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2010年7月

2010年7月 8日 (木)

お菓子

お菓子

日本ではお菓子をいろいろな種類に分けて読んでいる。

先ず和菓子、洋菓子、水菓子である。

和菓子は日本固有の菓子の通称。日本風の菓子で、洋菓子に対してそう呼んでいる

洋菓子は、西洋から伝来しまたは西洋風に制した菓子で、ケーキ、ワッフル、ビスケットの類である。

水菓子は、日本独特な呼び名で、果物のことである。

それに対して生菓子、干菓子がある。生菓子は、水分の多い、主として餡(あん)類を用いた菓子で餅菓子、饅頭(まんじゅう)や羊羹(ようかん)など和生菓子とクリームや果物を使った洋生菓子がある。

これに対して干菓子がある。干菓子は、水分の少ない和菓子でおこし、落雁(らくがん)、煎餅(せんべい)の類である。

餅菓子は、餅,糯粉(もちこ)、しん粉などをざいりょうとして製した菓子で大福餅、柏餅、桜餅などがある。

餅菓子、饅頭、とか餡パン、クリームパンなどは一個五銭か十銭したが、駄駄菓子と呼ぶ粟、豆、くず米などを材料で作った飴、豆菓子、おこし、五箇宝、金平糖など大衆的な菓子があって、駄菓子屋で量り売りをしていた。

これらは一名一文菓子と読んでいた。

甘いものが好きな私には現在目の毒で、甘いもの絶ってダイエット中である。

日本にはいろいろな呼び名の菓子があって甘党には答えられない国である。

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2010年7月 7日 (水)

そこっ者!

そこっ者

今日は「芭蕉の理論とその弟子たち」の講座の最終回のばかり早とちりをして講習会の会場の大学の校門をくぐって、受講者番号の入った名札を首からぶら下げて玄関へ向かって歩いていた。講座をま隔週の水曜日に行われていた。ところが今週だけは二週間間を置いた来週の水曜日が、講座の最終日であった。

玄関の方から下校して来たご婦人に呼び止められ、講座は来週に開かれる事をきずかされた。彼女も一週間間違えた口である。

類は友を呼ぶと云うことか。

昨夜パソコンで株価を検索する手持ちの端株の株価が\200であったので今日にでも信託銀行へ行って買い増し使用とおもい、今日の朝刊の株式嵐を見るとその銘柄の株価がやはり\200前後であった。

そこで講座もないので油を売ってから、信託銀行へ行き端株の買い増しを注文すると信託銀行の窓口の銀行員が「株券を預けている証券会社で注文するよう」にと言われた。

早速証券会社へ行き注文するとモニターを見て時価の株価は\470だと云う。

「今朝の朝刊も\200なのに」というと「\200は二年ほど前の価額だ」という答えであった。そこで注文を取り消して帰りパソコンを調べると他の銘柄であったらしい事が分かった。

また朝刊を見ると一字違いの他の銘柄の株価と判明した。

また株価が下がるまできながしばらく様子見ることにしよう。

今日は朝から早とちりをして「そこっ者」丸出しの失敗の連続であった。

用心、用心。

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2010年7月 6日 (火)

支那事変-日中戦争

支那事変

陰暦7月7日は七夕である。昭和12年7月7日支那地大陸で蒋介石の許可を得て、日本陸軍が大演習をしていすた。その時支那軍から一発の次発砲があって以前から険悪ムードにあった日支関係に火がっいた。これが゛支那事変であると教えられてきた。しかしこれは一方的に日本側の説明であり、発砲は支那軍からか日本軍からか分らないと思っていた。

先年独協大学の教授の講演を聞き、支那軍からの発砲でなく、毛沢東・周恩来の中国共産党(中共)発砲したものと知った次第である。

それは当時の中京軍は、モスコーのコミンテルン(第三インターナショナル)命令下にあり、コミンテルンが日本と戦時体制に入るよう命令し、その証拠の文面も残っているそうだ。これで今までの疑問が解消した。

中京軍に仕掛けられた戦争に日本軍がまんまとはまってしまったことになる。

その何年か前に蒋介石の国民党は、防共を旗印に北上していたが途中で張作霖(ちょうさくりん)の子供張学良(ちょうがくりょう)に捕えられて、幽閉されてしまった。その時中に入って仲裁したのが周恩来て、周恩来は蒋介石に日本と戦をするよう内諾を得ていたが蒋介石がなかなか約束を履行しないので、日本軍に発砲という非常手段取ったものと思われる。

蒋介石の民党軍と毛沢東の中共軍は協力しあって日本軍とたたかったが、昭和20年8月15 日終戦を迎えて蒋介石の国民党が重慶から南京に戻ったと思う間もなく、中共軍と内戦が始まりあれよあれよという間に、中国本土から追われて台湾に逃げ台湾政府を樹立した。

蒋介石軍の逃走は目を見張るばかりの早さであった。

しかし蔣介石総統は彼を幽閉をした張学良を台湾に引き連れて行き台湾で一生涯幽閉している。

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生薬屋-きぐすりや

生薬屋

現在の薬屋を昔は生薬屋(きぐすりや)と読んだ。辞書を引いてみると

 1.生薬(きぐすり)を売る店。漢方薬の店。

 2.転じて売薬店。薬舗。薬種屋。

と書かれている。

生薬(ぐすり)を引くと薬草のまだ刻まず、調剤してない漢方薬。しょうやく。

とある。

昔の生薬屋には、瓶や缶に入った売薬と漢方薬が置いてあった。

売薬ではワセリンなど缶に詰めて呉れて売っていたし、時には薬を調合して包み紙に入れて畳んでくれた。

また漢方薬では「げんのしょうこ」「どくだみ」のような野原に生えている薬草を乾燥させて売っていたり、サフランとか乾燥した「みみず」も売っていた。

小学生の頃「扁桃腺」を腫らして月に一回ぐらい熱を出していたが、初めのうちは解熱剤として「アスピリン」を服用させたお袋が、「アスピリン」は副作用があると聞いて以後は、熱が出ると生薬屋から乾燥した「みみず」を買ってきて「やかん」か土瓶に水を入れ、そこへ「みみず」を少々入れて沸騰させ、それを茶碗に汲んで飲ませてくれた。するとしばらくして汗をびっしょりかいて高かった熱が嘘のように下がって回復した。

それにつけても思い出すのは、講談本で村井長安という「やぶ医者」が患者から高額の金銭をせしめ、家の庭の「みみず」を獲って乾燥させて渡すと患者が全快したと云う話である。

また製薬会社製の薬が出回る前「やぶ医者が」、薬を調合していた頃薬に重曹混ぜて渡すと病人が全快したと云う話が世間を賑わしていた。

重層は別名重炭酸ソーダと呼ぶ。今朝のNHKのテレビは「重曹の効用」について話をしていた。

重曹は汚れを落とす洗剤として使えるばかりでなく、汗のにおいを消す消臭効果から湯上りのほてりを防ぐ効果、スポーツドリンクとしても使え、赤ちゃんのパウダーとしても使えるとか。子供の頃は小麦粉に混ぜてパンを焼くか、小麦粉の膨らましの効果に利用していた。

そう言えば小学生の頃学校で理科の時間に先生が「ラムネ」之から瓶を持って来てそこへ重曹と砂糖と水を入れて「ラムネ」を作らせて飲ませてくれたことがあった。

「ラムネ」はドイツ語読みで英語読みだと「レモネード」である。これと同じ読み方に「ラジオ」がある。「ラジオ」はドイツ語読みで英語読みでは「レィディオ」即ち無線である。

人名でも大森貝塚を発見した東大教授は「モース」であり、ツートン、ツートンのモールス発信器を発明したのは「モールス」でいずれも英語読みか、ドイツ語読みかの違いで二人は従兄弟同志であった。

重曹は薬用、一般用と工業用に分けられていて薬用に最も使われているそうである。

また重層は、岩塩から生成されると云うのは驚きであった。しかし冷静に考えれば重層はNHCO3であるから食塩を伝は分解し炭酸H2Co3を混ぜれば出来ることは自明の理であった。

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2010年7月 5日 (月)

ケネディー大統領

ケネディー

昭和38年11月23 日は勤労感謝の日で祭日で会社は休みであった。

会社の仲間で同じ大学卒の人々で造っている集まりで「少し早いが忘年会を会社の保養所のある熱海の旅館で行う。ついては新幹線が出来たばかりなので熱海の旅館習合で各自に、片道の新幹線の特急卷と乗車が事前に配布されていた。

夜忘年会をして其の夜は全員旅館に宿泊した。翌日下のフロアーにテレビを鑑賞に行くと云うと「今日はテレビの宇宙中継初日であるから記念になる」と云われテレビの前に座ると「宇宙中継が始まり、先ず画面に映し出されたのは米国テキサス州ダラスへ遊説中のケネディが暴漢に暗殺される」と云う画面であった。

宇宙中継初日の第一報としては誠にセンセーショナルなニュースであり、テレビ界の幕開けにふさわしい速効的ニュースであった。

帰りは箱根見物して、透明高速道路を高速バスで名古屋へ戻った。

なお当時司法長官で弟のロバートも昭和43年大統領戦出馬準備中兄と同様暗殺された。

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2010年7月 4日 (日)

納 豆

納 豆

先日テレビで藁のつと(包)に入れた納豆の製造方法を説明していた。

昔は納豆は藁のつとで製造し、小僧が自転車に納豆を付けて朝晩「納豆、納豆」と売り歩いたと伝えられているが、私の知る限りでは其のような光景を見たことは一度もない。

私の記憶にあるのは、夕方農家の主婦がリヤカーに家で採れた野菜を積み其の片隅に納豆を置いて売り歩いた姿である。

テレビの藁つとに入れた納豆の製造方法は、藁のつとに納豆を入れそれに納豆菌を付着させ温度を上げた室(むろ)に入れ発酵させると云うものであった。

最近はやりの「ビニールの容器に煮豆を入れ納豆菌をかけるとほぼ同じ方法である。ただ違うのは昔風に藁のっとに入っていると云うだけである。

納豆はもともと藁のっとに煮豆を詰めて、放置すれば藁と煮豆の温度で納豆キナーゼという菌が醗酵して納豆が出来るもので、現在のような納豆菌は不用なのである。

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2010年7月 3日 (土)

七 夕

七 夕

七夕を辞書で引くと「五節句の一つ。天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に一度相会すると云う、七月七日の夜星を祭る年中行事。中国古来の風習と日本の神を待つ「たなばたつめ」の信仰が習合したものであろう。奈良時代から行われ、江戸時代に民間に広がってた。邸前に供物をし、葉竹立てて五色の短冊に歌や辞を書いて飾り付け、書道や裁縫の上達を祈る」とある。

七夕祭りは都会では七月七日に行うが田舎では一月遅れの八月七日に行う。

このような例は珍しくなく、正月は、新暦の一月一日に祝ったり旧暦の正月や小正月と云って旧暦の正月十五日、あるいは正月十四日から十六日を祝ったりする。

一月遅れでは雛祭りは三月三日を四月三日に祝ったり、端午の節句を五月五日でなく六月五日に祝い、お盆も七月十三日から十六日でなく八月十三日から十六日にしている。これも民間の知恵であろう。

私の小学生の頃は、八月七日の七夕は夏休みに入り、家で竹の小枝に短冊を付けるのに書道の下手な私は苦痛で何も書かずに短冊を付けた覚えがある。

成人してから初めて見た七夕祭りは、仙台の七夕である。

会社から東北大学選鉱精錬研究所へ超音波洗浄機をおさめに出張し、発信器が寄生振動を起こしとめることが出来ず、応援を待ていた時である。

時は仙台の七夕に遭遇し、繁華街で昼間中ビール飲んで七夕見物をしていた。日る日中ビールを飲むのは初めてで非常に罪悪感を感じたのを記憶している。

驚いたのは七夕飾りを始めている最中に、もう七夕を飾った絵ハガキが出て売っていることであった。

P707001314_2P70700033  P70700044 最近見た七夕祭りは、平塚でこれは七月初旬の土、日曜日を含む日で七月七日の七た。夕の日にはしまってしまうこともP70200088 P702001212 P70200044 あった。P702001817

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宮中の行事

宮中の行事

昔中学校で{「政祭一致(せいさいいっち」即ち「政治(せいじ)(まつりごと)」も「祭事(さいじ)(まつりこと)」も昔は同じ事であった}と教えられた。

現在でも宮中では「政祭一致」の業務を天皇、皇后両陛下が日常業務として行っておられる。

戦前、戦中から戦後の一時期まで祝祭日は、宮中行事に関するものであった。

一月一日は「四方拝(しほうはい)」で天皇が四方(よも)の神々に国家の安泰を祈る日で、一月三日の元始祭(げんしさい)は先祖の霊に国の安泰を祈る日で一月五日の「新年宴会」は天皇が国の高官たちを宮中に招いて新年の挨拶を行い高官の労をねぎらう日である。

二月十一日の「紀元節」神武天皇が国を始められた日として国家の発展を祈る日である三月と九月の春分、秋分の日は「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」と云って先祖の霊を祭る日である。四月三日は「神武天皇祭〕と云って神武天皇の亡くなられた日である。四月二十く九日は「天長節」と云って昭和天皇の誕生日である。

十月十七日は「神嘗祭(かんなめさい)」と云って、その年の春天皇が宮中の田んぼで田植えをして育てた稲を刈り取って、新米を神々に捧げる日である。

十一月三日は「明治節」と云って明治天皇がお生まれになった日で、十一月二十三日は「新嘗祭(にいなめさい)」と行ってその年栽培した新米を天皇が初めて食される日であった。最後は十二月二十五日は「大正天皇祭」で大将天皇の亡くなられた日である。

小学校では「四方拝」「紀元節」「天長節」「明治節」は小学校へ投稿し、式典があって校長先生は「教育勅語」を朗読していた。帰りは正月は「みかん」多の祝日は「紅白のまんじゅう」を貰って帰ってきた。

宮中行事には今でも皇后は宮中で「かいこ」を飼い「蚕玉」を紡いで生糸にしている。このように宮中では、昔の農業国であつた事を忘れずに継承しているのである。

このほか各国の高官が訪日の際には、宮中で面談しその後歓迎の宴会を開き、また親善使節として外国へ渡航している。

現在は「政治の信仰の自由の侵害」を避けて祝祭日には民間行事も入っているが、「元旦」「建国記念日」「春分、秋分の日」「みどりの日(現在昭和天皇の日)」「文化の日」「勤労感謝の日」と名前は変えているが以前の祝祭日が生きてい日がある。追加の七月十九日の「海の日」は明治初年明治天皇が東巡行のため船旅に出かけられた日である。

現在追加され最近は日日(ひにち)が不順になった「成人名の日」は昔の「やぶ入り」の日に当たり「やぶ入り」は正月とお盆の念に二回、商家へ丁稚(でっち)奉公に出されたおこずかいを貰って親元への帰ることが許された日で親元と離れている人々は浅草の六区で映画を見たりして一日を楽しんでいた。

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2010年7月 2日 (金)

路線バス路線変更

路線バス

今日は、病院へ検診のため通院する日に当たり路線バスに乗った。バスで終点のバス停留所より一つ手前の停留所付近から道路に車の渋滞が目立ってきた。

いつものことかとどんと構えていると、最後のバス停を超え道路を左折して十メートル行き右折してほぼ百メートル進むとぱバスターミナル之終点になる地点でJRの職員が運転手を呼び止め、線路の工事をしているので迂回するよう説得していた。道路の途中には二箇所ばかりバス会社の職員がバスを誘導していた。迂回の道路は普段路線バスが通らない場所で一二キロメートル直進し、そこから左折を繰り返してメーン道路に出てバスターミナルへ行く通路である。バス停通貨が一か所で住むところを少なくとも数か所余計に遠回りしたことになる。

このように路線バスが、路線以外の通路走るのに出会ったのは初めての経験で、時間のロスはあったが、なかなか趣のある出来事であった。

このおかげで病院の午前中の診察に間に合わなかったが、特別に診療してもらった。

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2010年7月 1日 (木)

振袖火事

振袖火事

振袖火事は俗称で、事実は明暦の大火という。広辞苑には「明暦3年正月18から28日、江戸城本丸をはじめ市街の大部分を焼き払ったo火事。消失町数400町、死者10万余人、本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼(せがき)に焼いた振袖が空中に舞い上がったのが原因と云われ、俗に振袖火事と称した。災害後本所回向院(えこういん)立てて死者の霊を弔った」と書かれている。

講談本によれば、「金持ちの娘が、町で見かけた反物を親にせがんで振袖にして貰うが、しばらくしてぶらぶら病にかかり、亡くなってしまう。それを悲しんだ両親が娘の供養にと振袖をお寺におさめる。お寺では其の振袖を古着屋に打ってしまう。たまたま金持ちの娘が其の振袖を見て親にせがんで買ってもらうが、しばらくしてぶらぶら病で亡くなっていしまう。両親はそれをお寺に納めるが、お寺は古着屋にうるが、それを見た金持ちの娘が其の振袖を買いまもなく亡くなる。三回も死人がでた振袖を本妙寺では、施餓鬼の日に火を付けて薬と広辞苑の記述の通り江戸城を焼き尽くす大惨事になってしまった」というものである。

作家の安西篤子は「何の不思議でもなく現代流に言えば振袖に結核菌が附着していたのであろう」と云っていた。

二十年ほど前のNHKの見解はこれと異なり、本妙寺の近く丸山町は安芸の国福山の藩主阿部家が最近まで住んでいた。

阿部家が江戸に甚大な被害をもたらしたので、本妙寺が身代わりになって罪をかぶったのではなかろうかというものである。

その証拠に本妙辞は本郷の土地を追われずに現在も其の場所にたている。しかも阿部家からは現在も付け届けがある。ということである。

振袖火事で本丸を焼かれた江戸城再建の話も出たが、二代将軍秀忠の隠し子で初代会津藩主の保科正之が「世の中も平和になたので城はいらない」と建案して江戸城の再建を留めている。

テレビの「暴れん坊将軍」徳川吉宗の活躍に江戸城(実は姫路城)出てくるが、吉宗の時代には江戸城本丸はない。

回向院は死者を弔うため大相撲を開催していた。今でも回向院の周りには相撲部屋が多く建っている。

回向院の境内には、歴代横綱の氏名を刻んだ記念碑が建っている。

余談であるが「ねづみ小僧次郎吉の墓もある。

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