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2010年8月

2010年8月31日 (火)

インド人

インド人

今朝のトレビで日本のインド人社会を紹介していた。中華街の中国人社会と西新宿

朝鮮人社会は有名であるが、第三番目に葛飾のインド人社会が成り立ちつつあ

るというものである。彼らインド人の多くは、東京丸の内の銀行・商社のITの一翼を

担っているというもので、以前のインド人の悩みは、言葉の問題と食住の問題であっ

たようだ。インド人はベジタリアン(菜食主義者)でどの食べ物に肉・魚・卵が入ってい

るか分からずに苦労したようである。また住居の問題も貸してくれる家主がおらず理

解して貸してくれる家主がいても保証人が見つからない苦労があったようだ。しかし

現在はこれらの悩みも解消し、インド料理の店もあり現在は日本人も来ていて盛況

ののようだ。また教育の問題も現在はインド系のインターナショナルスクールもあり

インド人の子弟の教育目的が今では日本人が六十五名在学しているという。

彼ら日本人の目的は、ITの勉強が出来ることと英語の勉強ができることににあるよ

うだ。以前見たテレビで、インドのITが盛んなのは、「インドでは身分制度によって就

ける職業が決まってしまうが、IT産業だけは、身分制度に関係なく誰でも才能があ

れば就けるので、IT産業が盛んだ」と聞いている。

なお葛飾区にインド人が多いのは、葛飾はJR、地下鉄いずれでも一本で20から30

分で都心に出れる交通の便にあるよだ。

戦時中インド独立の志士として、チャンドラボース、ビハリボースが有名であった。

ビハリボースは日本に亡命中新宿の中村屋の店主相馬黒主、黒光夫妻の娘婿とな

り中村屋で「カリーライス」を作っていた。戦後中村屋の「カリーライス」を食べたが市

販で五十円か百円のカレーが、中村屋では五六百円していた。相馬黒光は、中村

屋を芸術サロンとして開放し、芸術家のスポンサーとして君臨していた。

チャンドラボースは日本亡命中インドの独立に励み、あの悲惨なインパール作戦

は、チャンドラボースがインド独立のためにインド侵攻を進めたためといわれてい

る。インド独立の手法としてガンジーは「無抵抗主義」をかざし、チャンドラボースは

「力で」と違いはあるが、どちらもインド独立の志士に違いはない。

終戦の時チャンドラボースは、台湾からロシヤへ亡命しようとするが、航空機事故の

ため台湾沖で墜落して客死した。

十年前見たテレビでインドでは現在もガンジーとチャンドラボースは独立の志士とし

て尊敬されていするという。

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2010年8月30日 (月)

もんじゃ焼

もんじゃ焼

今朝NHKのテレビは下町を放送していた。その際下町には、もんじゃ屋が沢山ある

が、「家庭のもんじゃはどんなものか」訪ねて回ったが、関西のお好み焼ゃたこ焼きが

家庭で作られるように下町ではもんじゃは買い食いするもので、家庭医で作るものでな

いことが分かった。私はもんじゃを食べたこともないし、また食べたいとも思はない。江

戸は徳川時代から参勤交代で武士が、単身赴任するため、買い食いの癖がついてい

たため家庭ではもんじゃは作らないとのことで、もんじゃはもともと学校帰りの児童が

駄菓子屋でおやつ代わりに買い食いしたものであることが分かった。

またもんじゃの由来はもんじゃを焼きながら文字を書いて覚えたためとも言うし、1 文

からきているとも言っていた。

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2010年8月29日 (日)

美術館

美術館

二三日前のテレビで、百年間かかって美術館が開館したと報じていた。すると昨日

夕刊に「三菱が夢見た美術館 岩崎家と三菱ゆかりのコレクション」というタイトル

で11月3日まで、有楽町・三菱一号館美術館。三菱創業家、岩崎家が設立した静嘉F100000112

堂、東洋文庫や三菱系企業などが所蔵する作品を集め、明治時代

に三菱や建築家ジョナサン・コンドルが東京・丸の内に構想した美術

館計画をしのぶ。F100000112345 岸田劉生「童F1000002345 女像」、黒田清輝「春の名残」などから洋画を積極

F100000713141516 的に収集し画家たちを支援した側

がうかがえる。コンドルの建築図面

ほか、国宝、重文化財を含む古美術、古典籍も展示。

と報じていた。

F10000041112 写真の童「女像」はよく見慣れている「麗子像」とどこか違うと思って

いたらあちらは着物を着ていて、こちらは洋服の違いだそうだ。

テレビでは、絵画の展示の中で、草ぼうぼうの絵があってそれはどこかわかるかと

質問していた。それは明治時代の丸の内だといっていた。以前この

ような写真を見たことがあるがそれは小学唱歌「春の小川」の田舎の小川にかかる

水車小屋で、その小川が大正時代の現在の渋谷のど真ん中に流れる渋谷川であっ

た。明治になって参勤交代もなくなり江戸城前はあれすたれ、キツネやタヌキの住い

となていた。ときの政府はこれを払い下げようとするが買い手がつかず、遂に岩崎

に目を付けて払い下げた。人々は岩崎もとんだ災難だと同情する。長くこの原っぱ

を三菱ヶ原と呼んだ。弥之助は「将来国表玄関になるところだ」と言って下手な建物

は建てさせず、のちに三階建の赤レンガのビル群を立てて、各会社に貸し与えた。

これ

が戦の丸の内のビルで、この度の美術館も赤レンガのビルを復活したものだとい

う。この美術館構想は、岩崎弥太郎の弟二代目の弥之助で彼は本郷東大近くにコ

ンド建築の屋敷作り、夏目漱石に皮肉られている。しかしこの屋敷は戦後最高裁

の研修所所として使われていた。弥之助は息子小弥太が学生時代訪ねてきて

も、家の贅沢を見せないため応接室でしか会わなかったという。

岩崎には別宅が沢山あるが、その中でも駒込の静嘉堂、東洋文庫の近くにある六

義園(りくぎえん)は、五代将軍綱吉のお側用人柳沢吉保の屋敷で、綱吉がしばしば

通ったところである。

また深川の清澄庭園(きよずみていえん)元禄時代の豪商紀伊国屋文左衛門の別邸

でのちに久世大和守の下屋敷となり、明治維新後徳川慶喜が所有し、それが岩崎

の別邸となり戦後六義園も清澄庭園も東京都の所有となって現在公開している。

F10000036710 また戦後エリザベスサンダーホームの園長として混血児を育てた澤田美喜は小弥

太の娘である。 従って澤田美喜の大叔父は、岩崎弥太郎である。

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2010年8月28日 (土)

渡邊武

渡邊武

今日の夕刊は、渡邊武の死去を報じていた。アジア銀行初代総裁。享年百四歳。

19340年大蔵省(現財務省)入省。49年に戦後初の財務官に就任し、戦領下でGHQ

(連合国軍総司令部)交渉を担当した。国際通貨基金(IMF)や世界銀行の理事を

て、66年から72年にアジア開発銀行の初代総裁を務めた。76年勲一等瑞宝章を受

章。と報じていた。

渡邊武は、私がパソコンに入門する切っ掛けを作った人物である。

今から十何年前彼が九十何歳の時、テレビでダンスをしている老人がいた。テレビ

で彼の略歴を紹介し、彼は「私は新しがり屋で、十代ではライカを片手に写真に熱

中し、現在はパソコンに熱中している」と言っていた。私は九十代の老人がやってい

るパソコンを若輩の私ができなくては恥だ」と発奮してパソコンを始めた。

渡邊武は、信州諏訪出身で伊藤内閣の大蔵大臣をした渡邊国武ののり養子で、父

は国武の兄で宮内大臣を務めた渡邊千秋である。

国武は伊藤内閣で「日露戦争をすれば國家の財産が破産する」と内閣でただ一人

対し内閣総辞職にサインせす゛明治天皇から辞任を勧告されている。

また岩波文庫の名士のグルメを紹介する文で、他の人々はご馳走を紹介している

が彼ひとり「一番うまいのは家で作ったそばと裏の畑から取ってきた{ちびった}

み大根をおろして薬味にして食べるそばだ」と答えていた。

ちなみに国武は生涯独身であったため甥を養子にしている。

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2010年8月21日 (土)

坂東太郎

坂東太郎

坂東太郎、筑紫二郎、四国三郎とは、何かご存知ですか。人名ではありません。

河の別名です。坂東太郎は、関東平野を流れる利根川で、筑紫二郎は筑後平野を流

れる筑後川で、四国三郎は、現在もてはやされている四万十川ではなくて、吉野川で

ある。戦時中は、四万十川は無名で、吉野川は四国を流れる大川として有名であっ

た。さて坂東太郎こと利根川を辞書で引くと、トネはアイヌ語で長い、の意)から関東地

方を貫通する大川。一名、阪東太郎。新潟ね長野、群馬3県の県界の三国山脈北部

丹後山付近に発県し、東南へ流れ、銚子市で太平洋にそそぐ。流域は群馬・栃木・埼

玉・茨城・千葉の5県にまたがり、一万六千八百四十平方キロメートルで日本最大。

長さ三百二十二キロメートル。

筑後川は、熊本・大分・福岡・佐賀の4県を流れる九州第一のの川。熊本県阿蘇山

側発源する大川と、大分県九重山に発する玖珠川とを水源としは、日田盆地を経

て筑紫平野を流れて有明海に注ぐ。長さ百四十三キロメートル。筑紫次郎。

吉野川は、四国の川。高知・愛媛両県境の石鎚(いしづち)山脈中に発源。高知県

北部を東流、徳島市街の北で紀伊水道に注ぐ。上流に大歩危(おおぼけ)・小歩危

(ごぼけ)の渓谷がある。長さ百九十四キロメートル。四国三郎。とある。

川も時代によって盛りすたれがあるものだ。

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2010年8月20日 (金)

正露丸

正露丸

先日正露丸が、あと少なくなったのでドラッグストアーで正露丸を探して驚いた。

テレビで宣伝しているように正露丸は、ラッパのマークのT社一社かと思っていたらMTtf100000112 Mf1000002456

社とH社の三社があることを知らされた。

T社はラッパのマークであり、M社は錨(いかり)のマーク

でH社はただ感じで本草(ほんぞう)書かれていた。

私の子供のころ正露丸は、家の常備薬で、食あたり

などのとき飲まされていた。

当時はラッパのマークてぜなく馬に乗った兵隊が軍機を

背負い片手にラッパを下げていた。

正露丸は征露丸と書かれ、日露戦争の時の陸軍が、濁り水など飲んだ時の消毒薬

であった。さしずめM社の錨のマークは、陸軍に対して海軍の常備薬であったのであ

露あう。正露丸はそのほとんどがクレオソートが生薬となっている。

T社とH社の正露丸は、胃腸薬となっているがH社の正露丸は、止瀉薬(ししゃやく)

(下痢止め)となっている。

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2010年8月18日 (水)

上杉鷹山

上杉鷹山

ケネディ米大統領であったか、来日の第一声が上杉鷹山の事績に触れていて大変

いた。私が上杉鷹山を知ったのは、小学校の修身か読本の教科書で教えられて

からである。

上杉鷹山は、名は治憲といい日宇が高鍋藩士の二男として生れたが、米沢藩主重

F10000011 の養子となり財産欠乏の米沢班の改革を進め殖産に努めた。

上杉家は上杉検診以来の名家であるが、関ケ原の合戦に敗れて会Shinocimg0302

百二十万石から米沢三十万石へ減知、転封されShinocimg0302_2Shinocimg0289

らに十五万石に減らさ

れて、藩財政は逼迫して

Shinocimg038111 いた。上杉鷹山は、藩政の改革本部を設けて、費用の大削減を実

行した。養蚕を奨励し、のちに名産となる米沢織を生産した。また儒

学者細井平洲を米沢に招き藩校を開いて文教政策に力を注いだ。

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2010年8月17日 (火)

湖底に沈む

湖底に沈む

湖底に沈む身は悲し***の歌は戦時中東京都(もう東京府ではなかったと思う)の水

源とて、小河内(おごうち)ダムの底に沈む家々を悲しんだ流行歌で、東海林太郎

(しょうじたろう)が゛歌っていた。小河内ダムは戦時中に解決したものとばかり思って

た。

昭和三十年代に映画館のニュースで、蜂ノ巣で村人たちが、座り込みでそれを排除

する警官隊とめている状態を報じていたが、まさか小河内とは思はず九州のどこ

かかと思って見過ごしてた。戦後も小河内ダム建設は村人たちがもめていたこと

になる。現在は小河内ダムは整備され美しい景色を漂わせ、周囲には食べ物屋が

立ち並び観光客を目当てに商売をしている。

小河内ダムのおかげで東京都民の水甕は潤っている。

最近は利根川の上流、群馬県の川原湯温泉が東京都他一都数県の水源として湖

底に沈むことになっていた。川原湯温泉は、昔会社の慰安旅行でいったことがあ

るが、吾妻渓谷(あがつまけいこく)沿いの風光明媚なところである。何十年もかけて

村人も納得しダム建設もほとんど終わりに地被いたとき、政権交代で民主党の政治

になったとき過去のいきさつを無視して工事中止を宣言し、工事復活のめどは立た

なくなってしまった。今年は水不足がなかったからよいが、いつか水不足の年にしっ

ぺが返しを食っても後の祭りである。

 

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2010年8月15日 (日)

大東亜戦争

大東亜戦争

今日は、終戦記念日だ。終戦の日のカッカと照りつける太陽を六十五年もたった今

も昨日のことのように思い出す。もうそろそろ大東亜戦争の真の評価をしてもよい

ころだと思うが***。「盗人にも三分の理」というが、三分どころがもっとあると思う

が。今次大戦の呼び名は三種類ある。日本は大東亜戦争。米国は太平洋戦争。そ

れ以外の国々は、第二次世界大戦。しかし最近になって東南アジア太平洋戦争と呼

んではどうかという意見もあるようだ。大東亜戦争とは、「大東亜共栄圏」のための

戦いという意味である。「大東亜共栄圏」を現在の辞書で引くと「太平洋戦争期に日

本が掲げたアジア支配を正当化するためのスローガン。欧米の勢力を排除して、日

本を盟主とする満州・中国および東南アジア諸民族の共存共栄を説く」とある。

事実当時の東アジアは欧米支配の植民地で、独立国は日本・満州・支那・タイ

くらいで、支那も主だった都市は欧米列強の租界地で支那人は自国にも関わらず出

入りできなかった。

戦時中日本は、米国支配のヒリッピン、英国支配のビルマ、マレー(現マレーシヤ)、

オランダ支配の蘭印(現インドヤ)、支那と満州を含めた六か国の首脳を東京に集め

六か国会談をしている。当時の欧米列強では絶対に考えられないことである。

しかも戦後まもなくから日本がスローガンのように植民地が解放され、それぞれ

立して現在に至っている。。大東亜戦争はいいかえㇾば、欧米列強から植民地を解

放するための戦いであったともいえる。げんにに林房雄は「大東亜戦争肯定論」を

書い大東亜戦争を肯定している。

広辞苑で「林房雄」を引くと「小説家。本名、後藤寿夫。大分県生まれ。東大中退。

プロレタリア作家として活動。小林秀雄らと「文学界」を創刊。のち浪漫主義的民族

主義に転向。作「青年」「息子の青春」、評論「大東亜戦争肯定論」などある。

中曽根元首相たちは、何の弁明もせず「評価は百年後の歴史に待つ」といい続けて

いた。

大東亜戦争は日本が仕掛けた戦争のように言われているがさに非ずである。

日本は支那事変を終結できずに困惑していたが米国はかげから、蒋介石政権(重

慶)に武器、弾薬、飛行樹を送って戦争を援助していた。

さらに経済制裁とて.A,B.C.D.包囲陣を敷き、Aはアメリカでヒリッピン群島、Bはブリ

ティッシュ(イギリス)でインド・ビルマ・マレー、Cはチャイナ(支那)で支那大陸、Dはダ

ッチ(オランダ)オランダ領インドシナの諸島で日本を完全に包囲して経済を封鎖し、

日本に石油の輸入ができないように締め付けてきた。当時の日本は「石油の一滴

は、血の一滴」と言われ石油の節約を強いられた。しかも米国は日本との和平交渉

にも乗らず、日本は来栖(くるす)駐米大使のほかに、野村全権大使を派遣して交渉

るが、ハル国務長官は「日本は、無条件で支那大陸から引き上げれば交渉に応

ずる」と最後通帳を突き付けて会談に臨もうともしなかった。戦後ルーズベルト大統

領の前任のフーバー元米大統領はこの大戦は米国が仕掛けた戦いと看破してい

た。

石油が不足して困った日本陸軍は、大戦が始まると石油の生産地蘭印(現インドネ

シア)のスマトラ島のパレンバンに落下隊で突入し石油を確保した。

このような米国の正義感に燃える態度は、戦後になっても二度経験している。

それはイラン戦争とイラク戦争の勃発時の米国の強硬な姿勢である。

そうは言っても終戦時米国が進駐で日本は助かっている。あれがソ連であったら日

本はずたずたにされていたであろう。

最近買った本で知ったのだが、マッカーサー元帥が東京裁判終結後の約二年半後

にアメリカ上院の軍事外交合同委員会で日本が戦争に突入した動機は「日本は絹

産業以外には、固有の産物はないのです。彼らは、綿がない。鈴がない。石油の産

出がない。ゴムがない。その他実に多くの原材料が欠如している。そしてそれら一切

のものがアジアの海域には存在していたのです。もしこれらの原料の供給を断ち切

られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れて

いました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の

必要に迫られてのことだったのです」と。

見るべき人は見ていたといえよう。

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2010年8月12日 (木)

マウス

マウス

ノートパソコンを使うようになってからは、常にタッチパッドでパソコンを操作してい

た。そのためマウスを使う機会がなく、パソコンスクールで、マウスを使うが操作がF100000112_2

下手特にダブルクリックは、失敗の連続でますますタッチパッドを使

用に終始していた。

しかし前回買ったノートパソコンを使用中にタッチパッドが動作しなく

なり、マウスを使うようになって、現在はマウス自由に操作できるようになり、その

F1000002456_2 便利さにひかれ初めてきた。

今は、百円パソコンでゲームを楽しむときにも、ノートパソコン用に買

ったマウスを外して使っていたが、マウスの切り替えが面倒になって

最近になって小型で手ごろなマウスを百円パソコン用に買って使用

て便利にしている。

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2010年8月 9日 (月)

桐生悠々

F100000212 桐生悠々

桐生悠々は元信濃毎日新聞の主筆で「関東防火大演習を嗤(わら)

う」という、陸軍の防空大演習批判する記事を信毎の社説に乗せ、

軍部の勘気に触れて、信毎を追われたジャーナリストである。

広辞苑によれば、桐生悠々は、「ジャーナリスト。本名、政次。金沢生

れ。東大卒。信濃毎日新聞主筆。雑誌「他山の石」を発刊し、軍部・戦争批判を続

る」とある。

昨日の日本経済新聞の桐生悠々の記事で桐生悠々の略歴は、大阪毎日新聞、朝

新聞などを経て信濃毎日新聞主筆に就任とある。

抵抗の新聞人桐生悠々が使った机は今も信濃毎日新聞の本社にある」という記事

で、「権力に敢然と立ち向かった記者がいたという誇らしい気持ちと、軍の圧力に負

けて彼を守りきれなかったジャーナリズム企業の敗北感の両面がある」という小坂

宗太郎専務の談話が乗っていた。

悠々が主筆時代信毎の「経営は編集に介入せず」の方針のもと、オーナーである小

坂順造社長と弟の武雄常務(のちに社長)は、悠々の社長批判の論説さえ容認して

いた。小坂専務は武雄常務の孫である。

昭和八年「関東防空大演習を嗤う」という社説が掲載された。数日前に行われた陸

軍の大演習を論じたもので、悠々は「敵機を関東の空、帝都の空に迎え撃つという

ことは、我が軍の敗北そのものである」「敵機は本の沿岸までに防がなければな

らず、本土に侵入を許せば東京は関東大震災と様に焼け野原になる」と警告し

た。以前から信毎の反軍的論調を快く思わなかっ軍関係者と地元の在郷軍人会

の幹部は信毎に乗り込み、不買運動を展開すると脅した。信毎存亡の危機に悠々

は社を去らざるを得なかった。

しかし悠々は退社の翌年個人雑誌「他山の石」を発行。二・二六事件の際は「だか

ら言ったではないか。早く軍部の妄動を諌めなければその害の及ぶところ測り知れ

い」と軍部を批判し続けた。軍部は発禁・削除処分で弾圧。太平洋戦争に突入す

三ヶ月前ついに「他山の石」は廃刊を余儀なくされ、「廃刊の辞」のを出したがこれ

も発禁となり発禁命令書は通夜の死の床にもたらされた。

蟋蟀(こおろぎ)は、鳴き続けたり、嵐の夜」東京・多磨霊園の悠々の墓の隣に自身

句碑が建っている。

悠々の死後四年で敗戦。焼け野原にたたずむ人々は、彼の予言の正しさと軍部が

指導した戦争の愚かさわ知った。と結んでいる。

私の元の職場の同僚に桐生某がいた。彼の自慢は、祖父が桐生悠々であることだ

った。

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2010年8月 6日 (金)

河原操子

河原操子

最近の大相撲は、モンゴール出身の力士の活躍が目ざましい。

前横綱朝青龍、現横綱白鵬、その他朝赤龍、時天空等枚挙に暇(いとま)がない。

彼らは若くモンゴールから日本に来てここまでのし上がって来た。しかし彼らに

は少なくとも入れ体制が整ている。

しかし河原操子の場合はこれよりもずっと過酷な状態であった。女は日露戦争が

始ま る直前、モンゴール(旧内蒙古)のカラチン王の要請に答え、若き女の身で単

身モンゴル渡り、モンゴールの高等女学校の開設に尽力し、職責をまとうしてモン

ゴール政府から謝され、モンゴールの女子留を三人連れて帰国している。し

かも当時の陸軍からは、密を受けて、ロシヤ対する諜報活動もしている。

瀬戸内晴美編<明治の女性の知的情熱>で岩橋邦枝著の「河原操子」によれば、

原操子は、信州松本藩の藩士で代々藩に仕える儒者の一族である。

父は日本と支那との友好は東洋平和をもたらすと信じ、そのために支那の事情をF10000022

よく知り、信頼関係を結ばなければならない。また国家百年の計は教

育にありと説いていた。

彼女は小学校高等科を優秀な成績で卒業し、校長の推薦で県立長

野師範の女子部へ進み、師範学校を卒業すると長野市の小学校で

教鞭に立った。日清戦争が始まるともっと学問をしなければならないと考え、東京女

子高等師範学(現お茶の水大学)^へ進学した。その頃の女子高等高師は選り抜

きの才媛の集まる最高学府という誇りに加えて、全学科を受け持つ教師を育成する

ため、学業の負担が大きく彼女は無理がたたって肋膜炎をわづった。一年休学し

て、千葉の海岸で療養して復学するが、病気が再発し「これ以上無理な勉学を続け

ると寿命を縮める」という医者の忠告と校医の診断に従って途退学をする帰郷し

静養に勤めたが、新設の県立長野高等女学校(現長野西高)に乞われて教壇に立

ち数学、理科、歴史を受け持った。当時華族女学校(現女子学習院)の校長である、

下田歌子の信越講演旅行が報ぜられた。下田歌子は、実践女学校(現実践女子大)

の創立者でもあり、当時の女子教育の第一人者であった。下田歌子は支那問題に

関心が深く、日本で初めて清国の女子留学生を受け入れたのも実践女学校であっ

た。教育者下田歌子の信州来訪を知り、奉職先の女学校の校長の紹介状を持って

歌子と面談し、操子の抱負を語った。下田歌子との面会してひと月も立たずに操子

は「至急上京せよ」という歌子からの電報を受けた。上京した操子は華族学校の官

舎に田歌子を訪ね「横浜の大同学校で、この度女子部が新設され日本人の女教

師を人採用することになったが行く気はないか」と相談された。大同学校は横浜

留の支那人の子弟の教育機関で、名誉校長はのちに五・一五事件で暗殺された

犬養である。彼女は大同学校に奉職し、教頭から北京語を習い、将来支那に渡っ

たときに備えて、夜間は生徒としてフランス語を学んだ。

上海の呉氏から「支那人独自の務本(ウーベン)女学堂を創設する為め、日本から

女教師を一人迎えたい」と下田歌子に女教師の斡旋を頼んできた。

下田歌子は河原操子に白羽の矢をたて、河原操子は女学堂に赴任したが、校長は

創立者の呉氏で、操子はただ一人の日本人女教師、他はすべて支那人の男性教

師であった。操子はとりあえず、年齢の違う四十五名の女生徒を三学級に分け、日

本の小学校程度の授業を行った。彼女の受け持ちは、日本語、日本文、算術、唱

歌、図画であった。操子が着任してひと月目ごろ、当時の東京高等師範学校(旧東

京教育大学、現筑波大学)校長の嘉納治五郎が上海を訪れた。河原操子の生徒た

ちは、日本語の歌を歌って嘉納治五郎を迎え、別れに際しては口々に「どうぞまた

おいでください」と日本語で叫び、嘉納をいたく感動させたという。これからしても河

原操子がいかに有能な教師であったということが分かる。

一年が過ぎた頃、日本総領事から蒙古のカラチン行きの話が持ち上がった。

F10000033 「蒙古のカラチン王から日本の女教師を推薦してほしいとの要請が

来ている」と相談され、即答は避けて日本に残した父の同意を得る期

間の猶予を得た。彼女の父は蒙古行きを知り心から喜んで激励して

きた。「日支親善に尽くす人は多いが、日蒙親善のために働く人はい

ない。名誉ある有り難いことだから力の限りご奉公するように****。万一の際はこ

懐剣で自任務は教育事業だけでなく、表面はカラチン王家の教育顧問であるが、

蒙関係をつなぐ外交官であり、命を賭けた軍事秘密情報員として選ばれたのであ

る。当時の日露関係は切迫し、戦争は避けられない情勢にあった。

カラチンは日露両国の勢力が接触する微妙な位置にあって、操子の蒙古行きは教

目的のためだけではなく、蒙古は昔から露国の勢力の強いところで、日本は対

工作に苦心していた。幸い内蒙古のカラチンの王妃は、親日派の実力者である

国の粛親王の妹に当たり、軍部や支那浪人川島浪速(川島芳子の義父)カラチン

王と王妃に働きかけ日本の味方に付けることに成功してた。

操子のカラチン行きに同行した軍曹は表向きは護衛であるが、実は軍曹の任務は

蒙古の地勢を調べて沿道の地図を作ることで、日露戦争で決死の潜入をして有名

な横川省三、沖貞介らの特別任務班の活躍に役立った。

河原操子がカラチンに到着すると王は自ら出迎えて王宮内の案内をし、夜の歓迎F1000004457

晩餐会でも王夫妻は同席して厚くもてなした。

到着した翌日操子は長旅の疲れを休める暇もなく王妃と改めて会っ

て女学校創立の相談にかかった。

王家では開校準備に一か月を予定していたが、操子は一週間後に開校するよう

言し、王妃の同意を得た。操子が急いだ理由の一つは、王内に大多数を占める

露派の反対を危惧したこと。もう一つは一日も早く学校を開校して、裏面の軍事

任務を隠す必要からでもあった。

学校の名は矯正女学堂で、開校までの一週間操子は不眠不休で陣頭に立って準備

万端を整えた。開校式は王夫妻が臨席し、来賓は二百名にも上る盛大な式典であ

った。操子が蒙古入りをして二月目に日露戦争が勃発した。

北京の川島浪速から「近日中に特別任務帯びた決死隊がカラチンを通過する」とい

う連絡が入ったのは開戦間もなくであった。

操子は決死隊の一行を迎えた。それが横川省三、沖貞介たちである。彼らは支那

の商人やラマ僧に変装して到着した。一行の最年少の脇光三は偶然操子の長野

範学校の恩師の息子であった。彼らの任務は敵地深く潜入し、興安嶺大トンネ

爆破して露軍の交通路を断つ重大な使命を帯びていた。

一夜をともに過ごすが、彼ら一行との人生最後の歓談のひと時となった。

戦前、横川省三、沖貞介は、スパイ活動をしてロシヤ軍に捕えられ銃殺刑となる。

銃殺の際二人は目隠しはいらないと拒否して銃殺された烈士として語り継がれてい

。現在の広辞苑で横川省三は「新聞記者、軍事探偵、盛岡藩士の子。自由民権

運動・千島探検に参加。日露戦争で沖貞介とともにロシア軍の後方に潜入、鉄道

破壊を企てたが発見され、ハルピンで銃殺」とある。

二日後一行は、雪の中を出発し、途中で二班に別れ、敵の行動を妨害し、鉄道、電

線、火薬庫の爆発などの活躍をしたが、横川、沖の二人は敵軍に捕えられ銃殺刑

に処せられ、他の一名は奉天で戦死し、脇以下四名は馬賊に惨殺された。

日本軍が鴨緑江を渡り、戦場が満州平野に移ると操子の秘密任務はより忙しく重い

ものになった。情報機関が赤峰に設けられ、そこから届く情報を熱河で受けて北京

へ打電し、逆に北京からの通報を赤峰に伝える、カラチンはちょうど中間の中継地

であった。昔読んだ「近代を築いたひとびと」坂本玲太郎著の河原操子は主に教

面が書かれ軍事面はあまり触れていなかったため、このような男顔負けの軍事活

をしていたとは知らず今読んでも感動する。「近代を築いたひとびと」では特務

一行にいたのは、長野高等女学校初代小林校長の子息となっている。

小林校長の銅像は、現在も長野西高の正門を入ると建っている。

こうした危険な裏面活動に追われながら教育者としての本務を着々進めていた。

開校の際二十四名であった生徒数が、一月後には六十名に増え中には王の妹も交

じっていた。六十名を三学級に分け学科は日本語、算術、地理、歴史、習字、図画

体操、編み物、唱歌(日・蒙両国の歌)、読書(日・蒙・漢の三種類)で上海と同様編

み物に人気があり、毛糸の頭巾は特に評判が良かったという。気候のよい陰暦八

月の園遊会は大成功で、官民三百人が集まり、生徒の図画、習字、裁縫、編み物を

展示日・蒙の唱歌を聞かせご馳走を並べてバザーのような楽しい雰囲気を作り、王夫と操子が教育の必要性を分かりやすく説いた。

翌年秋の園遊会は出席者七百名を超す大盛況であった。

日露戦争が終結して、彼女は秘密活動から解かれた。女学校の基礎もようやく固ま

り彼女は惜しまれて帰国する。北京駅頭には王夫妻そろって見送った。このように

王夫妻が外国人を見送るのは前代未聞の出来事である。

彼女は帰国に際し、蒙古の女子生徒三名を日本に留学させるため同行した。

彼女は帰国後横浜正金銀行のニュウヨーク支店長と挙式を挙げた。

その後「蒙古土産」を書き表し、昭和になって「カラチン王妃と私」という題名で複刊

している。複刊は純粋な志もって誠心誠意尽くした一人の女子教育者とその時代と

の運命的なかかわり、彼女のたどった軌跡を伝えている。

まず何よりも素晴らしい名文が印象に残る著書である。さらに戦前の支那の模様が

克明に記録され資料としても貴重な価値を持っている。作家の保田与重郎は、河原

一の珠玉」と絶賛していると、作家岩橋邦子は結んでいる。

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桃狩り

桃狩り

先日日帰りバスツアーで、山梨まで桃狩りに行ってた来た。

山梨県では県民の98%が桃は熟したものでなく、樹になったままのまだ熟さないもの

食べると言っていた。そういえば十数年前甲府でもも買いその場で、試食したがま

だ未F100000810 熟でわれわれが食べごろとするには十日ほどはやかっちたが、後になって上

記のことを知って納得した。そこで今回のツアーでも桃狩りはあまり

期待していなかった。桃畑で桃狩りは、樹になっている桃をもぐのと

あらかじめ収穫して冷やした桃とがあり、私は収穫して冷やしたF10000057 桃を

べあらかじめ思っていたより美味で、せいぜい一個

ぐらいしか食べられないだろうという予想に反して二個食べた。

ツアーに同乗の人の中には三個食べた人が何人かいたようである。

次は枝豆畑で枝豆の収穫をし、二房お土産にもらてきた。

最後はワイン工房を見学し、ワインを試飲してお土産にワインの小瓶一本もらって

家路についた。期待した以上の旅であった。

なお画像に試用期間中Pho Farm Inn とあるのはパソコンを買い替えて画像処理

ソフトをダウンロードしたが、登録前で試用期間中のための表示である。

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2010年8月 5日 (木)

横文字の氾濫

横文字

最近の横文字の氾濫は目に余るものがある。

町の広告、新聞記事、新製品の名前等各種である。

付近の街のパチンコ屋ので、PALAZZO という店がある。かねてなんという意味か

問に思っていた。あるとき家で英語、独語、仏語、露語の辞書で調べるが発見で

きない。

パチンコ屋に通うお客さんも店の店員も正確な意味を知る者はいないのではなか

うか・誰にも理解されない名前を付けて独り悦に入っているオーナーは何を考えてい

だろうか。カタカナ辞書で調べるも分からない。

最後に電子辞書の複数の辞書を一括して調べる一括検索に書き込むと、パラッツ

ォは「イタリヤ語で[邸館]を意味する。ルネサンス期のイタリヤでは富裕な市民によ

り、都市の街路に面して大規模な[邸館]建てられ、これをパラッツォと呼んだ。これ

住宅にモニュメンタルな性格を与えたものであり、中庭をとり、これに面して、3か

ら4層の階をめぐらして、二階以上を居室にあてる。道路面の外観はルスチカ様式

様々なオーダーを用いて層ごとに表現を変えるのが普通である。有名な例にパラ

ツォ****、パラッツォ・メヂィチ、パラッツォ****などがある。」とありまた電子辞書

頼らなければならなかった。パラッツォには高尚な意味があることは分かったが、

誰に理解されない名前を付けるのはどんなものか。単純に館(やかた)としてはどう

か。

また今日の新聞の朝刊の携帯型カーナビの記事とで某社製品のカロッツェリアがあ

たが、カロッツェリアもイタリア語で「[車]車体を専門に制作する工房で、最近はデ

インなども請け負う」とあった

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2010年8月 4日 (水)

ノートパソコン

ノートパソコン

従来使用していたノートパソコンが、突然破壊してしまった。修理を依頼すると、後日

F10000011_2 電話で修理費が十三万数千円かかるという。そこでパソコンの買い替

えをして、パソコンを立ち上げた。東日本NTT、T-COM、ドコモ携帯の

テクニカルサービスセンターの技術者たちの協力のたまものである。F100000245_2

さらにパソコンスクールで、デジカメ講座で画像処理を教えて頂いた先

生にメールで教えを乞い画像処理ソフトPhot Farm Inn をダウンロード

し登録を完了し、自由に画像処理ができる状態に復帰した。

感謝、感謝。

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