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2010年6月25日 (金)

鉄砲伝来

鉄砲伝来

鉄砲がポルトガル人によって、種子島にもたらされたのは、天文十二年(西暦1543年)と歴史で教えられたが、それ以外は記憶にない。どうも後は耳学問のようである。

ボルトがル人と日本人はどうして会話ができたのか?   

当時の武士階級は、漢文の素養があったので、ポルトガル人に着いてきた支那人と日本の武士が、文字を漢字で書いて理解しあったようである。今日のように中国が文化大革命で簡体字となる前でよかったと言えよう。

次は国産の鉄砲の製作である。日本には刀鍛冶が大勢いて、鉄砲の製作は簡単にら模倣できた。しかし弾道が「らせん状で」あることは気がつかない。これは島の長が、娘をポルトガル人に提供し教えて貰ったと伝えられている。

鉄砲製作は、鉄砲が種子島へ伝えられて三カ月とも半年後とも言われている。

話は変わるが、ペリーが開港を迫って黒船で来航して半年後には、日本で四藩薩摩の島津、伊予宇和島の伊達、越前福井の松平とうがそれぞれ黒船を造っている。

それに引き換え朝鮮は鉄砲のことは知っていたが、秀吉の朝鮮征伐まで鉄砲は戦争に実用化されず、日本の朝鮮出兵後、遅ればせに鉄砲を実用化している。

現在は秀吉の朝鮮出兵は愚挙のように学者連中が評価しているが、小学生の頃は、快挙として小学唱歌「豊太閤」の三番かに「余力を用いて朝鮮攻むれば、八道見る間に我が手に破られ、国光輝き国威は上がりて、四百四州はおののきふるう、ああ太閤豊太閤」と歌ていた。

朝鮮には気の毒であるが、薩摩の薩摩焼、佐賀鍋島の有田焼、加賀の九谷焼などは朝鮮出兵で捕虜として日本に連れてこられた人々によって、製法が伝えられた。

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