文学

2011年4月22日 (金)

雪国

雪国

川端康成の小説「雪国」の冒頭の書き出しは「トンネルを抜けると雪国であった」でこのトンネ

ルは清水トンネルである。

関越自動車道の関越トンネルの手前は雪解けが終わって春を迎えた山々である。

関越トンネルを抜けると「雪国」の書き出しと同じように道路の端から山にかけて一面の雪で

完全に雪国を連想させるものがあった。

関越トンネルの群馬県から新潟県への入口向かって右側の照明は東京電力で左側の照明

は東北電力でどちらかの電力会社が事故で停電しても片方の照明が生きているように計画さ

れているのだそうだ。F100000779F100001016

高速道路を出るとそこは湯沢であった。湯沢で朝食をとる

と店には錦鯉が沢山飼われていた。

この錦鯉は例の山古志村で飼われていたものだという。

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2010年6月24日 (木)

服部嵐雪

服部嵐雪

服部嵐雪は其角と並んで、蕉門門下の双璧であり芭蕉の弟子の中では最古参に属する。嵐雪が芭蕉に入門したのは、其角よりやや遅れているが、殆ど差はない。

ともに芭蕉の無名時代からの弟子である。嵐雪は下級武士出身で、若いころ武家奉公をしていた。二世市川団十郎は「老いの楽しみ」に嵐雪は、「どらにて〕と書き、嵐雪は其角のところへ転がり込み「其角、嵐雪は、夜具のない道楽な暮らしをしていた」とかいているそうだ。また「嵐雪は俳諧以外の普段は、翁(芭蕉)が気つ゛まりで芭蕉から逃げ回っていた」という。

しかし芭蕉は嵐雪を重んじ「草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪あり」と書き「両手に桃と桜や草の餅」という句を作っている。

其角は華々しい才能を発揮しながらあくまで蕉門の一人として行動したのに対し、嵐雪は少し芭蕉から距離を置く姿勢が見られるとか。しかし嵐雪の句は芭蕉に近いそうだ。嵐雪の句に「うまず女の雛(ひな)かしづくぞ哀れなる」のうまづ女は嵐雪夫人のことで、夫人は猫をかわいがっていた。ある時嵐節がその猫を知人に渡してしまうと、夫人は半狂乱になって探しまわり、嵐雪は知人から猫返してもらい「せめて猫ぐらいの待遇はしてくれよ」と云ったと云う。現代に通ずる話である。

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2010年6月23日 (水)

榎本其角(後に宝井其角)

宝井其角

今日鎌倉女子大の生害学習センターで、年に二回春と秋に隔週五日ほど開かれる講座の中で「芭蕉の理論とその弟子たち」を受講してきた。今日は「其角と嵐雪」であったが、其角について受け売りでまとめて述べる。其角は十四五歳から無名の芭蕉の門人になった。芭蕉の最も初期の弟子の一人だと云う。

其角は芭蕉の弟子であるが、その作風は芭蕉と異なり芭蕉は泥臭さがあるが、其角は、都会的で、芭蕉の取り上げない句も取り入れて、流行を取り入れた句や誇張した表現もしているようである。「越後屋のにきぬさく音や更衣(ころもがえ)」とか「鐘一つ売れる日はなし江戸の春」などだそうだ。また「今朝たんと飲めやあやめの富田酒」のように上から読んでも下から読んでも同じになる句を作っている。芭蕉は其角の才能を愛し暖かく見守った。

其角は生涯芭蕉に忠実に仕えていた。其角は芭蕉より江戸では名声が高かったが弟子入りを希望する人は総て芭蕉に紹介し、芭蕉の弟子としたと云う。

また芭蕉が大阪で客死したとき、江戸の人である其角は本来なら死に目にあえないのに、たまたま上方を旅行中で、芭蕉の病を知りその枕頭に駆けつけ、芭蕉はその翌日息をひきとり芭蕉の死に目にあっている。芭蕉と其角の師弟の関係は非常に深いものであった。

昔読んだ講談本の赤穂義士銘々傳の大高源吾の段では「元禄十五年十二月十三日すす払いの竹を売って歩く源吾と其角が道でばったり出会い、其角は源吾の落ちぶれた姿を見て「年の瀬や川の流れと人の身は」と詠むと、源吾は「明日間たるる其の宝船」と返した。其角は、どこかへ仕官を望んでいると誤解したが、後で討ち入りをそれとなくにおわせたものと分り恥いった」という話しで講釈師が作った話か、事実か知らないがよくできた話である。

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2010年6月21日 (月)

夏目漱石

夏目漱石

今日生涯学習センターで「鎌倉物語」を受講して来た。前半は執権北条時宗と無学祖元について元寇を中心の講義であった。無学祖元は蒙古に南宋を追われ来日して建長寺の住職になっていた。時宗が蒙古の対処に苦しんでいた時、「幕盲想(まくもうそう)」とだけ言って時宗の決断を促し、それから時宗は挙国団結して元に対抗する準備を整えて、二度の元寇に勝利した。

元寇で戦死した敵味方の菩提を弔うため、開基が時宗、開山が無学祖元として建てられた寺が円覚寺であると。

円覚寺の塔頭(たっちゅう)である帰源院に初め島崎藤村が、翌年夏目漱石止宿している。藤村は「春」漱石は「門」を書いた。

しかし漱石は「門」でも書いているように、参禅するが何も得られなかったようである。

漱石は東京帝大を出て、初め東京高師(前東京教育大、現筑波大)の嘱託になるが安給料であった。そこへ伊予の松山中学から破格の給料で招聘され、松山へ行く。松山では正岡子規と同じ家で、子規は一階、漱石は、二階に住み、子規が毎日開く俳句の会を開催し、漱石はその甲斐に出席していた。

その頃のことであろう。漱石が俳句、和歌、漢詩を作ると子規は添削をした。「漱石が「英詩を作ると子規はVery good と書いて帰した」と漱石画述べている。

その後熊本の五高の英語の教師として招かた、しばらくすると文部省から英国へ二年間の留学を許可する通知が来て、ロンドンへ旅だった。

帰国後東京帝大で英語の授業を担当する。その頃子規から「ほととぎす」を任された高浜虚子に詩集「ほととぎす」に何か投稿してほしいと言われ「わが輩は猫である」を書きあげる。

漱石の文を受け取りに来た虚子は、これは面白い。しか題名はといい虚子が考えた末書き出しの「わが輩は猫である。まだ名はない。」の「わが輩は猫である」にしたらどうかといってで題名が決まり「ほととぎす」に掲載され好評を博した。

虚子は引き続いて「ほととぎす」への投稿を頼み、松山中学の時代の思い出を「坊ちゃん」に書いて「ほととぎす」に掲載される。

その頃朝日新聞から朝日の専属になって新聞小説を年に一回出してはという誘いがかかり、漱石は東京帝大の教授の座を振り切って朝日新聞に入社し、作家活動に入った。

先ず「虞美人草」「三四郎」と書き「門」「それから」「明暗」の三部作へと続いていった。これは講師の受け売りである。

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2010年6月20日 (日)

愛染かんつら

愛染かつら

愛染かつらは、川口松太郎の小説で、医者と子持ちの看護婦との恋愛小説である。

松竹で上原研と田中絹代の主演映画を上演して空前の大ヒットをとばした。

小説の題名の「愛染かつら」は信州㋨鎌倉、別所温泉の通商北向き観音の境内P925000545_2 P92500043_3 にある愛染明王の前の「かつらの木」から名付けられている。

北向き観音の境内にある高殿の下には、花柳章太郎、池内淳子などの記念碑がある。

P1020026111 北向き観音と善光寺は遂になって参詣する風習があるので、小説にも善光寺がでてくるらしい。

私の小学生の頃、「愛染かつら」のロケで゛長野にもロケ班がきて撮影したようである。お袋の話によると我が家の川向いのおばあさんが独りで住むこじんまりとした家が女主人公(田中絹代)の実家という設定で撮影したようである。

おばあさんは当時九十何歳かで、よく裁縫をしていた。おばあさんの保護者は善光寺の院坊の一軒が面倒を見ていた。

愛染かつらの主題歌「花も嵐も踏み越えて、行くが男の生きる道、泣いて呉れるなほろほろ鳥よ、月の比叡を独り行く」という流行歌が、世を風靡していた。

映画の続編の主題歌「かわいいお前が有ればこそ、母はお前をただ頼み***」

もはやっていた。ある時お袋の叔母がその院坊の娘を連れて我が家へ遊びに来た。娘は数え年四五歳のかわいい盛りであったが、我が家にあった木の箱の上に乗り「花も嵐も踏み越えて***」と歌いだした。その可憐なこと今でも瞼に焼き付いている。

「愛染かつら」の歌について、サトウ・ハチロウが「ほろほろ鳥は世の中にいなくて、歌詞を作詞している時ほろほろ鳥ても入れたらどうかと助言したのだ」と云っていた。

しかし広辞苑には「ほろほろ鳥(ちょう)」が載っていて「キジ目ホロホロチョウ科の鳥。尾羽は短い。頭は裸出、頭に赤食の角質の突起がある。普通暗灰色で、多数の白羽がある。アフリカの草原で群生。肉は美味で飼育される」と書いてある。

アフリカ産なので世の中にいないと勘違いしたのか。

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2010年6月19日 (土)

徳富蘇峰-歴史観

徳富蘇峰

広辞苑には、徳富蘇峰をジャーナリスト・著述業。名は猪一郎。肥後の生まれ。蘆花の兄。と紹介している。

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2010年5月18日 (火)

おごる平家は久しからず

おごる平家

「祇園精舎の鐘の声、諸行無情のことわりを現す。おごれるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し。遠く異朝を訪ろうに秦の始皇帝***」と平家物語の巻頭を飾る名言である。

戦後の日本は諸外国に追いつけ、追い越せで努力をしてようやく立ち直ったが、今の日本は老若男女贅沢品やグルメに走り見聞を広めるだけでなく、連休と云えば当然のように海外旅行をして贅沢三昧である。

昔は蟹、伊勢エビ、ウ二、イクラなどは庶民の口には入らなかった。それが毎日たらふく食べて、マグロの漁獲制限に一喜一憂している。そんなものは食べなくても食に差し支えることはない。

コンビニなどでは賞味期限が過ぎたからと云って食品を廃棄処分をしている。衛生上の問題だと云うが賞味期限が過ぎてもすぐ腐敗するものではない。

それに引き換え諸外国には、餓死する人も多い。のど元過ぎれば熱さを忘れるではないが、終戦後の食糧難が過ぎると直ぐ贅沢に走る。

おごる平家と同じように、「おごる日本も久しからず」である。

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2010年5月 4日 (火)

吉屋信子邸

吉屋信子邸

吉屋信子は、戦前には少女小説を書いていたが、戦後になって「地の果てまで」「良人の貞操」「安宅家の人々」「徳川家の女ちたち」を書き表していた。

吉屋信子邸は、春と秋の二回公開をしている。

P60300088_2 P603000772_2P60300011_3 P60300033_4      鎌倉在住の作家たちと同様彼女の屋敷も平屋作りの簡素な家で、広い庭を所有している。庭はよく手入れされていて、広い庭には、吾妻屋もあって趣がある。P60300055_5 3_3 P60100026_2

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2010年4月27日 (火)

有島三兄弟

有島三兄弟

有島三兄弟は兄を有島武郎、次男を有島壬生馬(みぶま)ペンネームを生馬、末を里見惇(本名山内英夫)言う。

有島武郎

武郎は白樺派の同人で、大学教授から作家になり、「ある女」「カインの末裔」を書いている。人道主義者で北海道の牧場を開放し戦後の農地解放のさきがけをしている。

奥さんを亡くした後、婦人公論の記者波多野秋子の誘惑に負け、人妻との姦通罪をで訴えられるか死を選ぶかの難局に立たされ、遂に死を選び軽井沢の彼の別荘で心中をしてしまった。

武者小路実篤は「俺の図太さの詰めの垢でもやりたかった武郎さんに***」と云っている。息子の一郎は俳優の森雅之である。

有島生馬

生馬は洋画家であり、春陽堂の明治大正文学全集には壬生馬の名前で小説が載っていた。

里見惇

里見惇も春陽堂の明治大正文学全集に「多情仏心」が載り、その経歴は今でも覚えているが、母親が有島家で里見惇を身ごもっている時、母の姉妹の山内家で跡取りがなくなり、「お腹の中にいる子を山内家に養子にほしい」と云って養子にし、子供の頃は有島家で育つたと記していた。成人して「うちの財産はどれほどあるか」の問いに叔母さんは「お前が一生暮らせるくらいはある」と云われて作家を目指したと書いていた。

里見惇の息子は松竹大船に努め、退職後鎌倉ケーブルテレビの社長をし、その後鎌倉文学館の館長をしている。

しばしば鎌倉で「鎌倉の教育を良くする会」主催の講演会が開かれているが、その会の司会者に山内という女性がいる。きっと里見惇の孫か孫のお嫁さんに違いないと確信している。

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2010年4月19日 (月)

大仏次郎邸

大仏次郎邸

大仏次郎は、本名を野尻清彦といい「鞍馬天狗」「赤穂浪士」「パリー燃ゆ」などを書きP11200011 P11200022 文化勲章を受章している。大仏邸は毎年春・秋の二回公開しているが、他の邸宅と異なり、現在も野尻一家が住まっていることである。

鎌倉八幡宮に通じる「段葛」(将軍源頼朝が、政子の無事出産を祈願して作った道で春は桜の名所)となっていてこの道と並行な八幡宮に向かって右側の道路の中P11200033 間を右手に曲がって少し入ったところに邸宅がある。

他の鎌倉に在住した作家と同様に庭が広くて平屋建ての質素な邸宅である。

なお大仏次郎の兄は「野尻ほうめい」という高名な天文学者である。

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