文化・芸術

2011年11月19日 (土)

豪商の屋敷

豪商の屋敷

先日須坂の豪商田中本家の屋敷を見学する機会に恵まれた。

田中本家は、須坂藩一万石の大名堀家の御用商人であった。

堀家は一万石ではあったが、最後の藩主堀直虎は、幕末外国奉行と若年寄を兼ね徳川

慶喜が鳥羽・伏見の戦いに敗れ江戸に帰るや直虎は、慶喜に恭順を勧め入れられずと

るや 諌死している。なお田中本家邸は、何年か前、家をロF1000005131415_2 移動している模様 をテレビ

F10000051234_2F100000112311  放映したり、「お宝拝見なんでも鑑定団で

は、出張鑑定を映じていた。       

田中邸は広大な白壁と土壁で囲まれる豪

邸でさすがはF1000009272829 豪商納得するものであ

った。

豪邸の庭も大層なもので

この秋で最も紅葉が際立

綺麗に見えた。 F1000008242526

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2011年11月16日 (水)

柳宗悦

柳宗悦

戦時中わが中学で、小林前貴族院書記官長の講演らを聞いた。

しかし何を話したのか完全に忘れてしまった。ただ最後の質問のとき民芸について質問し

た人がいた。なんで民芸かと不思議におもった。

後になって小林貴族院書記官長とは、柳宗悦のことと知って納得した。

広辞苑で柳宗悦を引くと「民芸研究家・宗教哲学者」東京生まれ。

東大卒。雑誌「白樺」創刊に加わり、のち民芸運動を提唱。日本民芸館設立。

とあって貴族院書記官長には触れていない。

そこで柳宗悦文庫の略歴を見ると「岡山市生まれ。飯田市の小林家に養子入り貴族院書

記官長となり、民芸運動に・・・・」と書いてあった。

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2011年6月 4日 (土)

国立(こくりつ)

国立(こくりつ)

ラジオの音楽番組で「日本の国立(こくりつ)音楽大学を出て**」と紹介をしていた。

国立(くにたち)音楽大学は、国立(こくりつ)ではなく、私立である。

大学を国立(こくりつ)という呼び方は戦後新制大学発足からである。

戦前は官立***高等学校とか官立**工専、**医専、**経専、**農専学校と呼んだが新制

になって国立(こくりつ)大学と呼ぶようになった。

現在国立(こくりつ)と呼ぶ大学が一校だけある。それは横浜国立大学まである。

これは早とちりをして命名したのであろう。

戦前の官立東京商科大学(一橋商科大学)が新制大学になったとき国立一橋大学の名乗

った。

これは校舎が国立(くにたち)と一橋にあったからである。横浜国立大学の教師たちは、

これを国立(こくりつ)と勘違いしたものとし思はれる。

なお私立国立音楽大学ではないが、私立武蔵野音楽大学は、音楽家福井直秋が創立者で

ある。

福井直秋は戦前の官立東京音楽学校の校長をしてた。

私の中学の音楽教諭でもあった。戦後我が中学へ息子の福井直俊は、女性ピアニスト

と二人で中学でバイオリンの独演奏をした。彼ものちに東京芸術大学の学長となり

武蔵野音楽大学の学長もしている。

先日「ちい散歩で」武蔵野をやったとき、地井さんが、武蔵野音楽大学の記念館の説明を

していたのは福井俊昭(?)と書いてあった。きっと学長であろう。

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2010年10月 3日 (日)

サザエさん

サザエさん

広辞苑でサザエさんを引くと長谷川町子原作の漫画。1946年(昭和21年)から夕刊フク

ニチで、51年からは朝日新聞で連載。三世代同居家庭の主婦サザエさんを中心に

民の暮らしをユーモラスに描く。のちテレビ・アニメ化。とある。

また長谷川町子を引くと 漫画家。佐賀県生まれ。田河水泡に師事。1946年から74

新聞に「サザエさんを連載。平均的な日本のサラリーマン家庭を舞台に、明るく活

躍するサザエさんは国民的人気ものとなる。(1920年から1992年)とある。

いずれも戦後のサザエさんの説明しかしていない。

私の記憶が正しければ、サザエさんは戦前から連載された漫画である。

長谷川町子は、戦前女学生のころ「天才漫画家」として雑誌「少女俱楽部」に「サ

ザエさん」は、今のように主婦でなく、女学生として活躍していた。

おな先生の田河水泡は、漫画「のらくろ」の作者として雑誌「少年倶楽部」で活躍し

ていた。

長谷川町子の戦前の活躍を知る人が少なくなっちたのはさびしい。

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2010年9月 3日 (金)

華麗なる一族

華麗なる一族

明治の文豪幸田露伴は、華麗なる一族である。幸田露伴は、本名成行(しげゆき)と

い尾崎紅葉、森鴎外、夏目漱石とともに明治の四大文豪の一人で、「のっそり重

兵衛」を主人公にした「五重塔」が有名である。「五重塔」のモデルである東京谷中

の天王寺の五重の塔はこころない地男女の放火により今は台石をのこすだけにな

っている。

露伴の兄郡司成忠(しげただ)海軍大尉は、千島探検で名をはせた。

弟幸田成友(しげとも)は歴史学者で東大卒、慶応義塾、東京商大(現一ツ橋大)教授

である。妹幸田延と安藤幸はともに音楽家で母校東京音楽学校(現東京芸術大学)

教授である。娘幸田文(あや)も小説家で代表作に「ながれる」「おとうと」などがあ

り、老人になった露伴のめんどぅを見ていた。彼女の随筆に戦時中叔母安藤幸が皇

后陛下からご下賜された白布を文に渡し、「兄の面倒を頼む」という場面がある。

最近文の娘小田切某が小説家として、随筆に露伴のしつけの厳しさを書いている。

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2010年8月29日 (日)

美術館

美術館

二三日前のテレビで、百年間かかって美術館が開館したと報じていた。すると昨日

夕刊に「三菱が夢見た美術館 岩崎家と三菱ゆかりのコレクション」というタイトル

で11月3日まで、有楽町・三菱一号館美術館。三菱創業家、岩崎家が設立した静嘉F100000112

堂、東洋文庫や三菱系企業などが所蔵する作品を集め、明治時代

に三菱や建築家ジョナサン・コンドルが東京・丸の内に構想した美術

館計画をしのぶ。F100000112345 岸田劉生「童F1000002345 女像」、黒田清輝「春の名残」などから洋画を積極

F100000713141516 的に収集し画家たちを支援した側

がうかがえる。コンドルの建築図面

ほか、国宝、重文化財を含む古美術、古典籍も展示。

と報じていた。

F10000041112 写真の童「女像」はよく見慣れている「麗子像」とどこか違うと思って

いたらあちらは着物を着ていて、こちらは洋服の違いだそうだ。

テレビでは、絵画の展示の中で、草ぼうぼうの絵があってそれはどこかわかるかと

質問していた。それは明治時代の丸の内だといっていた。以前この

ような写真を見たことがあるがそれは小学唱歌「春の小川」の田舎の小川にかかる

水車小屋で、その小川が大正時代の現在の渋谷のど真ん中に流れる渋谷川であっ

た。明治になって参勤交代もなくなり江戸城前はあれすたれ、キツネやタヌキの住い

となていた。ときの政府はこれを払い下げようとするが買い手がつかず、遂に岩崎

に目を付けて払い下げた。人々は岩崎もとんだ災難だと同情する。長くこの原っぱ

を三菱ヶ原と呼んだ。弥之助は「将来国表玄関になるところだ」と言って下手な建物

は建てさせず、のちに三階建の赤レンガのビル群を立てて、各会社に貸し与えた。

これ

が戦の丸の内のビルで、この度の美術館も赤レンガのビルを復活したものだとい

う。この美術館構想は、岩崎弥太郎の弟二代目の弥之助で彼は本郷東大近くにコ

ンド建築の屋敷作り、夏目漱石に皮肉られている。しかしこの屋敷は戦後最高裁

の研修所所として使われていた。弥之助は息子小弥太が学生時代訪ねてきて

も、家の贅沢を見せないため応接室でしか会わなかったという。

岩崎には別宅が沢山あるが、その中でも駒込の静嘉堂、東洋文庫の近くにある六

義園(りくぎえん)は、五代将軍綱吉のお側用人柳沢吉保の屋敷で、綱吉がしばしば

通ったところである。

また深川の清澄庭園(きよずみていえん)元禄時代の豪商紀伊国屋文左衛門の別邸

でのちに久世大和守の下屋敷となり、明治維新後徳川慶喜が所有し、それが岩崎

の別邸となり戦後六義園も清澄庭園も東京都の所有となって現在公開している。

F10000036710 また戦後エリザベスサンダーホームの園長として混血児を育てた澤田美喜は小弥

太の娘である。 従って澤田美喜の大叔父は、岩崎弥太郎である。

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2010年7月 3日 (土)

宮中の行事

宮中の行事

昔中学校で{「政祭一致(せいさいいっち」即ち「政治(せいじ)(まつりごと)」も「祭事(さいじ)(まつりこと)」も昔は同じ事であった}と教えられた。

現在でも宮中では「政祭一致」の業務を天皇、皇后両陛下が日常業務として行っておられる。

戦前、戦中から戦後の一時期まで祝祭日は、宮中行事に関するものであった。

一月一日は「四方拝(しほうはい)」で天皇が四方(よも)の神々に国家の安泰を祈る日で、一月三日の元始祭(げんしさい)は先祖の霊に国の安泰を祈る日で一月五日の「新年宴会」は天皇が国の高官たちを宮中に招いて新年の挨拶を行い高官の労をねぎらう日である。

二月十一日の「紀元節」神武天皇が国を始められた日として国家の発展を祈る日である三月と九月の春分、秋分の日は「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」と云って先祖の霊を祭る日である。四月三日は「神武天皇祭〕と云って神武天皇の亡くなられた日である。四月二十く九日は「天長節」と云って昭和天皇の誕生日である。

十月十七日は「神嘗祭(かんなめさい)」と云って、その年の春天皇が宮中の田んぼで田植えをして育てた稲を刈り取って、新米を神々に捧げる日である。

十一月三日は「明治節」と云って明治天皇がお生まれになった日で、十一月二十三日は「新嘗祭(にいなめさい)」と行ってその年栽培した新米を天皇が初めて食される日であった。最後は十二月二十五日は「大正天皇祭」で大将天皇の亡くなられた日である。

小学校では「四方拝」「紀元節」「天長節」「明治節」は小学校へ投稿し、式典があって校長先生は「教育勅語」を朗読していた。帰りは正月は「みかん」多の祝日は「紅白のまんじゅう」を貰って帰ってきた。

宮中行事には今でも皇后は宮中で「かいこ」を飼い「蚕玉」を紡いで生糸にしている。このように宮中では、昔の農業国であつた事を忘れずに継承しているのである。

このほか各国の高官が訪日の際には、宮中で面談しその後歓迎の宴会を開き、また親善使節として外国へ渡航している。

現在は「政治の信仰の自由の侵害」を避けて祝祭日には民間行事も入っているが、「元旦」「建国記念日」「春分、秋分の日」「みどりの日(現在昭和天皇の日)」「文化の日」「勤労感謝の日」と名前は変えているが以前の祝祭日が生きてい日がある。追加の七月十九日の「海の日」は明治初年明治天皇が東巡行のため船旅に出かけられた日である。

現在追加され最近は日日(ひにち)が不順になった「成人名の日」は昔の「やぶ入り」の日に当たり「やぶ入り」は正月とお盆の念に二回、商家へ丁稚(でっち)奉公に出されたおこずかいを貰って親元への帰ることが許された日で親元と離れている人々は浅草の六区で映画を見たりして一日を楽しんでいた。

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2010年6月22日 (火)

小泉信三

小泉信三

小泉信三は、慶応義塾の塾長であったことは周知の事実である。戦時中春陽堂出版の明治大正文学全集の水上た幾滝太郎(本名阿部章蔵、明治生命の重役)<の小説を読んで、水上と小泉は小学校(慶応の幼稚舎)で一時同級で、後別れるも、中学校(慶応の普通部)も同級となり慶応義塾でまた同級生になり無二の親友となていること、しかも信三の父信吉と章蔵の父泰蔵はともに慶応で福沢諭吉の薫陶を受けていたと云う事を知った。

そればかりか小泉信三夫人は阿部泰蔵の妹であった。

学徒出陣に際しては、最後の野球早慶戦を早稲田の安部磯雄と小泉信三の計らいで実施した。

小泉信三には幻の名著「海軍主計大尉小泉信吉」がある。なぜ幻の名著かというかというと今次大戦で信吉が戦死した際、親しい人に配布して終わってしまっていてたからである。後年文藝春秋で公刊し私も入手した。

息子信吉は、慶応を卒業して、三菱銀行に勤務すること四カ月海軍軍人となって一年二カ月であった。小泉著の頭記本によれば、戦死の電報は海軍省軍事局長名であり、後日連合艦隊司令長官山本五十六からも小泉、以来公式の場に出ることを控えていた。しかし皇太子(今上天皇)の傳育官になって公にも顔を出すようになった。

私が会社の出張で超音波震動子の計測をするため東工大の実吉教授(後の東工大学長)へ行くと学生が使っており、たまたま研究室にいた武蔵工大の助教授が「武蔵工大ではあいているから武蔵工大へ行っては***」と云われ武蔵小山の駅を降りると、号外が配られて「皇太子ご成婚なる」というものであった。

皇太子と正田美智子さんとの婚約を報じていた。日清製粉の社長の令嬢とか
そこで阪大総長に正田という人がいたがと頭をよぎった。阪大の正田総長は美智子さんの伯父と知った。

帰社すると「上司が皇太子も目が有るなあ」とつぶやいていた。

この皇太子のご成婚の陰の功労者は小泉信三である。当時貴族社会で最も発言力が有ったのは、松平恒夫衆議院議長夫人(秩父宮勢津子妃は令嬢)で、小泉信三は松平夫人の反対を恐れて、秘密裏に事を運んでいた。

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2010年6月17日 (木)

越路吹雪

越路吹雪

越路吹雪は、宝塚音楽学校ので学生時代宝塚fスターとして活躍していた。彼女はb越路の芸名の通り新潟県の出身である。しかし女学校は、交通の便のせいか、越境入学して長野県立飯山高等女学校に通っていた。

宝塚を対談してから映画の世界に入ったが、その後シャンソン歌手として活躍した。

私の小学校へ途中編入入学した女生徒がいた。その娘の父親は、飯山高女の音楽の先生で飯山から長野県立第一高等女学校へ転任したためであった。

その父親の自慢話は飯山高女時代越路吹雪を教えたことであったと言う。

彼女は小学校を卒業して、長野第一高女に入学したが、風の便りに聞くとその後どうした理由でか自殺したと云う。

後年家内が越路吹雪のシャンソンを聴き絶賛していたが、間もなく越路吹雪は病没してしまった。

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2010年6月13日 (日)

香水の効用

香水の効用

香水は体臭を隠すため婦人方の身だしなみとして使われているが、現在は男性も使用する人が増えていると聞いている。

中学生時代聞いた話では、これとは全く違う使用法であった。

昔フランスでは、「排泄物は、道路に投げ捨てて処理していた。、そのため道路は臭気で満ちていた。それを隠すために香水が使われていた」と。

日本はまだ清潔で、便所のことを別名厠(かわや)という通り、便所は川の上に建てられ、排泄物は川に流していたのである。

江戸時代から戦前、戦後にかけては排泄物は重要な肥料で、百姓は各家庭に排泄物を汲み取りに行き、落ち葉などを集めその上に排泄物をかけて、腐敗させ肥料として用いていた。現在はやりの有機農栽培である。

そのため田んぼの近くは悪臭をぷんぷんと放ち我々はそれを「田舎の香水」と呼んでいた。

日露戦争の頃、乃木家ではしばしば日本橋の三越から最上級の香水を取り寄せていた。

不審に思った人が、静子夫人に尋ねると「乃木の出陣に当たって香水を一瓶持たせてやり、息子勝典・安典にも一瓶ずつ持たせました」という答えが返ってきた。。

香水は「武士のたしなみ」であった。

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