芸能・アイドル

2010年3月18日 (木)

岸壁の母-二人いた

壁の母

「母は来ました。母は来た。この岸壁に母は来た***」で始まる岸壁の母を歌って一世を風靡した二葉百合子が、来年三月で歌手を引退すると発表した。この歌は戦後一番遅れていた、満蒙に配属になった兵士がシベリヤへ送られ、過酷な労働に耐えて共産主義に洗脳された兵士たちが、舞鶴港に引き上げて来るのを毎日、毎日見守っていたある母を歌った流行歌である。

なお舞鶴港はむ昔の軍港で舞鶴鎮守府と云った。

ただ無言の帰国をした人も多かった。その一人に元首相近衛文麿の子がいる。彼はソ連に抑留され「一生、生きてソ連から帰されることはないだろう」と予言しその通りになった。彼は元首相細川護煕の叔父にもあたる。彼の母親と兄弟で後継ぎが耐えるので細川家の二男を近衛家の養子にしている。

さて「岸壁の母」は記憶が正しければ二葉百合子の持ち歌ではなく、中堅歌手の持ち歌を百合子が譲ってもらいヒットさせたものである。

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2010年2月 6日 (土)

能、相撲と歌舞伎

相撲、と歌舞伎

明治維後も新能役者と相撲取りは、別格であって歌舞伎役者は河原乞飯とさげすまれていたが、地位が向上したのは明治中期時の総理大臣井之上馨が皇居で歌舞伎役者を招いて明治天皇の天覧に浴させ、翌日昭憲皇太后にその翌日は各国大使公使を招待してからと聞いていた。

能役者と相撲取が別格なのは将軍や諸大名に抱えられていたからとばかり思っていた。しかし今日観世流の能楽師から能の話を聞きそれが間違いで有ることを気付かされた。明治になって大名の扶持をはなれた能役者が四苦八苦している時、岩倉具視が明治天皇の天覧に浴くさせてからと知った。

昭和になっても歌舞伎俳優は地位が上位で映画俳優は一段下に見られていた。

相撲

江戸時代相撲取は諸大名に抱えられ大名の接待に使われていた。横綱谷風梶之助は讃岐高松藩のお抱え力士で、大関雷電為衛門は出雲松江藩のお抱え力士というようにであった。

雷電為衛門は不出世の強力で幕内通算二百五十四勝十敗の好成績を収め大関を十八場所務めている。しかし彼は一生大関であった。昔の相撲は大関が最高位で今もその名残は三役は、小結、関脇、大関である。

私の子供のころ雷電は土俵上で人を殺したから横綱になれなかったと伝えられていたが、NHK放送によれば雷電は松江藩のお抱えで、横綱を授ける吉田司家は肥後の熊本藩であるのでそのとばっちりを受けたのだと報じていた。

吉田司家が横綱を授与したのは横綱栃錦、初代若乃花の頃までで吉田司家が不祥事を起こし相撲協会に横綱の任命権を返上して現在に至っている。

私の子供のころは、吉田司家の当主は小学生の子供であった。、現在横綱は地位であるが昔は横綱は大関で識徳円満な人に与える称号であった。昔ならば朝青竜の騒動は起こっていない。

横綱のように称号が位に変わったものに陸海軍の元帥がある。その昔は元帥は大将で識徳円満な人に与える称号であった。

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