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2010年8月29日 (日)

美術館

美術館

二三日前のテレビで、百年間かかって美術館が開館したと報じていた。すると昨日

夕刊に「三菱が夢見た美術館 岩崎家と三菱ゆかりのコレクション」というタイトル

で11月3日まで、有楽町・三菱一号館美術館。三菱創業家、岩崎家が設立した静嘉F100000112

堂、東洋文庫や三菱系企業などが所蔵する作品を集め、明治時代

に三菱や建築家ジョナサン・コンドルが東京・丸の内に構想した美術

館計画をしのぶ。F100000112345 岸田劉生「童F1000002345 女像」、黒田清輝「春の名残」などから洋画を積極

F100000713141516 的に収集し画家たちを支援した側

がうかがえる。コンドルの建築図面

ほか、国宝、重文化財を含む古美術、古典籍も展示。

と報じていた。

F10000041112 写真の童「女像」はよく見慣れている「麗子像」とどこか違うと思って

いたらあちらは着物を着ていて、こちらは洋服の違いだそうだ。

テレビでは、絵画の展示の中で、草ぼうぼうの絵があってそれはどこかわかるかと

質問していた。それは明治時代の丸の内だといっていた。以前この

ような写真を見たことがあるがそれは小学唱歌「春の小川」の田舎の小川にかかる

水車小屋で、その小川が大正時代の現在の渋谷のど真ん中に流れる渋谷川であっ

た。明治になって参勤交代もなくなり江戸城前はあれすたれ、キツネやタヌキの住い

となていた。ときの政府はこれを払い下げようとするが買い手がつかず、遂に岩崎

に目を付けて払い下げた。人々は岩崎もとんだ災難だと同情する。長くこの原っぱ

を三菱ヶ原と呼んだ。弥之助は「将来国表玄関になるところだ」と言って下手な建物

は建てさせず、のちに三階建の赤レンガのビル群を立てて、各会社に貸し与えた。

これ

が戦の丸の内のビルで、この度の美術館も赤レンガのビルを復活したものだとい

う。この美術館構想は、岩崎弥太郎の弟二代目の弥之助で彼は本郷東大近くにコ

ンド建築の屋敷作り、夏目漱石に皮肉られている。しかしこの屋敷は戦後最高裁

の研修所所として使われていた。弥之助は息子小弥太が学生時代訪ねてきて

も、家の贅沢を見せないため応接室でしか会わなかったという。

岩崎には別宅が沢山あるが、その中でも駒込の静嘉堂、東洋文庫の近くにある六

義園(りくぎえん)は、五代将軍綱吉のお側用人柳沢吉保の屋敷で、綱吉がしばしば

通ったところである。

また深川の清澄庭園(きよずみていえん)元禄時代の豪商紀伊国屋文左衛門の別邸

でのちに久世大和守の下屋敷となり、明治維新後徳川慶喜が所有し、それが岩崎

の別邸となり戦後六義園も清澄庭園も東京都の所有となって現在公開している。

F10000036710 また戦後エリザベスサンダーホームの園長として混血児を育てた澤田美喜は小弥

太の娘である。 従って澤田美喜の大叔父は、岩崎弥太郎である。

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