学問・資格

2010年10月 7日 (木)

ノーベル化学賞

ノーベル化学賞

ノーベル化学賞に日本人2名鈴木北大名誉教授と根岸米パデュー大教授が受賞し

F100000112 F1000002345。前日ノーベル医学賞候補が受賞から漏れて今年

はあきらめていたが、思いがけない受賞である。

私の子供のころはノーベル賞受賞者は一人もおらず

ただ1名故野口英雄がノーベル賞の候補に挙がった

だけだった。その頃から考えると隔世の感がある。

戦後湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したのが日本人のノーベル賞受賞の先駆

けであった。

中学の英語の教科書にノーベルの事績が掲げられていて、最後にノーベルPrise

についてふれていた。湯川秀樹が受賞したとき、当時の社会科の先生が、「京大に

小川琢也と教授がいて学問上では大した功績はないが、ただ五人の優秀な子

供を世に送り出しとで、湯川秀樹は小川家から湯川家に養子に出されている」と

言っていた。

それから間もなく湯川と京大同級生で、親父がともに京大教授の朝永振一郎がノ

ーベル物理学賞を受賞した。

奈良女子大の数学の名物教授岡教授は京大を湯川、朝永教授と同級で「どうして

数学をやることになったか」の質問に「湯川、朝永の秀才が物理を専攻していたの

で」と答えてした。

岡教授は宗教にも造詣が深かったが、数学の研究をしていると最初の発見はイン

スピレーションのようにひらめき、次の発見は頭にじわじわと湧いてきた」と本に書

いていた。

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2010年3月22日 (月)

藤原咲平と新田次郎

藤原咲平

藤原咲平は上諏訪の生まれで、諏訪中学、一高、東大を出て中央気象台に努め、理学博士であり気象予報官と成り、「お天気博士」と呼ばれた第1号である。

咲平は戦前、戦後を通して中央気象台の台長も務めた。永田鉄山軍務局長とは小学校、諏訪中学の同級生であり、永田少将とも岩波茂雄とも諏訪中学出身の関係で親しく付き合っていたようだ。

新田次郎-藤原寛人

新田次郎は本名藤原寛人と云い藤原咲平は伯父にあたる。諏訪中学を出て、無線電信講習所(前逓信講習所、現電気通信大学)から咲平を慕って、中央気象台に就職し満州の中央気象台の気象課長として転職し、終戦を迎えてソ連の捕虜となり抑留生活を送って帰国した。

満州に残した妻ていは三人の子供と満州から三十八度線を歩いて超えて帰国した。てい女史は満州からの引き揚げ記録を「流れる星は生きている」の題名で書いてベストセラーになった。妻ていは新田次郎より早く作家になり、参議院議員にも出馬して議員になっている。

新田次郎は咲平と同じ上諏訪の角間新田に生まれ、新田の次男坊であったのでペンネームを新田次郎とし、妻ていに刺激され作家活動はに入った。以後の活躍は周知の通りである。

引き揚げのの時最も小さかった三男は現在大学の教授?で藤原孝夫は作家活動もしている。新田次郎が夫婦喧嘩をするとてい女史は「誰がこの子たちを連れ帰ったと思っているの」と云うと、新田次郎はこそこそと二階へ上がっていったという。

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