経済・政治・国際

2011年9月12日 (月)

海江田万里 議員

海江田万里議員

今回民主党の総裁選挙で敗れた、海江田万里議員は、みなさんご存知の幕末桜田門外で、

老井伊直弼を襲った水戸の浪士と行動を共にした、薩摩の浪士有村冶左衛門と兄弟で海

江田家へ養子に入った海江田信義元貴族院議員で枢密院顧問官の子孫だと思っている。

同じ選挙区には、与謝野鉄幹と晶子の子孫の与謝野馨議員がいる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月24日 (金)

日中歴史共同研究

日中歴史共同研究

先日「日中歴史共同研究批判」という講演を拝聴した。講師は高知大学名誉教授、元

文部省主任教科書調査官、同視学官である。

論旨を要約すると「今回の共同研究は中国側は中国共産党の幹部たちで、中国政

の指令で歴史認識を政治手段にしている人々の集まりである。

日本側は、北岡伸一東大教授たちで、この研究はうまく行くはずがないと思ってい

た。しかしこの度一応まとめあげ中国側も日本側の北岡教授たちは自画自賛して

いた。日本側の北岡教授は「我々には当然のことと理解している上海事件、日本の

研究で誤りを権威つけしてしまった。これは後々まで禍根を残すことになってしまっ

た。北岡教授は「曲学阿世」であると言って非難していた。

また現在の民主党政権、鳩山前首相、菅首相は亡国の徒と非難していた。

さらに田中首相から始まって中曽根首相、宮澤首相、特に村山首相は目に余るもの

があったと、歴代首相の歴史認識のなさ、相手国への謝罪の繰り返しをぼろくそに

非難していた。

最後に「北岡教授はそんなにひどい学者か」の質問に対して「彼は私より三年下の

下級生であるが非常に秀才である。秀才の欠点として昔教えられたことを金華玉条

として、そのまま真実として理解してしまっていることである」と結んでいた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月 4日 (土)

中国共産党(中共)

中国共産党

現在の中国は、中国共産党政権である。

支那事変(日中戦争ともいう)は、昭和12年7月7日時の政権蒋介石率いる国民政府

の許可のもとにシナ大陸において軍事訓練を指定する日本軍に、シナ軍からの

一発の発砲から始まる。私はシナ軍からの発砲は、水掛け論と考えていた。しかし

最近になって発砲したのは、中国共産党軍からの発砲で中共軍はモスクワのコミン

テルン(第三インターナショナルの別称)[世界各国の共産党の国際組織。レーニンら

の指導下にモスクワで創立、国際共産主義運動の指導にあたったが、次第にソ連

一国の利益に従属するようになつた]からの指令に中共軍が従ったもので、その命

令しょは現存するという。日本軍も国民政府軍も考え及ばなかった事件である。

支那事変が始まると国府軍も中共軍も協力して日本軍と戦った。

戦争が終結すると國民政府の蒋介石総統は、「恨みに報いるに、恨みを持ってせ

ず」といいシナ太水陸にいた日本軍を即刻帰還させ、賠償を全面的に辞退した。

戦争が終結後、一時シナ全土を占拠していた国府軍は中共軍に追われて一年も

経たないうちに台湾に逃げ込んでしまった。

シナ全土を占拠した中共政権は、連日日本の悪口を放送して日本を非難した。

そのさまは現在の北鮮よりひどいものであった。

さらに国内では大衆に密告を勧め親、兄弟でも油断できず、一度ブルジョアとレッテ

ルを張られると投獄されたり死刑にされたりリンチを受けた。

私はこのような政策をする中国共産政府は大嫌いである。

中共政権を承認する国がぼつぼつ現れたが、日本政府は蒋介石の終戦の時の発

言と、終戦のすぐに日本軍を帰還してくれたこと、賠償の辞退とうを感謝し中共政府

を認めず台湾政権を承認し続けた。

しかし米国はニクソン大統領のとき中国へ出かけ、中共政権を認めてしまった。

日本は田中内閣時代で、田中首相は、すぐ中国に渡り中共政府を承認し、台湾政

府の承認をやめた。

日本政府の中には蒋介石政権に恩義を感じている人々も多く、政府の承認は変わ

るが貿易は継続する人々がいた。中共政府はそれまでの日本非難を手の裏を返す

ようにぴったり止めてしまった。しかも蒋介石政府が賠償を辞退しているので、しぶ

しぶ中共政府も賠償を辞退した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月 2日 (木)

民主党の党首争い

民主党の党首争い

民主党の党首争いは「茶番劇」である。

鳩山由紀夫もピエロか!

民意を無視した論争は大衆からそっぽを向かれる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年9月 1日 (水)

曲学阿世

曲学阿世

辞書によると「曲学阿世(きょくがくあせい)」は{史記(儒林伝、韓固生)「]無曲学以阿

世」曲学をもって権力者や世俗におもねり人気をえようとすること」とある。

戦後しばらくして講和条約締結に当たりアメリカとの単独講和かロシヤを含めた全面

講和か世論を二分し、自由党(現自民党)は単独講和、社会党、共産党は全面講和

で争った。時の吉田内閣は単独講和、南原東大総長は全面講和を主張した。

吉田首相は南原東大総長を詰って、「曲学阿世の徒」と呼んだ。

当時ロシヤとはほとんど意志が疎通せず講和を結べる状態ではなかった。

全面講和を待っていたら、今日の日本の発展はなかったであろう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年8月 9日 (月)

桐生悠々

F100000212 桐生悠々

桐生悠々は元信濃毎日新聞の主筆で「関東防火大演習を嗤(わら)

う」という、陸軍の防空大演習批判する記事を信毎の社説に乗せ、

軍部の勘気に触れて、信毎を追われたジャーナリストである。

広辞苑によれば、桐生悠々は、「ジャーナリスト。本名、政次。金沢生

れ。東大卒。信濃毎日新聞主筆。雑誌「他山の石」を発刊し、軍部・戦争批判を続

る」とある。

昨日の日本経済新聞の桐生悠々の記事で桐生悠々の略歴は、大阪毎日新聞、朝

新聞などを経て信濃毎日新聞主筆に就任とある。

抵抗の新聞人桐生悠々が使った机は今も信濃毎日新聞の本社にある」という記事

で、「権力に敢然と立ち向かった記者がいたという誇らしい気持ちと、軍の圧力に負

けて彼を守りきれなかったジャーナリズム企業の敗北感の両面がある」という小坂

宗太郎専務の談話が乗っていた。

悠々が主筆時代信毎の「経営は編集に介入せず」の方針のもと、オーナーである小

坂順造社長と弟の武雄常務(のちに社長)は、悠々の社長批判の論説さえ容認して

いた。小坂専務は武雄常務の孫である。

昭和八年「関東防空大演習を嗤う」という社説が掲載された。数日前に行われた陸

軍の大演習を論じたもので、悠々は「敵機を関東の空、帝都の空に迎え撃つという

ことは、我が軍の敗北そのものである」「敵機は本の沿岸までに防がなければな

らず、本土に侵入を許せば東京は関東大震災と様に焼け野原になる」と警告し

た。以前から信毎の反軍的論調を快く思わなかっ軍関係者と地元の在郷軍人会

の幹部は信毎に乗り込み、不買運動を展開すると脅した。信毎存亡の危機に悠々

は社を去らざるを得なかった。

しかし悠々は退社の翌年個人雑誌「他山の石」を発行。二・二六事件の際は「だか

ら言ったではないか。早く軍部の妄動を諌めなければその害の及ぶところ測り知れ

い」と軍部を批判し続けた。軍部は発禁・削除処分で弾圧。太平洋戦争に突入す

三ヶ月前ついに「他山の石」は廃刊を余儀なくされ、「廃刊の辞」のを出したがこれ

も発禁となり発禁命令書は通夜の死の床にもたらされた。

蟋蟀(こおろぎ)は、鳴き続けたり、嵐の夜」東京・多磨霊園の悠々の墓の隣に自身

句碑が建っている。

悠々の死後四年で敗戦。焼け野原にたたずむ人々は、彼の予言の正しさと軍部が

指導した戦争の愚かさわ知った。と結んでいる。

私の元の職場の同僚に桐生某がいた。彼の自慢は、祖父が桐生悠々であることだ

った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年4月11日 (日)

昭和の怪物-久原房之助

久原房之助

大宅壮一の昭和怪物伝のトップを飾るのは久原房之助である。履歴書を見ると久原房之助は明治二年山口県に生まれ、東京高商(現一ツ橋大学)慶応義塾正科(現慶応大学)卒となっている。森村組に入社後に、藤田組に転じ更に久原鉱業、久原商事を創立し第一次大戦後大当たりをする。久原鉱業の電機部門が独立して現在の日立製作所となった。

昭和二年海外経済特使として訪ソ、スターリンと会見し話題を投げた。昭和三年政界に打って出て衆議院議員に当選し、田中義一内閣の逓信大臣、近衛内閣の参議、政友会正統派総裁を歴任。戦後昭和二十七年衆議院議員に当選。日ソ、日中国交回復会議議長として活躍。となっている。

大宅は戦後、日本社会そのものが複雑怪奇な様相を呈するとともに怪物的存在が各界に続出した。しかし現在日本中で代表的怪物の筆頭は久原房之助であると言っている。

久原は久原鉱業、久原商事で満足せず船舶、造船、ゴム栽培、水力電気、電信電話、漁業とあらゆるものに手を出して第一次大戦で大当たりをする。そのころ兵庫県武庫川に宅地二万五千坪、建坪一千三百坪の豪邸を作ったばかりか、沿海州から持ってきた銘木の丸太で別棟を作り、たまたまロシヤから来ていたミハイロウィッチ大公は目を丸くしたと言う。またアメリカのUSスチール社の社長で鉄鋼王と云われたジャッジ・ゲーリーが来たときは六甲山に穴をあけ、六甲山の奥の冷たい空気をパイプで送りこむ冷房装置のある部屋へとうしたので、さすがの鉄鋼王も驚いた。冷房装置は発明されていたが、これを家庭に用いる贅沢なまねをする人はいなかったという。鉄鋼王の家でも早速作ることを思い立ち、完成したら招待すると約束し、二年後に鉄鋼王の招きで渡米したが、大陸を横断するのに彼の一行は客車一つ買い切る大名旅行をやってのけ第一次大戦末期で大統領でさえ出来ないことをしたと皆を驚かせた。帰途ハワイにより二世のための育英資金を残して戦後二世の名士が沢山出て久原をハワイに迎えたいと言っていた。

政入りした久原は代議士三回目に田中義一内閣の逓信大臣になた。政友会の長老たちは猛反対するが、田中首相は「オラが政友会をオラが意見通りにするのに何が悪いか」と云って押し切った。この言葉の裏に久原の金力が動いていることは言うまでもないと。

久原は2・26事件の青年将校にも資金を提供して情報を事前に入手したと云うので「叛乱幇助」の嫌疑で軍法会議に付せられたが、証拠不十分で不起訴に成っている。

久原の叔父藤田伝三郎は「久原は一円の金を百円に見せるすべを知っている」と云っていた。また日産コンツェルンの総帥、満州重工の経営者、鮎川義介は久原の義兄に当たる。

藤田伝三郎は金で男爵を買うがその実贋金つくりの嫌疑も懸けられている。当時は贋金は紙幣をコピーしただけでも国家反逆罪で死刑になる時代である。また山県有朋の陸軍の軍資金浪費事件にも関係していると噂された。

戦時中久原は私の田舎に疎開し、孫は私の中学の下級生であった。勤労奉仕で農家の麦刈の応援した時、同期の友人が目を丸くして「勤労奉仕で働いた下級生に日本で第六番目の大財閥の家の子がいると言っていた。お袋に話すと「久原房之助のことだ」と返事が返ってきた。

戦後久原が新聞紙上をにぎわしたのは、公職追放中に公職に関与したとして裁判で高齢なため執行猶予付きの有罪となった時と、ある日子守をしている房之助を見た記者が「お孫さんですか」と聞くと八十歳にもなる彼が「私の子供だ」と云っていたと云うものであった。孫が高校生になる時、まだ子供がいるとは***

戦後は静かに余生を送ったと思っていたが、履歴書を見ると代議士に帰り咲くとは驚きである。

渋沢栄一と同じで老いてますます盛んなことである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年3月19日 (金)

戦争と景気

戦争と景

今日の民放のテレビでこの不況を乗り切るにはどうすればよいかを、三賢人に尋ねたところ答えは「昔ならば戦争」だという回答であった。その証拠にアメリカの景気をグラフで示し、好調な時を見ると、いずれも第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争で、不況の最たるものは世界大恐慌であった。

思いい起こすとお袋は「終戦の後日本を救ったのは朝鮮動乱で、これがなければ日本の復興はおぼつかなかった」と常々言っていた。

朝鮮動乱で戦いに明け暮れしていたアメリカは、つぶれる寸前までいっていた日本経済を救い開店休業の会社に軍需品、食料品、衣類其の他もろもろ機械製品の生産を任せて、日本は奇跡的な復興遂げることが出来た。

人の不幸を喜ぶようで申し訳ないが、世の摂理はこのようにして出来あがっている。

お袋は「昔は戦争という景気回復策があったが、これからはどうなることか」と戦争は嫌いで道を歩いていた出征前夜の見ず知らずの人に「何としても生きて帰りなさい」と言っていたお袋は矛盾した考えであるが一面眞理ついていた。

この現状の不況は打開策はないかという問いに「これはという策はないが、今までの常識に捕われずに非常識な策をするしかない。さもないと早晩に日本は破滅する」といっていた。

この時「太西洋の黒マグロの捕獲禁止条例は否決された」というニュースが流れた。

マグロの一かけらや二かけら食べなくても餓死することはない。終戦ごの食糧難を考えればなんでも出来る。人間は贅沢に流される動物だ。

終戦後世間なを驚かせたのは東京地検の山口判事の餓死事件である。彼は「いやしくも自分は人を裁く判事である。その判事がヤミ米を買うわけにはいかない。国もまさか餓死させることはあるまい」と言って餓死し新聞などに大々的に報道された。

国の危急存亡の時、「海外旅行だ」「グルメだ」と贅沢の限りを尽くす人々の心理がわからない。戦時中までとは行かないまでも、質素、倹約に努めてはいかがか。

戦時中、東京美術学校を出てパリーに留学した親戚の画家が「フランスは滅びる国である。その証拠に人口が激変している」と云っていたが、現在は人口は増えて持ち直している。日本の若者の出生率が減っているが、このようなことがないことを祈る。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年2月23日 (火)

鳩山内閣に苦言を呈す

鳩山内閣に苦言を***

新聞の投書欄に未だかって投稿したこともないが、ブログにはまってしまいあえて鳩山内閣に苦言を呈す。

鳩山内閣には今までの内閣で感じたことのないもどかしさを感じる。それは毒にも薬にもならない「夫婦別姓」「外国人の参政権」「子供手当」「高校の無償化」等々***地方の政治に任せてもよいような事にまでたちいてる。ひとかどの仕事をしているように振舞っている。財政の垂れ流しが目立つ。しかも完全実施は後回しとこれではから手形ではないか。内閣が来年まで持つのか。次の参議院選挙の下準備か。

内閣が解散すれば跡は野となれ山となれでは***。

短期的に解決できる問題だから取り上げるのか。あまりに近視眼的ではないか。

今すぐ解決すべき問題ではなく最大課題は「普天間基地を早期解決して日米問題の改善」「景気刺激策」「失業者対策」「少子高齢化の解決」「農家の過疎対策」等数え上げれば限がなく使命は重大である。

しかも一丁一石には解決する問題ではない。これを解決するのが政治家と云うものである。どうでもよいことに血道を上げて本末転倒と云うべきか、ピンとはずれな政策だ。

これでは不評を買って退陣した麻生内閣の方が具体的な政策をして本道を行っていた。

麻生さんは字を読み間違えると悪評を叩かれたが、自民党時代は「普天間問題は解決」「日米関係は良好」で不況の声で直ぐ「景気刺激策」を次々と打っていた。

鳩山内閣は官僚に頼らない政策と称し蓮鳳のような素人が「科学の研究費」「八ッ場ダムの凍結」など重要性も分らずに予算を切り捨て得意顔である。

官僚は堕落したとはいえ皆が悪くはない。餅屋は餅屋で官僚に大まかな予算を組ませ悪ければ政治家が取捨選択すればどんなに政治がスムーズに行くことか。

それで思い出すのは岸内閣である。東条英樹、星野直樹、松岡洋介、岸信介は「二樹、三介」と云われていた。、岸信介は戦前商工大臣の頃から好きになれなかったが、「安保条約改正」の時「安保反対」のデモで首相官邸は群衆に取り囲まれ警官も首相の生命を保証出来ないと云い閣僚を総て帰し、岸首相と兄弟仲が悪いと噂された佐藤栄作後の首相が官邸に駆けつけ「兄さん一諸に死のう」と踏みとどまり「安保条約改正案」が議会を通過すると岸内閣総辞職した。胸のすくように潔良かった。

そういえば麻生太郎の父は炭鉱王で吉田首相の側近であった麻生多賀吉で母は上述の岸信介の娘で、太郎は信介の孫で佐藤栄作は太郎の大叔父に当たる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月13日 (土)

姑息な政治屋集団

姑息な政治屋集団

最近の鳩山内閣と民主党の態度には失望し、ここに苦言を呈す。政治資金規正法違反で小澤幹事長の側近三名が起訴され、幹事長は灰色だが不起訴になった。これが選挙違反ならば、即座に代議士辞任である。それにもかかわらず幹事長はだんまりで続投を決め込んでいる。しかも民社党にはそれを批判する人が一人もなく黙認している。

前民主党参議院議員で任期中衆議院議員に立候補を表明したが推薦を受けられず辞任して諸派から立候補して当選した代議士の所信表明のパンフレットによれば「これが自民党の幹事長であり、民主党が野党であったならば鬼の首を取ったように自民党を攻撃したと思う」と。

昨日の新聞は、国の道路建設の予算は凍結または減額にもかかわらずは、「選挙で自民党に敗れた鳥取県と福井県に集中的にばらまき予算を十から二十%額にして四,五億増額して次の選挙に備えてようとしている。なお自由党政権ならば認可になって発表するのを認可前に各県に伝え、恩を売っている。更に小澤幹事長の岩手県も増額」と報じていた。幹事長はゼネコン疑惑も浮上していたのにこれでよいのか。お手盛りではないか。姑息な手段は政治を損ねる。全く怒りすら覚える。民主党の議員は政治屋の集まりで近視的政策に努め長期的政策は失格ではないか。

「忠言耳に逆らう」と云うが諫言する人がいない。

織田信長が若いころうつけものと云われ奇癖が多かったが、平手政秀は腹を切って信長を諫言した。そこまでしなくても民主等には一人や二人諫言する人もいないのか。

なお信長の父の菩提寺のある大須の近くに政秀を葬った政秀寺がある。

今日の民放テレビ一週間のニュースを紹介する番組で、小澤幹事長が米国の招きで訪米を約束し米大統領との会談を望んだことについて批評家は、米国はこの会談で一挙普天間問題に決着をつけようとしていると想像するがこれは大問題だ。幹事長は招待された時、辞退して政治問題は、首相に任せなかったのか。

また別の批評家は、この際改革をした鳩山首相と小澤幹事長は責任を取って辞職すれば潔かったのに。と云っていた。

驚きで空いた口がふさがらなかった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧