調査し日本国憲法は独国式にした。

教育でも御雇外人に学生を教育させ、その学生たちを先進国に留学させ帰国後御雇外人たちと交代させている。留学した学生たちも必死に学び、後の文部大臣菊池大麓はケンブリッジ大学か、オックスフォード大学を一番で卒業したと聞いたことがある。

途中で病のため脱落する人もいて、桂小五郎こと木戸孝允の子息も留学中かの地で病死し、遺骨は船で無言の帰国をしたと記憶している。

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2010年2月 5日 (金)

裏口入学

裏口入学

以前なべおさみの息子が明治大学を裏口入学したと世間を騒がせたことがある。昔は私大の裏口入学は公然の秘密であった。私大の教授は数人を合格させる権限があった。戦前本家の息子が早稲田の理工学部に合格した時、おふくろが本家のおばあさんに「オメデトウ」と云うとおばあさんは、本家の親戚で早稲田の理工学部長をしている人が入れてくれたんだろうと言っていた。しかし本家の息子は新設の長野工専(現信州大学工学部)にも合格し、そちらに入学した。

戦後従兄弟が早稲田の政経学部へ受験した時おふくろは、本家に頼んで理工学部長に頼んだらどうかと叔母に進言した。すると後日理工学部長は政経学部長を紹介してくれた。合格して叔母はお礼に「リンゴ」を送ると政経学部長は私は何もしなかった。息子さんの実力ですと言って「リンゴ」を返してきたという。

世の中にはこのような清廉潔白な人物もいた。

また中学の先輩で慶応大学法学部の教授が我々の高校で講演した時、講演後教師との懇談会で裏口入学について教師が尋ねると私大は経営上裏口入学を認めざるを得ない。しかし裏口入学ばかりでは大学が駄目になるので実力で入学する人もいると。

それを聞いた国語の教師は嘆いて戦前は、高等師範学校や師範学校のように教師の養成機関と陸海軍の軍人を養成する学校は授業料は免除され、生活費も支給された。貧乏人でも頭が良ければ進学の道があった。しかし戦後はその制度が廃止されてしまい進学の道が閉ざされてしまったと嘆いていた。現に中学、高校の同級生で中央大学を受験した人がいたが、彼は面接で寄付一口一万円であるが、何口寄付するか問われ三口と答え合格した。しかしその友は東京農工大にも合格し農工大へ入学した。

私大の裏口入学はその後も続いたが、文部省が私大にもを金を援助するようになり裏口入学を厳しく禁じ、私大の援助も加減するようになり裏口入学の悪習はすたれていった。

「なべおさみ」の息子「なべやかん」の事件は昔の悪弊の名残である。

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