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2010年9月27日 (月)

方言

方言

「青い山脈」「若い人」などの作家石坂洋次郎は、以前青森訛りの方言を卑下してい

たが、のちになって東北弁は愛すべきものだと悟ったと書いていた。

話は変わるが、信州の方言で最たるものは「ずくなし」がある。これは役に立たない

者、怠け者、不精者といういう意味である。

信州の小学校の運動会のプログラムに、「トピックラ」がある。広辞苑に「飛びくら」

ある。これは「飛び競らべ」「走り競争」の意味である。高校の先生は「トピックラ」

は信州特方言だと笑っていた。

名古屋の方言に「やっとかめ」がある。これは「八十日ぶり」すなわち久しぶりだと

う意味である。

名古屋屋弁は汚いという定評があるが、おしとやかな商家のおかみさんの名古屋

弁「やっとかめだなも」の話し方はなかなか優雅なものである。

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2010年8月 5日 (木)

横文字の氾濫

横文字

最近の横文字の氾濫は目に余るものがある。

町の広告、新聞記事、新製品の名前等各種である。

付近の街のパチンコ屋ので、PALAZZO という店がある。かねてなんという意味か

問に思っていた。あるとき家で英語、独語、仏語、露語の辞書で調べるが発見で

きない。

パチンコ屋に通うお客さんも店の店員も正確な意味を知る者はいないのではなか

うか・誰にも理解されない名前を付けて独り悦に入っているオーナーは何を考えてい

だろうか。カタカナ辞書で調べるも分からない。

最後に電子辞書の複数の辞書を一括して調べる一括検索に書き込むと、パラッツ

ォは「イタリヤ語で[邸館]を意味する。ルネサンス期のイタリヤでは富裕な市民によ

り、都市の街路に面して大規模な[邸館]建てられ、これをパラッツォと呼んだ。これ

住宅にモニュメンタルな性格を与えたものであり、中庭をとり、これに面して、3か

ら4層の階をめぐらして、二階以上を居室にあてる。道路面の外観はルスチカ様式

様々なオーダーを用いて層ごとに表現を変えるのが普通である。有名な例にパラ

ツォ****、パラッツォ・メヂィチ、パラッツォ****などがある。」とありまた電子辞書

頼らなければならなかった。パラッツォには高尚な意味があることは分かったが、

誰に理解されない名前を付けるのはどんなものか。単純に館(やかた)としてはどう

か。

また今日の新聞の朝刊の携帯型カーナビの記事とで某社製品のカロッツェリアがあ

たが、カロッツェリアもイタリア語で「[車]車体を専門に制作する工房で、最近はデ

インなども請け負う」とあった

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2010年6月30日 (水)

楽しい中国語体験

中国語体験

中国語の初歩を学んだのは、今から三十年ほど前で、たまたま街の電柱の「中国語の初歩を学びたいものは応募するように」という」張り紙を見て入会したものである。F10000021920

講師は明治大学の先生で、学生は街に住まいの男女で中に先生の令嬢の高校生もいた。会場は街の公会堂や空きのない時は先生のお宅で行われた。

当時は毛沢東の文化大革命の全盛時代で、教科書の中国語はその頃流行りの簡体字にピンインのあるもので、文中には革命の同志たちの会話がちらほら見受けられた。

初めての中国語の初歩を学んだ感想は、語学は東洋の国の言葉が欧米の言葉より取りつきやすく親しみやすい云うことであった。

其の翌年年賀状は、中国語で書いて出すように義務付けられ書けなかったらこのような文を書くよう例文を教えてもらった。新年がきて、受講生の先輩から年賀状が届いたが、例文を紛失してしまい日本語の年賀状を返信した。

「白頭翁を悲しむの一節「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」とでも書いて出せばよかったが、後の祭りでそれ以来中国語の講座を受講したことがない。

今回は30年ぶりの中国語講座である。この回の講座は市の広報で知り、往復はがきで応募し、一か月くらいかかって講座受教許可の通知が来た。

講座名は「楽しい中国語体験」日時は週1回で6日間、場所は市役所の支所の生涯学習センターで、講師は大学院博士課程在学中の留学生であった。

講師は男子留学生だとばかり思っていたら女子留学生で、なかなかの才気あふれる佳人であった。

第1日目は「中国語学習のガイダンス」で「四声と軽声」の発音の仕方を学び後はCDで中国の現状を知り、第2日目は「母音と子音の発音」を学び後は中国の食べものを垣間見え、第3日目は「発音の復習と漢字の意味の比較」でその後中国人の日常生活をCDで鑑賞。第4回目は「声調、母音、子音」の復習と日本語と中国語の外来語発音の違いとCD鑑賞。第5日目は「母音と子音の発音の復習」と中国と日本の四字熟語の異同とCD鑑賞。最後に「北国の春」を中国語で朗読し、中国語で歌った。

音痴の私は「北国の春」を中国語で皆で歌うときは何とかついて行けたが、家へ帰って中国語で歌うと歌にならず気がつけば日本語に戻っている状態であった。

第6日目は発声の復習と「京劇」の一部を鑑賞し「中国語で漢詩を読む」で、項羽の「がい(土辺に核の木辺を除く)下歌」、王翰の「涼州詞(葡萄の美酒、夜光の杯***)」の漢詩と李白の「早に白帝城を発っ」の(朝に白帝城を辞す***)の漢詩である。いずれも中学生時代漢文で習ったものである。特に「葡萄の美酒、夜光の杯***)は漢文の先生が中国語で朗読してうっとりと聞いた昔を思い出した。

女子留学生の講師も朗々と朗読していた。漢詩は中国語で朗読するものだと再認識した。韻を踏んで歌を歌ているようである。

「中国語体験講座」は楽しく有意義な六日間であった。以前中国語を学んだ時より中国語の発音は上達したと思う。

ご苦労さまでした。

  

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2010年5月10日 (月)

長嶋、島と山冠に鳥の「しま」山冠に

長嶋、島と***

野球の長嶋は以前は長島であった。「しま」は嶋、島と山冠りに鳥の「島が有るが、いずれも「しま」でどれを使っても正しい。このような漢字は沢山ある。

山崎の「さき」も崎と嵜もいずれも正しい。峰村の「みね」も峰と峯が有るがどちらも正しいのである。蘇東波の「そ」も蘇と蘓のように魚が右に来ても左に来ても正しく、これは中国でも日本でも同じである。

日本からいなくなった「とき」も朱遍に鳥の鵇でも朱を冠にして鳥を書いても「とき」で正しい。しかし現在は略字の鴇もある。また二字になるが朱鷺とも書く。

漢字は歴史が有るだけに奥深いものがある。

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2010年3月29日 (月)

村八部

村八部

昔富士見高原病院(結核療養所)の院長、正木不如丘の小説「木賊(とくさ)の秋」を読み村の掟を破って「村八部」になり、村から追われる幼い姉弟に同情したものであった。戦後になっても「村八分」に合い村を追放される「非民主的な話」としてしばしば新聞記事に載っていた。

しかし、後年国士舘大学の樋口清之教授の「梅干しと日本刀」の「村八分」を読み規正概念を改めざるを得なくなった。

「梅干しと日本刀」では「村八部」は読んで字の通り村人との断絶は、「十部」でな「八部」であると言う。

「十部」とは「出産・成人・結婚・葬式・法事・病気・火事・水害・旅立ち・普請」の総て断絶するのではなく、八部は断絶するが「葬式と火事」の二部は残すと云う意味で、絶縁はしても「家族の中に誰か死んだ時は村中の人たちが手伝って悲しみを共にし、火事に遭った時も皆で手を貸して手伝うという意味である」と。つまり絶縁はしても悲しい出来ごとだけは、分かちあうというのが「村八部」でこんな心やさしい風習世界に類を見ないと書いていた。

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2010年3月26日 (金)

漱石

漱石

小説家夏目漱石はペンネームであり、本名を夏目金之助という。小説の中にも書かれているが、漱石は養子に出され、後に実家に引き取られている。

漱石の生まれたと場所は新宿の菊井町であるが、記憶が正しければ、菊井町の町名はむ漱石の父が付け親で、菊は漱石の実家の紋どころで、井は確か屋号であったように覚えている。

漱石はこれを嫌っていた。漱石の出典は漱石枕流(そうせきちんりゅう)(石に口をすすぎ流れに枕す)だと推測している。昔読んだ中国の故事に正しくは漱流枕石(そうりゅうちんせき)(流れに口をすすぎ石に枕す)を誤って上記のように云い「石ですすぐのは歯を磨くためであり、流れに枕するのは汚れた話を聞いた耳を洗うためだ」とこじつけて言ったことから「こじつけ」という言葉になったと読み、一言居士の漱石ペンネームにはピッタリだと確信した。

今日ブログを書くに当たり、四字熟語引くとまさにその通りで「夏目漱石のペンネームは、この故事に由来する」と書れていた。

夏目漱石と正岡子規の交友は、有名であるが漱石が俳句を作ると子規は添削し、漱石が漢詩を作るとこれまた添削し、漱石が英語の詩を作ると黙って「べリグッド」と書いて帰したと言う。

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2010年3月19日 (金)

一所懸命と一生懸命

一所懸命と一生懸命

昔の辞書には一所懸命はあるが、一生懸命はない。小学校でも一所懸命は習ってたが一生懸命は習っていない。この区別は戦後も続いた。一所懸命は武士たちが所有する土地を守るために命を懸けたことに語源が有る。武士は加増は勿論うれしいが知行安堵に命を懸けていたことが分る。

戦後朝日新聞社?で入社試験に一所懸命を出したところ一生懸命と書い者がいると言って新聞種になっていたが、最近は一生懸命も市民権を得て辞書にまで載るようになってしまった。しかし広辞苑では「イッショウケンメイは(一所懸命)の転と書いている。

これと同じような例に「洗條と洗浄」がある。前者は「せんでき」と読み後者は「せんじょう」と読み区別していた。「胃を洗條(せんでき)」するのように。しかしいつの間にか混同されて区別がなくなってしまった。

これとは違うが「完璧(かんぺき)」は戦後当用漢字が出てから「完壁」と書いて「かんぺき」と読ませていたが、そもそも成りたちが中国の「玉を無事に持ち帰った」ことから完璧という字が出来たので、ワープロの普及により元の「完璧」に戻ってしまった。

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2010年3月 7日 (日)

量(はか)り売り

量り売り

現在は見かけなくなったが昔は量り売りが多かっちた。量り売りを上げると限がないが酒、醤油、味噌、豆腐、野菜類、油、駄菓子等がそうである。豆腐や味噌は丼や鍋を持って行って買うか、豆腐売りが自転車で豆腐を売り歩き丼、鍋を持って買いに出ていた。味噌醤油は店やに一升瓶を持って買いに行くか、御用聞きが配達したが、一升瓶は持ち回りであった。

酒も一升瓶を持って店やに行って量り売りで買った。野菜類は農家の主婦がリヤカーに野菜を積んできてて売りさばき目方は小型の天秤量りではかり、風袋(量る時入れるかご)の重さを差し引いて勘定をした。そこにはつと(藁の包み)に入った納豆もあった。昔の納豆は自然発酵で藁のっとに煮豆(大豆)を入れて放置すると納豆菌が自然について納豆になった。

現在はプラスチックの入れ物に煮豆を入れて納豆菌を注入して人工で納豆を作るようになった。

駄菓子類も別な秤で風袋を引いて勘定をしていた。

油も量り売りであるが、菜種油、ごま油でも一斗缶の油を小型な升のひしゃくで油を量って持参の瓶にジョウゴを差し込み前期の柄杓を傾けて油が瓶に落ちるまで待った。この時は小母さんが学校の出来事や放課後のできごとを聞いて待っていた。主婦であれば世間話に花が咲いたのであろう。この待ち時間の事を「油を売る〕と云い遂にはさぼってだべることも「油を売る」と云うようになった。

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呼称の変遷-小母さんからお姉さんへ

呼称の変遷

たった五十年しか経っていないが、人への呼び方の変化は目まぐるしいものがある。

現在のおばさんたちは「小母さん」と呼ばれるのを嫌って年も考えずに「お姉さん」と呼ばせて悦にいっている。昔は目上の人に対しては名前で呼ぶのは失礼であると、わざわざ「小父さん、小母さん」と呼ばせ、その子よりちょっと上の人を「お兄さん、お姉さん」と呼ばせていた。

しかも父母の年上の兄弟を「伯父さん、伯母さん」と呼び父母の年下の兄弟を「叔父さん、叔母さん」と呼んで区別していた。

また今では妻女を総て「奥さん」とネコでも杓子(しゃくし)も呼ぶが、お袋ははっきり区別していた。「奥さん」は医者、弁護士、教師の妻女と月給取りの妻女だけで、商人の主人は旦那様、ご主人様、大将(たいしょう)で、その妻女はお上さん、御新造(ごしんぞう)さんたまには女将(おかみ)と呼び、農家の妻女はお上さんと区別して呼んでいた。

現在も変わらずに旅館や料亭の女主人を女将と呼んでいる。

私の姑は、名古屋弁で「おみゃ様(お前様)」と呼んでいたが、近世までは「お前様」は目上の人を呼ぶ敬称であったが、現在は「お前」は目下を呼ぶことになってしまった。また軍隊で日常使われた「貴様」も近世は目上の人を呼ぶ敬称であったが、現在はもっぱら目下を呼びつける言葉になり下がってしまった。

またやくざや水商売の女給、ホステスなどを「お姐さん」と呼ぶが戦後しばらくしてある若い女性が「お姐さん」と呼ばれたと言って怒って新聞に投書をしていた。

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2010年2月19日 (金)

日本武尊とその地名の由来

日本武尊

日本武尊は倭建命とも書き「やまとたけるのみこと」と読み古事記、日本書紀に書かれている伝説上の人物で、小学校の国史では歴史上の英雄として教えられた。

日本武尊は、景行天皇の皇子で小碓尊(おうすのみこと)と云い、父天皇から嫌われ九州の熊襲建(くまそたける)征伐に出され女に身をやつし建を刺殺した。建は瀕死の状態で小碓命の勇気を称えて「日本武尊」を名乗ることを進言した。

京都にもどった武尊は直ぐ東征を命ぜられる。先ず伊勢神宮に立ち寄り斎の宮の叔母、倭姫命(やまとひめのみこと)から三種の神器の一つ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を授けられた。この剣は出雲神話では天照大神の弟素戈鳴尊、須佐之男命(すさのおのみこと)が頭が八で尾が八の八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して体から取り出した剣である。 素戈鳴尊は凶暴で高天原で狼藉をして天照大神が天岩戸に身を隠したことは有名な話である。古事記の尊の歌「八雲たつ出雲八重垣***」は世に知られている。ラフカディオ・ハーン事小泉八雲は小泉は奥さんの姓で八雲はこの歌から取った。

武尊は東征を進め現在の静岡県で草むらに火で焼き殺されそうになった時この剣で草をなぎ助かった。そこでこの剣を草薙の剣とも言う。さらに進んで相模国の走水で暴風雨にあい船が沈みそうになった時、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が身代わりとなって入水し海神の怒りを鎮めた。そこで碓井山に差し掛かった武尊は「ああ我が妻恋し」と云ったと神話に書かれている。そこから引き返して伊吹山で神を退治すると山に登るも神のたたりで雹(ひょう)に打たれ、霧に巻かれふらふらになって下山した時は足は「三重」に曲がり能褒野(のぼの)で亡くなり白鳥になって飛び去った。

これが日本武尊の伝説である。これを哲学者梅原猛は戯曲「ヤマトタケル」で書き表し、市川猿之介が歌舞伎で上演した。

日本武尊を祭神の神社を以前見たと思って探したが見っからなくて、素戈鳴尊が祭神名のは出雲大社もそうかと思っていたが、書いてなく八坂神社と埼玉県の氷川神社四国の剣神社であった。

地名の由来

九州の熊襲から熊本県と球磨川を命名している。

また静岡県の焼津と草薙は草むらを焼いたことと、剣で草を薙いだ事に由来している。相模で妃が入水した後を碓井山で相模灘の方向に向かって「吾妻恋し」と嘆いたので関東を東(あずま)と云い碓井山を信州と上州の境の碓井峠として、信濃の国の歌では「あずまはやとし日本武尊(やまとだけ)嘆きたまいし碓井山うがつトンネル二十六***」と歌い、群馬県の万座は吾妻郡嬬恋村(あがつまぐんつまこいむら)と呼び、さらに武尊山(ほたかやま)まであって、長野県と群馬県の境には四阿山(あずま山)が、また福島県と山形県の境にも吾妻山(あづまやま)がある。

しかし碓井峠では相模灘は遠すぎると兼ねて思っていたら箱根山にも碓井山のあることを知りこれこそ碓井山だと納得した。

伊吹山の神のたたりで足が「三重」に曲がったことから三重県の名が付けられた。このようなスケールの大きな神話はそんなにはないのではないか。古事記、日本書紀を読見直すのも面白いでわないか。むかし日本武尊の業績は何人かの業績を一人にまとめたものと気ぃた事がある。

なお草薙の剣は熱田神宮の御神体である。なお補足すると三種の神器は「やたの鏡」「八坂にのまがたま」「天叢雲剣(草薙の剣)であるが、源平の屋島の合戦で安徳天皇ととも三種の神器は海に沈み剣、だけは上がらなかったことになつている。

カテゴリーを歴史から言語に変更しする。

地名ではないが、公園などでよく見かける四方へ「のきを葺きおろした家屋または入母屋づくり」を四阿、東屋、阿舎と書いていずれも「あずまや」と読むのも「あずまはや」に由来して「東国風のひなびた家」の意味だそうだ。

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