« 宮崎滔天 | トップページ | 反面教師 »

2010年9月 8日 (水)

宮崎滔天

宮崎滔天

宮崎滔天(とうてん)を辞書で見ると[中国革命運動の援助者。名は虎蔵・寅蔵。熊本

生れ。孫文と深く交わり、その革命運動を支援。自伝「三十三年之夢」]ある。

滔天は肥後荒尾村のむ豪農の末っ子として生れた。少年時代滔天は徳富蘇峰の大F100000312

江義塾や東京専門学校(現早稲田大学)キリスト教の伝道学校に学

んでいる。

滔天の後半生は兄弥蔵の影響である。弥蔵は中国革命からアジア

革命を志していた。滔天は中国や香港、タイなどで様々な活動をする

成果はなかった。兄弥蔵の死亡の翌年犬養毅(いぬかいつよし)の援助のもとで

国革命の活動を開始した。

著書「三十三年之夢」はシナ浪人の生態が描かれている。その後滔天は孫文と知り

いその人物に傾倒する。以後交友を深め、中国革命の志士たちへ無私の援助

を始める。孫文らと共に香港へ行き滔天は即座に退去命令を受け直ちに武装蜂

起すべきだと孫文と激論した。これは滔天の主張は無理だったが同志の一部が

挙兵して失敗した。これは滔天にとって大きなショックであった。

失意の滔天は浪曲中興の祖桃中軒雲右衛門に入門し、各地の寄席に出演して

いる。その中国では学生を中心に革命への機運が高まっていった。

彼らは次々に来日し滔天宅は中国人留学生の来訪が絶えなかったという。

滔天は彼らの指導者の一人黄興を孫文に紹介し、中国革命同盟会の設立に奔走

した。辛亥革命が勃発すると滔天は中国に渡り、南京政府の設立に尽力した。

だが結局袁世凱(えんせいがい)に権力を奪われてしまう。

晩年滔天は自分の中国革命への関わり方に自己批判的になっている。

滔天の息子宮崎竜介と柳原白蓮のロマンスは一時世間を騒がしいている。

F10000011 F10000022柳原白蓮は本名柳原燁子(あきこ)といい華族柳原伯爵の妾の子

であるが、柳原邸で育てられ、女子学習院へ行って

いるが、幼くして強制的に結婚させられたが、間もな

く離婚して柳原邸へ戻って生活したが、それはみじめ

なものであったようだ。

その後九州の炭鉱王で老人の伊藤伝右衛門の後妻に政略結婚させられる。

伊藤伝右衛門の屋敷は、銅の屋根ぶきで「あかがね御殿」と言われていた。

しかも財布は、女中頭で妾に握られ、さながら「かごの鳥」のようであったという。

そこへ帝大生の宮崎竜介が訪ねてきて、二人は恋に陥りついに「公開絶縁状」

を新聞に掲載して二人は駆け落ちしてしまう。

F100000334 二人は結婚し、のちに宮崎竜介は衆議員に立候補する。私は当

選したものと思っていたが、落選したようである。

二人は一男一女を設けている。

先年テレビで宮崎某という東大教授が「我が家は、孫文や中国革

F100000456の志士が来訪している」と言っていたのでてっきり宮崎夫妻の子

供と思っていた。しかし夫妻の長男は早稲田大学政経学部に進んだ

が、学徒出陣で鹿児島県鹿屋の特攻隊基地に配属され、終戦の四

日前爆撃で戦死している。

白蓮の胸に息子の戦死は癒せない痛手であった。翌年彼女はNHKの放送で、戦

争で子供を失った悲しみと、恒久平和を願う心を切々と訴えたという。

民放のテレビで見た東大教授は彼女の息子でなく、娘婿であったようだ。

|

« 宮崎滔天 | トップページ | 反面教師 »

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1320966/36618539

この記事へのトラックバック一覧です: 宮崎滔天:

« 宮崎滔天 | トップページ | 反面教師 »