歴史

2012年4月29日 (日)

中尊寺

中尊寺Img_03851

先日バスツアーで、仙台の奥座敷秋保(あきう)温泉一泊二日で、中尊寺を

詣でてきた。バスは、強行軍で行きは秋保温泉まっしぐらで、翌日は毛寺

(もうつうじ):経由中尊寺を参詣し、他はトイレ休憩と昼食で一路まっしぐらに千二百キロメタ

ー弱を走破する強行軍であった。以前毛越寺を訪れたときは、何もないだだ広いImg_03808 Img_03813 庭園だ

と記憶していたが、寺院やImg_038217 Img_038415 Img_038613 入口の門が整備されていた。

人口池の

園さすがと思はせるもの

あった。次は中尊寺であるが、入口から入らず中尊寺の光堂近くでバスを降り中尊寺を

して回った。Img_039616 Img_039718 Img_04001 光堂は撮影禁止なので、リーフレットからコピーした。

Img_039514_2 Img_041012  帰りは、中尊寺の入り口

で歩い

レストハ

スで昼食にずんだ餅など各種雑煮わ食べて一路岐路に着いた。ああ疲れた。

次回は讃岐の金比羅さんを予定しているというが、あの階段をあるく

のでは遠慮したほうがよさそうだ。

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2011年10月13日 (木)

誕生日

誕生日

子供のころは、現在のように誕生日を祝う習慣がほとんどなかった。

当時は、年齢を数え年で数えていた。数え年は、大晦日(十二月三十一日)にすべての人

年を一つとる方式てあった。そこで大晦日は、現在の誕生日のようにお祝いされていた。

我が家でも子供の私もこの日ばかりは、浅く小さな杯(現在の杯の十分の一位)にいっぱ

いの酒がふるまわれた。年越しのそばはも大晦日に忙しい商家の習慣であろう。

現在のように歳を満年齢で数えるようになったのは、戦後間もなくである。

元服する武士の慣習は、数え年で十八歳で、現在の満十六七歳で大人として扱われた

る。現在の若者は、十六七歳は洟垂れ小僧である。

白虎隊の少年は、元服前の数え年十五歳から十七歳の少年で満年齢で十三歳から十

歳の若さであった。

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2011年8月29日 (月)

出世した人々がよく使う言葉に「運」よくとか、「運」に恵まれてという言葉をしばしば耳にす

る。「運」もよかっちたのであろうが、七分ぐらいは、本人の努力・実力で後の三部は「運」に

よるものである。

私の職場の先輩でよく「運も実力のうち」と言っていた。

日露戦争の時の連合艦隊司令長官東郷平八郎が連合艦隊司令長官になったとき、明治

天皇は、山本権兵衛(ごんのひょうえ)海軍大臣に「東郷で大丈夫か」のご下問に山本は

「彼は運の良い男でご座います」と答えている。

今次大戦の連合艦隊司令長官山本五十六は阿川弘之によると「賭けの好きな山本は、運

に見放されたギヤンブラーの運命を知っていて最後は運命に準じた」と書いている。

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2011年6月15日 (水)

植民地政策

植民地政策

欧米列強の植民地政策と後進の日本の植民地政策は、明らかに違いがある。

欧米列強は、「1.植民地の人々を無学文盲のままにした。2.から香辛料、ショ糖などを搾取

た。3.植民地の発展は考えず彼らの住みよい街とした。」

それに対して「1.日本は、2植民地に教育を施した。2.日本の一流の政治家たちを総督府

に送り3.植民地の発展のための施策」をした。

植民地の教育は日本に七帝国大学があったが、朝鮮の京城に京城帝国大学を台湾の

台北に台北帝国大学を創設して九帝大とした。また台北には台北高等学校を置いた。

日本の傀儡政権と言われた満州には、建国大学、旅順工科大学をおき、内地の学生と植

地の人々を教育した。

北帰行の一節にも「建大、一高、旅工追われ闇を旅ゆく***」という下りがある。

台湾総督府には「乃木大将、児玉源太郎大将、後藤新平医局長」をおくり

朝鮮統監は「伊藤博文」などである。

また朝鮮の政策では、鴨緑江ダムを設け東洋一の発電力を誇った。

満州では、満州鉄道(満鉄)をつくり、人材を終結して夢の超特急亜細亜(あじあ)号東洋一

を誇るスピードを謳歌した。

また満州の鞍山には東洋一の採掘所を誇った。

教育の普及は植民地だけでなく、シナにも大東文化学院を近衛公麿の父篤麿が゛つくり二

代に渡り秀才を集めて教育した。

第一次世界大戦でドイツから日本の委任統治となった「マーシャル諸島、カロリン諸島、

マリアナ諸島、トラック諸島」などの老人の島民が戦後何十年もするのに小学唱歌を覚え

ていて日本人を驚かせていた。これも教育の成果の一つではなかろうか。

朝鮮と台湾は、同じに扱ったのであるが評価は二つに分かれる。

韓国、北朝鮮は、日本に差別されたことだを訴えている。

それに引き換えて台湾を日本の善政に感謝している。

韓国は初代の李承晩大統領の怨念にも影響していると思っている。

満州から引き上げてきて、名古屋の市の助役になった人が、焼け野原の名古屋に満州

をモデルにして百メートル道路を作り将来にかけていた。

南洋の歌に「私のラバさん酋長の娘色は黒いが南洋じゃ美人、赤道直下マーシャル群

島ヤシの木陰でてくてく踊る***」という歌があった。

どこかの国のように儲かればアヘンも売りアヘン戦争をを起こし香港を百年租借した国

もある。

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2010年9月26日 (日)

大銀杏

大銀杏

先日鶴ヶ岡八幡宮へ行ってきた。八幡宮は人出でにぎわっていた。

0133_2 小学唱歌「鎌倉」で「上るや石のきざはしの左に高き大銀杏問わ場

0178

や遠き世世の後」と歌われた大銀杏は大風で根っこ

を残して横倒しにになった。八幡宮は根っこはそのま

ま残し倒れた巨木はやや低い平のところに立てておい

たところ巨木と根っこはそれぞれ銀杏の芽が芽吹き老木の生命力には感心させら

れた。

0212302212

0231  

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2010年9月 8日 (水)

宮崎滔天

宮崎滔天

宮崎滔天(とうてん)を辞書で見ると[中国革命運動の援助者。名は虎蔵・寅蔵。熊本

生れ。孫文と深く交わり、その革命運動を支援。自伝「三十三年之夢」]ある。

滔天は肥後荒尾村のむ豪農の末っ子として生れた。少年時代滔天は徳富蘇峰の大F100000312

江義塾や東京専門学校(現早稲田大学)キリスト教の伝道学校に学

んでいる。

滔天の後半生は兄弥蔵の影響である。弥蔵は中国革命からアジア

革命を志していた。滔天は中国や香港、タイなどで様々な活動をする

成果はなかった。兄弥蔵の死亡の翌年犬養毅(いぬかいつよし)の援助のもとで

国革命の活動を開始した。

著書「三十三年之夢」はシナ浪人の生態が描かれている。その後滔天は孫文と知り

いその人物に傾倒する。以後交友を深め、中国革命の志士たちへ無私の援助

を始める。孫文らと共に香港へ行き滔天は即座に退去命令を受け直ちに武装蜂

起すべきだと孫文と激論した。これは滔天の主張は無理だったが同志の一部が

挙兵して失敗した。これは滔天にとって大きなショックであった。

失意の滔天は浪曲中興の祖桃中軒雲右衛門に入門し、各地の寄席に出演して

いる。その中国では学生を中心に革命への機運が高まっていった。

彼らは次々に来日し滔天宅は中国人留学生の来訪が絶えなかったという。

滔天は彼らの指導者の一人黄興を孫文に紹介し、中国革命同盟会の設立に奔走

した。辛亥革命が勃発すると滔天は中国に渡り、南京政府の設立に尽力した。

だが結局袁世凱(えんせいがい)に権力を奪われてしまう。

晩年滔天は自分の中国革命への関わり方に自己批判的になっている。

滔天の息子宮崎竜介と柳原白蓮のロマンスは一時世間を騒がしいている。

F10000011 F10000022柳原白蓮は本名柳原燁子(あきこ)といい華族柳原伯爵の妾の子

であるが、柳原邸で育てられ、女子学習院へ行って

いるが、幼くして強制的に結婚させられたが、間もな

く離婚して柳原邸へ戻って生活したが、それはみじめ

なものであったようだ。

その後九州の炭鉱王で老人の伊藤伝右衛門の後妻に政略結婚させられる。

伊藤伝右衛門の屋敷は、銅の屋根ぶきで「あかがね御殿」と言われていた。

しかも財布は、女中頭で妾に握られ、さながら「かごの鳥」のようであったという。

そこへ帝大生の宮崎竜介が訪ねてきて、二人は恋に陥りついに「公開絶縁状」

を新聞に掲載して二人は駆け落ちしてしまう。

F100000334 二人は結婚し、のちに宮崎竜介は衆議員に立候補する。私は当

選したものと思っていたが、落選したようである。

二人は一男一女を設けている。

先年テレビで宮崎某という東大教授が「我が家は、孫文や中国革

F100000456の志士が来訪している」と言っていたのでてっきり宮崎夫妻の子

供と思っていた。しかし夫妻の長男は早稲田大学政経学部に進んだ

が、学徒出陣で鹿児島県鹿屋の特攻隊基地に配属され、終戦の四

日前爆撃で戦死している。

白蓮の胸に息子の戦死は癒せない痛手であった。翌年彼女はNHKの放送で、戦

争で子供を失った悲しみと、恒久平和を願う心を切々と訴えたという。

民放のテレビで見た東大教授は彼女の息子でなく、娘婿であったようだ。

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宮崎滔天

宮崎滔天

宮崎滔天(とうてん)を辞書で見ると[中国革命運動の援助者。名は虎蔵・寅蔵。熊本

生れ。孫文と深く交わり、その革命運動を支援。自伝「三十三年之夢」]ある。

滔天は肥後荒尾村のむ豪農の末っ子として生れた。少年時代滔天は徳富蘇峰の大

江義塾や東京専門学校(現早稲田大学)キリスト教の伝道学校に学んでいる。

滔天の後半生は兄弥蔵の影響である。弥蔵は中国革命からアジア革命を志してい

た。滔天は中国や香港、タイなどで様々な活動をするが成果はなかった。兄弥蔵の死

亡の翌年犬養毅(いぬかいつよし)の援助のもとで中国革命の活動を開始した。

著書「三十三年之夢」はシナ浪人の生態が描かれている。その後滔天は孫文と知り

いその人物に傾倒する。

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2010年8月18日 (水)

上杉鷹山

上杉鷹山

ケネディ米大統領であったか、来日の第一声が上杉鷹山の事績に触れていて大変

いた。私が上杉鷹山を知ったのは、小学校の修身か読本の教科書で教えられて

からである。

上杉鷹山は、名は治憲といい日宇が高鍋藩士の二男として生れたが、米沢藩主重

F10000011 の養子となり財産欠乏の米沢班の改革を進め殖産に努めた。

上杉家は上杉検診以来の名家であるが、関ケ原の合戦に敗れて会Shinocimg0302

百二十万石から米沢三十万石へ減知、転封されShinocimg0302_2Shinocimg0289

らに十五万石に減らさ

れて、藩財政は逼迫して

Shinocimg038111 いた。上杉鷹山は、藩政の改革本部を設けて、費用の大削減を実

行した。養蚕を奨励し、のちに名産となる米沢織を生産した。また儒

学者細井平洲を米沢に招き藩校を開いて文教政策に力を注いだ。

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2010年8月15日 (日)

大東亜戦争

大東亜戦争

今日は、終戦記念日だ。終戦の日のカッカと照りつける太陽を六十五年もたった今

も昨日のことのように思い出す。もうそろそろ大東亜戦争の真の評価をしてもよい

ころだと思うが***。「盗人にも三分の理」というが、三分どころがもっとあると思う

が。今次大戦の呼び名は三種類ある。日本は大東亜戦争。米国は太平洋戦争。そ

れ以外の国々は、第二次世界大戦。しかし最近になって東南アジア太平洋戦争と呼

んではどうかという意見もあるようだ。大東亜戦争とは、「大東亜共栄圏」のための

戦いという意味である。「大東亜共栄圏」を現在の辞書で引くと「太平洋戦争期に日

本が掲げたアジア支配を正当化するためのスローガン。欧米の勢力を排除して、日

本を盟主とする満州・中国および東南アジア諸民族の共存共栄を説く」とある。

事実当時の東アジアは欧米支配の植民地で、独立国は日本・満州・支那・タイ

くらいで、支那も主だった都市は欧米列強の租界地で支那人は自国にも関わらず出

入りできなかった。

戦時中日本は、米国支配のヒリッピン、英国支配のビルマ、マレー(現マレーシヤ)、

オランダ支配の蘭印(現インドヤ)、支那と満州を含めた六か国の首脳を東京に集め

六か国会談をしている。当時の欧米列強では絶対に考えられないことである。

しかも戦後まもなくから日本がスローガンのように植民地が解放され、それぞれ

立して現在に至っている。。大東亜戦争はいいかえㇾば、欧米列強から植民地を解

放するための戦いであったともいえる。げんにに林房雄は「大東亜戦争肯定論」を

書い大東亜戦争を肯定している。

広辞苑で「林房雄」を引くと「小説家。本名、後藤寿夫。大分県生まれ。東大中退。

プロレタリア作家として活動。小林秀雄らと「文学界」を創刊。のち浪漫主義的民族

主義に転向。作「青年」「息子の青春」、評論「大東亜戦争肯定論」などある。

中曽根元首相たちは、何の弁明もせず「評価は百年後の歴史に待つ」といい続けて

いた。

大東亜戦争は日本が仕掛けた戦争のように言われているがさに非ずである。

日本は支那事変を終結できずに困惑していたが米国はかげから、蒋介石政権(重

慶)に武器、弾薬、飛行樹を送って戦争を援助していた。

さらに経済制裁とて.A,B.C.D.包囲陣を敷き、Aはアメリカでヒリッピン群島、Bはブリ

ティッシュ(イギリス)でインド・ビルマ・マレー、Cはチャイナ(支那)で支那大陸、Dはダ

ッチ(オランダ)オランダ領インドシナの諸島で日本を完全に包囲して経済を封鎖し、

日本に石油の輸入ができないように締め付けてきた。当時の日本は「石油の一滴

は、血の一滴」と言われ石油の節約を強いられた。しかも米国は日本との和平交渉

にも乗らず、日本は来栖(くるす)駐米大使のほかに、野村全権大使を派遣して交渉

るが、ハル国務長官は「日本は、無条件で支那大陸から引き上げれば交渉に応

ずる」と最後通帳を突き付けて会談に臨もうともしなかった。戦後ルーズベルト大統

領の前任のフーバー元米大統領はこの大戦は米国が仕掛けた戦いと看破してい

た。

石油が不足して困った日本陸軍は、大戦が始まると石油の生産地蘭印(現インドネ

シア)のスマトラ島のパレンバンに落下隊で突入し石油を確保した。

このような米国の正義感に燃える態度は、戦後になっても二度経験している。

それはイラン戦争とイラク戦争の勃発時の米国の強硬な姿勢である。

そうは言っても終戦時米国が進駐で日本は助かっている。あれがソ連であったら日

本はずたずたにされていたであろう。

最近買った本で知ったのだが、マッカーサー元帥が東京裁判終結後の約二年半後

にアメリカ上院の軍事外交合同委員会で日本が戦争に突入した動機は「日本は絹

産業以外には、固有の産物はないのです。彼らは、綿がない。鈴がない。石油の産

出がない。ゴムがない。その他実に多くの原材料が欠如している。そしてそれら一切

のものがアジアの海域には存在していたのです。もしこれらの原料の供給を断ち切

られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れて

いました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の

必要に迫られてのことだったのです」と。

見るべき人は見ていたといえよう。

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2010年7月 6日 (火)

支那事変-日中戦争

支那事変

陰暦7月7日は七夕である。昭和12年7月7日支那地大陸で蒋介石の許可を得て、日本陸軍が大演習をしていすた。その時支那軍から一発の次発砲があって以前から険悪ムードにあった日支関係に火がっいた。これが゛支那事変であると教えられてきた。しかしこれは一方的に日本側の説明であり、発砲は支那軍からか日本軍からか分らないと思っていた。

先年独協大学の教授の講演を聞き、支那軍からの発砲でなく、毛沢東・周恩来の中国共産党(中共)発砲したものと知った次第である。

それは当時の中京軍は、モスコーのコミンテルン(第三インターナショナル)命令下にあり、コミンテルンが日本と戦時体制に入るよう命令し、その証拠の文面も残っているそうだ。これで今までの疑問が解消した。

中京軍に仕掛けられた戦争に日本軍がまんまとはまってしまったことになる。

その何年か前に蒋介石の国民党は、防共を旗印に北上していたが途中で張作霖(ちょうさくりん)の子供張学良(ちょうがくりょう)に捕えられて、幽閉されてしまった。その時中に入って仲裁したのが周恩来て、周恩来は蒋介石に日本と戦をするよう内諾を得ていたが蒋介石がなかなか約束を履行しないので、日本軍に発砲という非常手段取ったものと思われる。

蒋介石の民党軍と毛沢東の中共軍は協力しあって日本軍とたたかったが、昭和20年8月15 日終戦を迎えて蒋介石の国民党が重慶から南京に戻ったと思う間もなく、中共軍と内戦が始まりあれよあれよという間に、中国本土から追われて台湾に逃げ台湾政府を樹立した。

蒋介石軍の逃走は目を見張るばかりの早さであった。

しかし蔣介石総統は彼を幽閉をした張学良を台湾に引き連れて行き台湾で一生涯幽閉している。

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