スポーツ

2010年6月16日 (水)

大相撲-双葉山全盛時代

大相撲

双葉山

私の子供のころ横綱には、玉錦・武蔵山・男女川(みなのがわ)・双葉山の四横綱がいたが間もなく玉錦が亡くなった。

私の記憶にはないが、双葉山は関脇時代から頭角を現し、あれよあれよという間に大関・横綱となっちた。

しかも当時の大相撲は、春・夏場所の年に二場所であとは、地方巡業で遠く朝鮮、満州までも巡業していた。

双葉山は、本場所で優勝を繰り返し、連勝を続けて行った。

優勝12回、69連勝となった。双葉山を破ったのは出羽の海部屋所属の安芸ノ海であった。

双葉山は敗れたとき「我遂に木鶏(もっけい)たりえず」と打電したと伝えられている。「木鶏」とは荘子のなかで、木の闘鶏の彫刻を依頼さた人が彫刻は完成してもまだだ、まだだと納入をのばしていた。理由を訪ねると「闘鶏に荒々しさが残り、強さを内に秘めるまでにならないから」と答えたと云う。双葉山は敗れた時電報で平常心でいられなかった事を伝えたものと云われている。

横綱になってから双葉山は横綱相撲を取り必ず四っに構えてから寄り切りで勝っていた。また相手がいくら早くの仕切っでも受けて立ったちまったをしなかった。

しかし双葉山は左目がけがで見えないため、必ず受けて立ったとも言われ、安芸ノ海はそこの弱点を突いたものともいわれている。確かに双葉山の左目は少しへんであった。

安芸ノ海

当時出羽の海部屋の前頭は、東西の一方を全員で占めていて、しかも同部屋、同一門は相撲が当たらない制度であり、出羽の海親方は双葉山の独壇場を悔しがり、双葉打倒をスローガンにけいこをし、安芸ノ海のけいこの様子を隠し、他の部屋の力士の出羽の海部屋へのでげいこを禁じていた。

安芸ノ海は期待通り、双葉山の連勝をストップし、やがて大関輝国と同時横綱になった。しかし間もなく、出羽の海親方の娘婿となり、引退するや藤島取締役となったがその後親方の娘と離婚し、相撲界から去って行った。

双葉山が立浪親方の娘婿になるようにすすめられたが、辞退し別な女性と結婚した。世間の人は双葉山は利口だとささやいていた。

立浪部屋

立浪部屋は小部屋であった。しかし双葉山が横綱になると、続いて羽黒山も横綱になり、名寄岩は大関となり、旭川は前頭になって、部屋は繁栄した。

羽黒山

羽黒山は双葉山の弟弟子で、当時は同部屋、同門の力士は八百長を嫌って大相撲で当たらないことになていた。そこで双葉山と羽黒山の勝ちが同じで優勝のときは、優勝を双葉山に譲っていた。羽黒山は双葉山と異なり、立浪親方の娘婿となり立浪部屋を継いで立浪親方となった。

それに対して双葉山は部屋を持たず、一代部屋として双葉山道場を起こした。大関鏡岩は引退の際部屋を双葉山に譲り、双葉山は、時津風親方となり部屋を持つことが出来た。弟子は横綱鏡里、大関大内山、若葉山などを輩出した。

前田山

前田山は私の知る限りでは、万年大関であった。前田山のしこ名は前田山が盲腸炎を患った時、前田病院の前田博士が執刀し命拾いしたことに感謝し、前田山英五郎を名乗った。万年大関が遂に横綱に昇進した。

大関時代長野巡業で、市立長野球場で、土地の青年たちと力士が野球をして前田山も興じていた。

野球好きの前田山は、横綱朝青竜ではないが、本場所中に負傷で休場し、プロ野球を観戦したと云うことで問題となり、せっかく横綱になてそんなに間がないのに引退させられてしまった。前田山は引退後、高砂親方として、弟子を育成し大関朝潮などを育て上げた。彼の功績の一つにハワイから高見山を初めて外人力士として招聘し、今日の外人力士の先鞭をつけたことである。

力士のしこ名

現在力士のしこ名は、出身地と関係がない力士が多いが、昔はしこ名て゜出身地がわかる者が多かった。たとえば北海道出身の名寄岩、旭川、宮城出身の広瀬側、青葉城、青葉山、埼玉出身の秩父山のようにである。そのほかにも武蔵山、相模灘、播磨灘、九州山、三重ノ海、安芸ノ海、輝国、肥後ノ海、五ッ島、鹿島灘、肥州山など゛がいて、十両には信州山がいた。

佐賀ノ関

大関で二所ノ関親方を務めた佐賀ノ関がいた。私は佐賀ノ関は佐賀県県出身だとばかり思っていたが、最近になり大分県の佐賀ノ関は関サバ産地と知りなっとくした。道理で佐賀ノ関は力士時代双葉山に可愛がられていたがともに大分の同県人であったからだと。

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2010年3月24日 (水)

野球

野球

日本の野球の紀元は、明治六年開成学校(後の第一高等学校、現東大)でアメリカ人教師が生徒に教えたことに始まる。

俳人正岡子規は「ベースボールは、面白かりける」を始めベースボールの歌を二十首以上作っている。

また子規は幼名升(のぼる)と云い野球(のボール)の名付け親であるとも云われている。それはさておき、子規は随筆でも野球について詳しく説明し、多くの用語を翻訳している。したがって当時日本で野球の強かった学校は第一高等学校であった。

早稲田大学の安部磯雄(早稲田の教授、代議士、野球の振興にも貢献)は早稲田が一高を破れば米国へ連れていくと約束し、早稲田が一高を破ると、日露戦争中にも関わらずアメリカへ連れて行っている。

それから野球は盛になり、六大学野球の勝敗争いに一喜一憂し、六大学全盛時代は昭和十年ごろまで続いてた。しかし六大学唯一の官立の東大は学問が主で他の私立大学のように野球だけ上手な学生の入学がままならずいつの間にか最下位に甘んじる現在の姿になってしまった。変わって早稲田と慶応が頭角を現し、早慶戦が皆の注目を浴びるようになっちた。

一方朝日新聞主催の中等学校野球も盛んになり、後には甲子園球場を作って夏の大会で「欠き割り氷を食べながら」声援する人が多かった。明石中学と中京商業の死闘は現在も世に語り継がれた。

その頃アメリカからプロ野球が来日し、ベーブルース、ゲーリッグなどが活躍した。

これに対抗するため、読売ジャイアンツは、日本初のプロ野球を急にごしらえて六大学出の選手や甲子園で活躍した選手を集めた。

その中に日米野球で活躍し伝説の人となった沢村栄治投手がいる。さらに旭川中学でエースで甲子園での活躍を期待された、スタルヒンもいた。

スタルヒン一家は白系ロシヤ人でロシヤ革命で追われ亡命して旭川中学の野球部に入部し、甲子園での活躍が期待されていた。

ジャイアンツの野球に対する功罪は半ばするものと思っている。スタルヒンはジャイアンツに入って甲子園に出場出来なくなり旭川の市民を怒りと失望に陥れた。スタルヒンの娘の書いた伝記によれば、亡命したスタルヒン一家は日本の国籍を持たず、父親は喫茶店の経営にに失敗していた。入団交渉はあまりなく、突如スタルヒンのジャイアンツ入団を発表し、「スタルヒンには入団しなければ一家はロシヤに帰させられる」と脅迫し遂に出場を承知させた。読売新聞の社長正力松太郎は、警視総監を務めた警察のトップであり、まさか彼ではないだろうが部下が警察の権力を傘に脅迫したことになる。甲子園の出場を楽しみにしていたスタルヒンの夢を破り、何も知らない旭川市民を失望させた罪は大きい。また沢村栄治も京都商業から無理に中途退学させている。スタルヒンは戦後も活躍していたが沢村は出征して戦死してしまった。

沢村投手の功を称えて、その年プロ野球で活躍した投手に沢村賞が贈られている。

戦後旭川球場は、スタルヒン球場として彼の功績をたたえている。

戦争中学徒動員が始まり、早稲田と慶応は早慶戦をやって送り出そうと、安部磯雄と小泉信三の尽力でこれを実現させている。

戦後六大学野球は、復活し万年最下位の東大は、各大学野球部の練習不足に助けられて一時大活躍をした。

プロ野球も復活し、川上、青田、小鶴のホームラン争いは、赤バット、青バットと世間を騒がせた。

中等学校野球復活したがしばらくして高等学校野球として現在の発展を見るにいたった。

プロ野球では南海ホークに別所投手というエースがいたが、ジャイアンツは、またも悪い癖を出して別所を引き抜き両球団は険悪なムードになったことがある。

次は甲子園野球で活躍した桑田、清原の指名事件である。桑田には他球団を牽制するために、進学と云わせ、清原はプロ野球に懸けふたを開けると、桑田はジャイアンツだけが指名となり清原に悔し涙を流させた。球団は信義を損ない、桑田、清原両名には友情を失わせてしまった。

次にジャイアンツは数年前各球団の主力をごっそり引き抜き、優勝しないのが不思議だと言われる状態で首位を取れなかった。

野球はリーグでやるもので、一チームが強くなても仕方がないものなのにこんな簡単なことが分からない首脳陣なのか。

野球の将来のためにも憂慮すべきことだ。

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