音楽

2010年3月23日 (火)

ラジオ体操

ラジオ体操

現在も夏休みになると、近くのグランドなどで子供たちが集まってラジオ体操をしているが、私の子供の頃は小学校のグランドに小学生や近所の老若男女が集まってラジオに合わせて体操をしていた。親戚の大店(おおだな)の大将も着物に下駄を履いて、2キロ以上の坂道を歩いて通い体操をしていた。

ある夏の日にラジオ体操を普及させるための全国行脚(あんぎゃ)をしていたNHKの江木アナウンサーが小学校のグランドで放送兼実演したことがあった。

当時は放送局はJONKと云い、東京はJOAK、大阪はJOBK、名古屋はJOCKとそれぞれ名付けられていた。JONKは小学校から500メートル離れた岡の頂上近くにあり、アンテナは丘の中腹のくぼんだ所に30メートルと50メートルの4本梯子の巨大な鉄塔であった。山国の長野ではこんな巨大な塔でなければ電波は捕えられなかったのであろう。

江木アナウンサーは体操の前の前奏曲「躍る(おどる)旭日(あさひ)の、光を浴びて、曲げよ伸ばせよ、吾らが腕(かいな)、ラジオは号(さけ)ぶ、一二三」で始まり、この曲が終わると江木アナウンサーは「お早うご座います。さあこれから元気にラジオ体操を始めましょう」の掛け声で体操が始まった。今日の今日までラジオ体操の前奏曲は「上る」だと思い歌っていたが、「躍る」であったとは意外であった。さらにこの曲は堀内敬三の作曲とは知らなかっちた。

掘内敬三は戦後間もなく始まったNHKのラジオの人気番組「話の泉」のレギュラーでこのほかサトー・八ロー、石黒敬七・太田黒元雄などがいて司会者が出すクイズに答えるもので初めて聞くようなものも多かった。たとえば「電話で始めて話した外国語は何語か」という問題もサトー・八ローが「それは米国に留学中の金子堅太郎と伊澤修二であるから日本語」と答えていた。

堀内敬三については、歌手の藤山一郎が日本橋の遊び友達らしく敬三は日本橋の「浅田飴本舗の息子である」と言っていた。

浅田飴は幕府の御殿医で明治になり皇室の侍医となった浅田宗伯の発明したのど飴であり宗伯は信州人である。

堀内敬三は世界名歌集120曲中30曲もの歌詞の翻訳者でもある。

著名なものは「歌劇蝶々夫人のある晴れた日に」「歌劇リゴのレットの女心の歌」「歌劇カルメンのハバネラ」「歌劇ホフマン物語のホフマンの舟歌」「歌劇ミニョンの君よ知るや南の国」「ソルヴェーグの歌」シューベルトの「アヴェマリア」「セレナード」「ます」、「ジングルベル」、「ケンタッキーの我が家」フォスターの「故郷の人々」「ァー二ーローリー」「ドリゴノセレナーデ」「サンタルチア」と数え上げればきりがない。

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2010年3月20日 (土)

鉾をおめて

鉾をおさめて

「鉾をおさめて、日の丸上げて、胸をドンと打ちゃ、夜明けの風が、そよろそよろと、身にしみわたる、灘の生酒に、魚は鯨、樽を叩いて、故郷の歌に、ゆらり、ゆらりと、陽は舞い上がる、エンヤッサ、エンヤッサ、ヤンレッサ、ヤンレッサ、踊り疲れて島かとみれば、母へ港へ土産の鯨」このほかにも「「出船の港」ドンとドンとドンと、波乗り越えて、一挺二挺三挺櫓で飛ばしゃ、さっと上った鯨の潮の、潮のあちらで、朝日がおどる」」これも時雨音羽作詞、中山晋平作曲の勇壮な捕鯨の歌でともにわれらのテナー藤原義江が歌った得意な歌である。

捕鯨は以前は各国で行っていた。米国のペリー提督が日本に開港を迫ったのも捕鯨船の寄港する場所を確保するためであった。米国の捕鯨は鯨の油を燈油として使うためで油を取った残骸は捨てていた。

しかし日本は鯨の肉は食用に、油は肝油として健康薬として飲み捨てるところはなかった。

米国は燈油として鯨の油がいらなくなると捕鯨をやめて、今や英米其の他の国々は、鯨を取るのはかわいそうだと言って捕鯨を禁止しようとしている。

戦後間もなく日本の捕鯨は盛んで、食糧難の時の栄養補給元として活用された。現に学校給食としてもしばしばお目にかかった。当時北杜夫は捕鯨船に医者として乗り組み「ドクトルマンボー航海記」を書いている。

最近調査捕鯨で獲得した鯨を販売し戦後を懐かしんで「うまい、うまい〕と云って食べているようだが、私は鯨には良い思い出がなく、そんなにうまくはなかったような気がする。

  

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2010年2月25日 (木)

信州人は歌が下手だ!

信州人は歌が下手だ!

これは民放の歌番組で審査員のサトウ・ハチロー、笠置シヅ子、神津善行が異口同音に「信州人は歌が下手だ!しいて上手なのは市丸姐さんぐらいなものだ」と。神津は家の本家は音楽の勉強に留学したけれど***」と云っていた。しかし信州人で音楽に関係した人は多い。

伊澤修二は東大の前身の大学南校を出て、国費留学で米国に渡り不得意な音楽を免除すると言われたが「不得意だからこそ音楽を学んで帰りたい」と音楽をマスターして母国に帰り、恩師メーソン女史を招へいして文部省唱歌の編纂や「紀元節」「すめらみくに」「み国の守り」を作曲し音楽学校(現東京芸術大学音楽部)を創立して校長になった。現在も東京芸術大学音楽部の校庭に彼の銅像が立っている。また神津の本家神津専三郎も米国へ留学後伊澤のあと追って音楽学校の校長になった。

余談になるが伊澤と金子堅太郎は米国留学中、話を発明して間もないベルを研究所を訪ね初めて電話で話した外国語は日本語だったと言われている。

また伊澤は後に音楽はどもりの矯正に役立つとどもりの教育している。子供のころ善光寺の仁王門の空き地で夜どもりが「私は元どもりでありましたー。去る二十七日どもりが直りましたー」と発表会をしているのを見かけた。

飯沢の弟は飯沢多喜男と云う内務官僚でその息子が作家の伊沢匡である。

音楽学校教授の草川信は童謡「夕焼け小焼け」「揺り籠のうた」を作曲し、中山晋平は流行歌一号の「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「船頭小唄」「さすらいの唄」「雨降りお月さん」童謡「てるてる坊主」「背くらべ」「あの町この町」{田植」「証誠寺」「砂山」「波浮の港」「鉾をおさめて」新民謡の「東京音頭」「十日町小唄」「飯坂小唄」と上げれば限がない。

高野辰之日本歌謡史大系で文学博士となり文部省唱歌の編纂員として「故郷」「朧月夜」「紅葉」「春の小川」の作詞をした。「春の小川」は田舎の小川と勘違いしている人が多いが、実は現在渋谷の繁華街の地下を流れる渋谷川で、作詞当時は田んぼの中にぽつんと建つ一軒の水車小屋だけのひなびた場所であった。

小口太郎は三高ヨット部の「琵琶湖周航の歌」を作詞はしている。

信州人は歌は下手かもしれないが多士さいさいである。

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2010年2月10日 (水)

信濃の国の歌

信濃の国の歌

信濃の国の歌の作詞者は浅井冽信濃の国のお国自慢の歌である。県外に住む信州人が集まるとこの歌を歌う。歌詞は第一節は信濃の国は十州に囲まれ、松本、伊那、佐久、善光寺と四つの平(盆地)があると歌っている。事実越後、越中、飛騨、美濃、三河、遠江、駿河、甲斐、武蔵、上野、現在の八県に隣接している。第二節は御岳、乗鞍、浅間山と四山を上げ、犀川、千曲川、木曽川、天竜川を歌っていて、第四節は園原、寝ざめの床、木曽の桟、久米路橋、浅間温泉、うば捨山の田子ごと月の名所を上げ、次は旭将軍木曽義仲、仁科の五郎信盛(武田勝頼の弟)、太宰春台(儒学者)、佐久間象山(儒学者、洋学者)と四偉人を述べている。

最後に碓氷峠は汽車のトンネルが26あると言っている。

信濃の国の歌は小学五年生の副読本にあったが、正規に教えられたことはない。しかし小学校の他校の運動会で信濃の国の遊戯をしていた。

これは作詩も作曲も師範の教師なので小学校の教師たちは知らず知らずのうちに生徒たちに教えたものと考えている。

信濃の国は、昭和三十代までは、自然に歌われていたが、その後長野県の県歌になってしまった。

浅井冽も作曲家北村季晴も長野師範(現信州大学教育学部)の教師であった。

しかし浅井冽はしばしば話題に上るが、北村季晴は影が薄いので季晴について述べる。季晴は、東京へ戻ってから音羽ゆりかご会を作り児童の音楽育成に努めている。彼の手になる作曲は「汽車の旅」「ワシントン」などがある。

北村季晴の先祖

北村季晴の七代先の先祖は北村季吟と云う学者で、俳句は松尾芭蕉の師匠で六十六歳の時学問好きの徳川綱吉に江戸城に親子ともども扶持を貰って召抱えられている。北村季吟、湖春親子のお歌方を元禄二年に任命と岩波の日本年表史も三省堂のコンサイス世界年表史にも乗っていて、ともに湖春の死も伝えている。

また広辞苑には北村季吟の項が記載されている。

平和になった幕府では新規召抱えは難しいと言わたが、北村季吟、新井白石、柳沢保吉、田沼意も例外の一人で、柳沢と田沼は加増に次ぐ加増で大名となり遂に将軍の側用人と大老になった。

季晴の父季林はお茶の水学問所(昌平こう)内に屋敷を賜り、幕府最高の学問所の教授と取締役(校長格)を兼ねていた。現在の東大の前身でありさしずめ東大の総長と行ったところである。

幕末来日したヘボンとも交流があり、ヘボンに日本語を教えヘボンから英語を学んだ。ヘボンの和英辞典編纂にあたり助成し、ヘボンは辞典の中で語彙の代わりに季林の林を取り語林としたとして感謝の意を表したという。

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