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2010年6月 7日 (月)

大阪方の英雄豪傑の最後

大阪方の英雄豪傑

太閤秀吉は死の床で、秀頼の後を頼んでいたが坪内逍遥の戯曲「桐一葉」ではないが、秀吉に頼まれた人々は、一葉散り、また一葉と散って行った。先ず石田三成が関ヶ原の合戦で敗れ、前田利家死に、加藤清正も死に(毒殺のうわさもある)、最後に大阪城を守っていた片桐勝元も徳川家康の謀略にかかって大阪城を追われた。

家康は秀頼を真綿で首を絞めるように徐々に追い詰め、最後は秀吉の菩提を弔う方広寺に大仏を安置させ、秀頼が鋳造した梵鐘の銘に「国家安康」の文字が有ったことをとがめ大阪冬の陣の口実とした。全くの屁理屈である。

この時は大阪方に味方する大名は一人もなかった。そこで秀頼は諸国の浪人を集めて大阪城を固めた。

集まった浪人たちのなかには幼いころ講談本で読んだ豪傑たちがいた。現在その豪傑たちはどのように評価されているか、広辞苑で確かめてみた。

すると昔の豪傑たちの名前が続々出て来た。

先ず後藤又兵衛「桃山時代の武将。名は基次。初め黒田孝高・同長政に仕えた。のち浪人し、大阪夏の陣で戦死」。

塙団右衛門「安土桃山時代の武将。本名塙(はなわ)尚之とも称。加藤嘉明に従って文禄の役で功をたて、後に小早川秀秋の鉄砲大将。大阪冬の陣で豊臣氏に従い、夏の陣に戦没。

岩見重太郎「伝説の豪傑。筑前小早川家の臣で、諸国を周遊して勇名を挙げ、天橋立で父のかたき広瀬軍蔵を討ち、豊臣秀吉に仕えて薄田隼人(はやと)となったという」小学校の修身で次に出てくる木村重成が大阪城内で茶坊主にいじめられるが無視していた。その茶坊主が薄田隼人に乱暴し、怒った隼人がげんこつを振り上げたところそのげんこつを重成がやんわりと受け止めてなだめた。

重成は薄田隼人をいさめるほどの力量が有ったが忍耐した。そこで「ならぬ堪忍するが堪忍」と堪忍の必要性を説いていた。

木村重成の父は木村重弧玆と云い秀吉に仕え、後豊臣秀次の家老となり、秀次が秀吉に疎んぜられるや秀吉暗殺の計画を立てたと云う理由で切腹させられた。

一族は一時流浪の生活をするが、勘気が解かれ、重成の母は秀頼の乳母となり重成とともに大阪城内に入った。重成は大阪一の美男子で妻白妙も美少女であった。広辞苑の重成は「江戸初期の武将。豊臣秀頼の臣。大阪冬の陣に善戦し、和議の際、家康の血判授取りの使者をしたという。翌年夏の陣に戦死。

家康を和睦の条件に大阪城の外堀だけを埋めると約束して、実は内堀まで埋めて大阪城を丸裸にしてしまった。その結果大阪城は全くの無防備になってしまった。

木村重成が夏の陣に出陣の際妻白妙は二度と兜を閉めないあかしとして兜の緒を切り、兜のなかに香を焚き込めて悪臭が出ないようにし、出陣を前に遺書「一樹一河の流れ***」をしたためて後顧の憂いのないように自殺している。重成、白妙の年は数えで二十歳と十八歳と云われている。

確か現在の大阪城には、木村長門守重成の記念碑が立っている。

白妙の遺書について後世の人は「諸葛孔明の出師の表(すいひのひょう)を読みて泣かざるものは忠臣にあらず。白妙の遺書(名前は忘れた)を読みて泣かざるものは貞婦にあらず」と伝えられて来た。

最後は真田幸村「安土桃山時代の武将。昌幸の次子。名は信繁。幸村は俗伝。関ヶ原の戦ののち父とともに九度山に蟄居。冬の陣に大阪城に入って徳川氏の軍を悩まし、夏の陣に戦死」

大阪方に味方する大名は一人もいなかったが、豪傑たちは最後まで戦って果てた。その名は今日まで鳴り響いている。

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