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2010年6月

2010年6月30日 (水)

目覚ましト京

目覚まし時計

我が家で最も愛用している「目覚まし時計」が故障した。

時ならぬ時刻に目覚ましを設定もしてなく、しかもアラームは段にしているのにF1000003678 鳴りだした。あわててアラームを断にするが、もともと断であるので鳴りやむはずはない。

アラームの鍼を回すが変化なし。そこで電池を抜き取るも鳴りやまない。からの電池ボックスに手を突っ込むと鳴りやんだ。

そこで修理をとも考えたが近頃は修理代で新品が帰るので廃却野は個に入れ家電量販店に行き、現在使用中の目覚ましと同じ種類の時計を買って帰ってきた。

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楽しい中国語体験

中国語体験

中国語の初歩を学んだのは、今から三十年ほど前で、たまたま街の電柱の「中国語の初歩を学びたいものは応募するように」という」張り紙を見て入会したものである。F10000021920

講師は明治大学の先生で、学生は街に住まいの男女で中に先生の令嬢の高校生もいた。会場は街の公会堂や空きのない時は先生のお宅で行われた。

当時は毛沢東の文化大革命の全盛時代で、教科書の中国語はその頃流行りの簡体字にピンインのあるもので、文中には革命の同志たちの会話がちらほら見受けられた。

初めての中国語の初歩を学んだ感想は、語学は東洋の国の言葉が欧米の言葉より取りつきやすく親しみやすい云うことであった。

其の翌年年賀状は、中国語で書いて出すように義務付けられ書けなかったらこのような文を書くよう例文を教えてもらった。新年がきて、受講生の先輩から年賀状が届いたが、例文を紛失してしまい日本語の年賀状を返信した。

「白頭翁を悲しむの一節「年年歳歳花相似、歳歳年年人不同」とでも書いて出せばよかったが、後の祭りでそれ以来中国語の講座を受講したことがない。

今回は30年ぶりの中国語講座である。この回の講座は市の広報で知り、往復はがきで応募し、一か月くらいかかって講座受教許可の通知が来た。

講座名は「楽しい中国語体験」日時は週1回で6日間、場所は市役所の支所の生涯学習センターで、講師は大学院博士課程在学中の留学生であった。

講師は男子留学生だとばかり思っていたら女子留学生で、なかなかの才気あふれる佳人であった。

第1日目は「中国語学習のガイダンス」で「四声と軽声」の発音の仕方を学び後はCDで中国の現状を知り、第2日目は「母音と子音の発音」を学び後は中国の食べものを垣間見え、第3日目は「発音の復習と漢字の意味の比較」でその後中国人の日常生活をCDで鑑賞。第4回目は「声調、母音、子音」の復習と日本語と中国語の外来語発音の違いとCD鑑賞。第5日目は「母音と子音の発音の復習」と中国と日本の四字熟語の異同とCD鑑賞。最後に「北国の春」を中国語で朗読し、中国語で歌った。

音痴の私は「北国の春」を中国語で皆で歌うときは何とかついて行けたが、家へ帰って中国語で歌うと歌にならず気がつけば日本語に戻っている状態であった。

第6日目は発声の復習と「京劇」の一部を鑑賞し「中国語で漢詩を読む」で、項羽の「がい(土辺に核の木辺を除く)下歌」、王翰の「涼州詞(葡萄の美酒、夜光の杯***)」の漢詩と李白の「早に白帝城を発っ」の(朝に白帝城を辞す***)の漢詩である。いずれも中学生時代漢文で習ったものである。特に「葡萄の美酒、夜光の杯***)は漢文の先生が中国語で朗読してうっとりと聞いた昔を思い出した。

女子留学生の講師も朗々と朗読していた。漢詩は中国語で朗読するものだと再認識した。韻を踏んで歌を歌ているようである。

「中国語体験講座」は楽しく有意義な六日間であった。以前中国語を学んだ時より中国語の発音は上達したと思う。

ご苦労さまでした。

  

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2010年6月29日 (火)

児玉源太郎

児玉源太郎

百年前祖国を護った児玉源太郎という題で鎌倉生涯学習センター・ホールで講演があるといあうはがきをもらったが、たまたま当日は、県人会の総会が開催されるので、残念ながら出席できなくなってしまった。

私が児玉源太郎を知ったのは、講談本で乃木将軍を読んでからか、小学校で毎年開かれる、3月10日の陸軍記念日(日露戦争中、奉天大会戦で日本が大勝利した日)に戦の模様を聞き、その時満州軍総参謀長の児玉源太郎の功績を話たのか、どちらが先か確かには覚えていない。

講談本によると乃木大将が旅順で戦死者が続出して攻めあぐんでいた時、児玉源太郎は、満州軍最高司令長官大山巌元帥の許可をを得て、乃木書得軍に変わって第三軍を指揮する権限を貰い旅順の乃木将軍のもとえ来て「乃木ここでしばらく静観していてくれ」と云い本国から取り寄せた大砲を旅順でなく二百三高地(爾霊山)へ向けて猛攻撃し、旅順が陥落すると直ぐ参謀本部へ戻り乃木将軍を自殺からすくッたというものである。

また日露戦争が始まる前、「戦争開始から日本は勝利するが、長続きしないので勝利している間に、和平交渉をしてくれ」と言っていたこと。

奉天大会戦前突如日本に帰国し、早く講和交渉を進めて欲しいと言ってすぐ戦場に戻ったと言う。

今次大戦の軍人たちと違って先見の明があった。

小学校で聞いた話では、奉天大会戦前最高司令長官大山巌元帥は、普段着で釣りに興じていて、戦は児玉どんに任したと言っていたとか。

大山巌は西郷隆盛、従道兄弟といとこ同士で西郷の人に任せる気質があったようである。

また上野の西郷の銅像は、西郷の写真がないため西郷従道と大山巌を参考に高村光雲が造ったが、西郷夫人は似ていないと云ったと伝えられている。

総大将がのんびりしている姿を見せたのはゼスチャーであったものと思う。大山はかって「自分が知っていることをしらないふりをするのは辛かった」と漏らしていたそうだ。

大山元帥の娘が徳富蘆花の「不如帰」の浪子で小説で片岡中将は大山がモデルであり、継母は会津藩士の娘小川捨松は後の大山捨松で、岩倉使節団が渡米した時、一所に渡米した女子留学生の一人である。

講談本によれば児玉は日露戦争の前にも乃木助けている。

乃木は一時台湾総督として台湾に派遣されたことがある。当時の台湾は官吏の汚職がまん延していて乃木はその粛正をしたが、官吏たちに嫌われて失脚してしまた。当時部下が母親からのお土産だと言って漬物を乃木に届けた時、汚職を嫌った乃木が漬物という質素な贈物に大層感激したとか。

乃木の後任として台湾総督になったのは児玉源太郎で児玉は後藤新平を台湾総督府民政局長として同行させ乃木を失脚させた官吏たちを総督府から追放している。児玉は植民地経営にも手腕をふるっている。

後藤新平は、水沢藩士の子で私の記憶が正しければ幕末に逃亡して最後に自殺した、高野長英と親戚に当たる。医師となり愛知県の国立病院の院長の時板垣退助が岐阜の金華山のふもとで暴漢に刺された。岐阜からは診察の督促がくるが、板垣の自由党は世の嫌われ者で、愛知県は診察の許可を出さない。新平は「一人の患者板垣を見るのだから」と岐阜に駆け付ける。

板垣は「板垣死すとも自由は死せず」といったことになているがこれは取り巻きが言った言葉とか。しかし後藤は「板垣さん本望でしょうね」といい板垣を感心させ政界に進出のきっかけを作ったと言われている。

後藤は大風呂敷でも有名で上野広小路の大きい道は後藤が東京市長の時の産物である。

児玉源太郎に戻ると江ノ島に児玉を祭る児玉神社がある。それは江ノ島の大橋を渡り、仲見世を通って江ノ島神社の大鳥居と神社の碑(東郷平八郎元帥の書)を左に曲がり突き当ると児玉神社の案内板を左に曲がり、大鳥居をくぐって更に進み木洩れ日の林の中を行くとF10000091011 F10000101314_2 

F10000046_4  F100000112

児玉神社の本殿に到達する。本殿手前右手に爾霊山高地の記念碑がぽつんとたたF1000012171819_2F10000132021_2んでいる。F10000172728やがて鳥居と本殿が現れる。その奥が奥の院である。

児玉北条時宗が元寇のために生まれて来たと同様、児玉源太郎は、日露戦争のために生まれたようにまもなく亡くなった。

乃木は児玉に何度か助けられるがが、児玉は乃木より早くなくなり乃木はさびしく児玉の棺を見送ったとつたえられている。

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赤松小三郎

赤松小三郎

幕末赤松大三郎と赤松小三郎がいた。二人はともに長崎の海軍伝習所で、学んだ中である。大三郎は、明治になって海軍中将となり令嬢は、森鴎外の最初の夫人である。小三郎は、上田藩士で佐久間象山にも比較される人物で、兵学の大家で幕末薩摩の島津家で兵学を教えていた。ところが藩主から帰国命令が出ると薩摩藩士たちは盛大な送別会を行って送りだした。

しかし小三郎の才能が幕府に利用されることを恐れた西郷隆盛は、人切り半次郎こと中村半次郎(後の桐野利秋少将)に命じて暗殺し、葬儀は西郷らで大々的に行った。

幕末にはこのようなことがしばしばあったようで、近藤勇も新撰組の隊長芹沢鴨の寝込みを襲って暗殺し、変わって新撰組の隊長になり、芹沢鴨の葬儀を大々的に行っている。

赤松小三郎の記念碑は、JR上田駅にむかって右手の小高い丘に上った年ころにある、上田城の城内の一角に建っている。

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2010年6月28日 (月)

高齢者講習

高齢者講習

今年は、自動車の免許証の書き換えの年である。県の公安委員会から免許証書き換え前に「高齢者講習会」を受講して、免許証書き換えの申請時に、受講終了の証明書を同時に提出するようにという通達を受けた。

講習内容は、

1.講義

2.運転適性検査器材使用診断と指導

3.実車による診断と指導

で手数料は\5,360である。

持参するものは

1.運転免許証(眼鏡使用者は持参)

2.筆記用具

3.手数料

4.高齢者講習のはがき

である。

高齢者講習は、これで三回目に当るが、講習内容は、前回と同じである。

今日は、講習会の日に当たるので自動車教習所へ行くF10000031 F10000022 F100000134_2 と手数料は、\6,000であると云う。理由は講習予備検査(認知症検査)代がプラスされるからという。

今回免許証を提出して気がついたことであるが、前回まで普通車の免許証であったものが、中型免許証に変わっていたことである。質問するとは規則改定で、中型車(8t)限って運転できるようになったのだと云う。

3年間気がつかずにいたとは***

予備検査は、一枚のボードに四件の物を書いた絵を四ボード見せ、時間をおいて、十六の物件の名称を順序不同で、書けという問題と、ヒントを与えて十六の物を書けと云う問題で、結果ヒントなしで、9件/16件ヒント付きで15件/16件で、「記憶力、判断力に心配なし」であった。

運転適正検査は、CRTディスプレーで、青、黄、赤信号で、アクセル、ブレーキ、ハンドルの左右操作が決められていて、その操作を誤りなく出来るかというテストで「同年代と比較して普通」であった。

動態視力測定は「同年代での評価は普通」で両眼測定視力回復時間は「同年代でやや劣る」であり、眩光下視力は「同年代でやや劣る」であった。

視野測定結果は「同年代と比較して良好」であった。

最後の運転適性結果は、実地運転で「同年代と比較して普通」という結果であった。通算三時間半の講習会であった。

最後に高齢者講習終了証明書を貰って解散となった。

疲れた、疲れた。

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2010年6月27日 (日)

iPhone-4

iPhone-4

iPadが発売されたと思っていたら、立て続けにiPhone-4が発売になり、発売の前Ipadf100000112 夜から徹夜の行列町とか者好きの多いことである。

iPadとiPhone-4のおもな違いはiPadに電話とメールの機能を付加したのがiPhone-4だそうだ。

今日家電量販店でiPhone-4の展示サンプルを見て来た。Iphone4f10000033456

前回売りだしたiPadより数段とスマートである。販売の携帯電話会社は、ソフトバンクのようである。これでは買ってもよいかなと思ったが、iPhone之契約には、下記のサービスへ加入が必要という。

料金プランでホワイトプラン(1)の基本料金\980

パケット定額サービス定額料\4,410または定額料\1,029から\4,410

S!ベーシックパック(1)月額使用量\315

基本オプションパック(1)月額使用料\480とか。

こんな年寄には理解に苦しむ事ばかりであった。

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2010年6月25日 (金)

鉄砲伝来

鉄砲伝来

鉄砲がポルトガル人によって、種子島にもたらされたのは、天文十二年(西暦1543年)と歴史で教えられたが、それ以外は記憶にない。どうも後は耳学問のようである。

ボルトがル人と日本人はどうして会話ができたのか?   

当時の武士階級は、漢文の素養があったので、ポルトガル人に着いてきた支那人と日本の武士が、文字を漢字で書いて理解しあったようである。今日のように中国が文化大革命で簡体字となる前でよかったと言えよう。

次は国産の鉄砲の製作である。日本には刀鍛冶が大勢いて、鉄砲の製作は簡単にら模倣できた。しかし弾道が「らせん状で」あることは気がつかない。これは島の長が、娘をポルトガル人に提供し教えて貰ったと伝えられている。

鉄砲製作は、鉄砲が種子島へ伝えられて三カ月とも半年後とも言われている。

話は変わるが、ペリーが開港を迫って黒船で来航して半年後には、日本で四藩薩摩の島津、伊予宇和島の伊達、越前福井の松平とうがそれぞれ黒船を造っている。

それに引き換え朝鮮は鉄砲のことは知っていたが、秀吉の朝鮮征伐まで鉄砲は戦争に実用化されず、日本の朝鮮出兵後、遅ればせに鉄砲を実用化している。

現在は秀吉の朝鮮出兵は愚挙のように学者連中が評価しているが、小学生の頃は、快挙として小学唱歌「豊太閤」の三番かに「余力を用いて朝鮮攻むれば、八道見る間に我が手に破られ、国光輝き国威は上がりて、四百四州はおののきふるう、ああ太閤豊太閤」と歌ていた。

朝鮮には気の毒であるが、薩摩の薩摩焼、佐賀鍋島の有田焼、加賀の九谷焼などは朝鮮出兵で捕虜として日本に連れてこられた人々によって、製法が伝えられた。

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2010年6月24日 (木)

服部嵐雪

服部嵐雪

服部嵐雪は其角と並んで、蕉門門下の双璧であり芭蕉の弟子の中では最古参に属する。嵐雪が芭蕉に入門したのは、其角よりやや遅れているが、殆ど差はない。

ともに芭蕉の無名時代からの弟子である。嵐雪は下級武士出身で、若いころ武家奉公をしていた。二世市川団十郎は「老いの楽しみ」に嵐雪は、「どらにて〕と書き、嵐雪は其角のところへ転がり込み「其角、嵐雪は、夜具のない道楽な暮らしをしていた」とかいているそうだ。また「嵐雪は俳諧以外の普段は、翁(芭蕉)が気つ゛まりで芭蕉から逃げ回っていた」という。

しかし芭蕉は嵐雪を重んじ「草庵に桃桜あり、門人に其角嵐雪あり」と書き「両手に桃と桜や草の餅」という句を作っている。

其角は華々しい才能を発揮しながらあくまで蕉門の一人として行動したのに対し、嵐雪は少し芭蕉から距離を置く姿勢が見られるとか。しかし嵐雪の句は芭蕉に近いそうだ。嵐雪の句に「うまず女の雛(ひな)かしづくぞ哀れなる」のうまづ女は嵐雪夫人のことで、夫人は猫をかわいがっていた。ある時嵐節がその猫を知人に渡してしまうと、夫人は半狂乱になって探しまわり、嵐雪は知人から猫返してもらい「せめて猫ぐらいの待遇はしてくれよ」と云ったと云う。現代に通ずる話である。

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2010年6月23日 (水)

榎本其角(後に宝井其角)

宝井其角

今日鎌倉女子大の生害学習センターで、年に二回春と秋に隔週五日ほど開かれる講座の中で「芭蕉の理論とその弟子たち」を受講してきた。今日は「其角と嵐雪」であったが、其角について受け売りでまとめて述べる。其角は十四五歳から無名の芭蕉の門人になった。芭蕉の最も初期の弟子の一人だと云う。

其角は芭蕉の弟子であるが、その作風は芭蕉と異なり芭蕉は泥臭さがあるが、其角は、都会的で、芭蕉の取り上げない句も取り入れて、流行を取り入れた句や誇張した表現もしているようである。「越後屋のにきぬさく音や更衣(ころもがえ)」とか「鐘一つ売れる日はなし江戸の春」などだそうだ。また「今朝たんと飲めやあやめの富田酒」のように上から読んでも下から読んでも同じになる句を作っている。芭蕉は其角の才能を愛し暖かく見守った。

其角は生涯芭蕉に忠実に仕えていた。其角は芭蕉より江戸では名声が高かったが弟子入りを希望する人は総て芭蕉に紹介し、芭蕉の弟子としたと云う。

また芭蕉が大阪で客死したとき、江戸の人である其角は本来なら死に目にあえないのに、たまたま上方を旅行中で、芭蕉の病を知りその枕頭に駆けつけ、芭蕉はその翌日息をひきとり芭蕉の死に目にあっている。芭蕉と其角の師弟の関係は非常に深いものであった。

昔読んだ講談本の赤穂義士銘々傳の大高源吾の段では「元禄十五年十二月十三日すす払いの竹を売って歩く源吾と其角が道でばったり出会い、其角は源吾の落ちぶれた姿を見て「年の瀬や川の流れと人の身は」と詠むと、源吾は「明日間たるる其の宝船」と返した。其角は、どこかへ仕官を望んでいると誤解したが、後で討ち入りをそれとなくにおわせたものと分り恥いった」という話しで講釈師が作った話か、事実か知らないがよくできた話である。

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2010年6月22日 (火)

小泉信三

小泉信三

小泉信三は、慶応義塾の塾長であったことは周知の事実である。戦時中春陽堂出版の明治大正文学全集の水上た幾滝太郎(本名阿部章蔵、明治生命の重役)<の小説を読んで、水上と小泉は小学校(慶応の幼稚舎)で一時同級で、後別れるも、中学校(慶応の普通部)も同級となり慶応義塾でまた同級生になり無二の親友となていること、しかも信三の父信吉と章蔵の父泰蔵はともに慶応で福沢諭吉の薫陶を受けていたと云う事を知った。

そればかりか小泉信三夫人は阿部泰蔵の妹であった。

学徒出陣に際しては、最後の野球早慶戦を早稲田の安部磯雄と小泉信三の計らいで実施した。

小泉信三には幻の名著「海軍主計大尉小泉信吉」がある。なぜ幻の名著かというかというと今次大戦で信吉が戦死した際、親しい人に配布して終わってしまっていてたからである。後年文藝春秋で公刊し私も入手した。

息子信吉は、慶応を卒業して、三菱銀行に勤務すること四カ月海軍軍人となって一年二カ月であった。小泉著の頭記本によれば、戦死の電報は海軍省軍事局長名であり、後日連合艦隊司令長官山本五十六からも小泉、以来公式の場に出ることを控えていた。しかし皇太子(今上天皇)の傳育官になって公にも顔を出すようになった。

私が会社の出張で超音波震動子の計測をするため東工大の実吉教授(後の東工大学長)へ行くと学生が使っており、たまたま研究室にいた武蔵工大の助教授が「武蔵工大ではあいているから武蔵工大へ行っては***」と云われ武蔵小山の駅を降りると、号外が配られて「皇太子ご成婚なる」というものであった。

皇太子と正田美智子さんとの婚約を報じていた。日清製粉の社長の令嬢とか
そこで阪大総長に正田という人がいたがと頭をよぎった。阪大の正田総長は美智子さんの伯父と知った。

帰社すると「上司が皇太子も目が有るなあ」とつぶやいていた。

この皇太子のご成婚の陰の功労者は小泉信三である。当時貴族社会で最も発言力が有ったのは、松平恒夫衆議院議長夫人(秩父宮勢津子妃は令嬢)で、小泉信三は松平夫人の反対を恐れて、秘密裏に事を運んでいた。

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2010年6月21日 (月)

夏目漱石

夏目漱石

今日生涯学習センターで「鎌倉物語」を受講して来た。前半は執権北条時宗と無学祖元について元寇を中心の講義であった。無学祖元は蒙古に南宋を追われ来日して建長寺の住職になっていた。時宗が蒙古の対処に苦しんでいた時、「幕盲想(まくもうそう)」とだけ言って時宗の決断を促し、それから時宗は挙国団結して元に対抗する準備を整えて、二度の元寇に勝利した。

元寇で戦死した敵味方の菩提を弔うため、開基が時宗、開山が無学祖元として建てられた寺が円覚寺であると。

円覚寺の塔頭(たっちゅう)である帰源院に初め島崎藤村が、翌年夏目漱石止宿している。藤村は「春」漱石は「門」を書いた。

しかし漱石は「門」でも書いているように、参禅するが何も得られなかったようである。

漱石は東京帝大を出て、初め東京高師(前東京教育大、現筑波大)の嘱託になるが安給料であった。そこへ伊予の松山中学から破格の給料で招聘され、松山へ行く。松山では正岡子規と同じ家で、子規は一階、漱石は、二階に住み、子規が毎日開く俳句の会を開催し、漱石はその甲斐に出席していた。

その頃のことであろう。漱石が俳句、和歌、漢詩を作ると子規は添削をした。「漱石が「英詩を作ると子規はVery good と書いて帰した」と漱石画述べている。

その後熊本の五高の英語の教師として招かた、しばらくすると文部省から英国へ二年間の留学を許可する通知が来て、ロンドンへ旅だった。

帰国後東京帝大で英語の授業を担当する。その頃子規から「ほととぎす」を任された高浜虚子に詩集「ほととぎす」に何か投稿してほしいと言われ「わが輩は猫である」を書きあげる。

漱石の文を受け取りに来た虚子は、これは面白い。しか題名はといい虚子が考えた末書き出しの「わが輩は猫である。まだ名はない。」の「わが輩は猫である」にしたらどうかといってで題名が決まり「ほととぎす」に掲載され好評を博した。

虚子は引き続いて「ほととぎす」への投稿を頼み、松山中学の時代の思い出を「坊ちゃん」に書いて「ほととぎす」に掲載される。

その頃朝日新聞から朝日の専属になって新聞小説を年に一回出してはという誘いがかかり、漱石は東京帝大の教授の座を振り切って朝日新聞に入社し、作家活動に入った。

先ず「虞美人草」「三四郎」と書き「門」「それから」「明暗」の三部作へと続いていった。これは講師の受け売りである。

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2010年6月20日 (日)

愛染かんつら

愛染かつら

愛染かつらは、川口松太郎の小説で、医者と子持ちの看護婦との恋愛小説である。

松竹で上原研と田中絹代の主演映画を上演して空前の大ヒットをとばした。

小説の題名の「愛染かつら」は信州㋨鎌倉、別所温泉の通商北向き観音の境内P925000545_2 P92500043_3 にある愛染明王の前の「かつらの木」から名付けられている。

北向き観音の境内にある高殿の下には、花柳章太郎、池内淳子などの記念碑がある。

P1020026111 北向き観音と善光寺は遂になって参詣する風習があるので、小説にも善光寺がでてくるらしい。

私の小学生の頃、「愛染かつら」のロケで゛長野にもロケ班がきて撮影したようである。お袋の話によると我が家の川向いのおばあさんが独りで住むこじんまりとした家が女主人公(田中絹代)の実家という設定で撮影したようである。

おばあさんは当時九十何歳かで、よく裁縫をしていた。おばあさんの保護者は善光寺の院坊の一軒が面倒を見ていた。

愛染かつらの主題歌「花も嵐も踏み越えて、行くが男の生きる道、泣いて呉れるなほろほろ鳥よ、月の比叡を独り行く」という流行歌が、世を風靡していた。

映画の続編の主題歌「かわいいお前が有ればこそ、母はお前をただ頼み***」

もはやっていた。ある時お袋の叔母がその院坊の娘を連れて我が家へ遊びに来た。娘は数え年四五歳のかわいい盛りであったが、我が家にあった木の箱の上に乗り「花も嵐も踏み越えて***」と歌いだした。その可憐なこと今でも瞼に焼き付いている。

「愛染かつら」の歌について、サトウ・ハチロウが「ほろほろ鳥は世の中にいなくて、歌詞を作詞している時ほろほろ鳥ても入れたらどうかと助言したのだ」と云っていた。

しかし広辞苑には「ほろほろ鳥(ちょう)」が載っていて「キジ目ホロホロチョウ科の鳥。尾羽は短い。頭は裸出、頭に赤食の角質の突起がある。普通暗灰色で、多数の白羽がある。アフリカの草原で群生。肉は美味で飼育される」と書いてある。

アフリカ産なので世の中にいないと勘違いしたのか。

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2010年6月19日 (土)

徳富蘇峰-歴史観

徳富蘇峰

広辞苑には、徳富蘇峰をジャーナリスト・著述業。名は猪一郎。肥後の生まれ。蘆花の兄。と紹介している。

素峰はライフワークとして、「近世日本国民史」を書いて戦前文化勲章の第一回を受賞している。

「近世日本国民史」は、織田・豊臣時代から書き始めて、「明治天皇御宇史(ぎょうし)」六十二冊目の「明治維新と江戸幕府(一)」の巻頭で、[「明治天皇御宇史」を知らんと欲せれば、まず「孝明天皇御宇史」をしらねばならぬ。而して「孝明天皇御宇史〕を知るには、徳川時代を知らねばならぬ。徳川時代を知るには織田・豊臣時代をしらねばならぬ。而して徳川時代は、要するに織田・豊臣時代の相続者であり、ある程度までは踏襲者(とうしゅうしゃ)であり、模倣者(もほうしゃ)であるからにはいきおいさかのぼる必要があるためだ。なお織田氏を知るには、戦国時代を知る必要あり、少なくとも明治維新史の筆を起こすには、建武の中興史よりするが適当であることは承知の上であったがそれでは際限もなきをもって、織田氏時代より始めた]と書いている。

即ち曾こ峰の歴史観は、歴史は断片的なものでなく過去とのつながりの上になっている。従って現在は過去のつながりであり、歴史は過去を知らなければならぬと云う観点から歴史を見ている。

しかし、終戦の年素峰は文化勲章の受賞を辞退している。

逗子の高台に蘓峰の弟徳富蘆花の記念館がある。蘆花記念館は、十六代将軍に当たる徳川家達の別荘で蘆花は、ここに住んで不如帰(ほととぎす)」「自然と人生」など書いていた。「自然と人生」は教科書にも載っていた。

蘓峰と蘆花を仲が悪く和解したのは蘆花の死の床であったと云う。

蘆花記念館を見学した帰り道近くの道路に面いたら「徳富」の名の家があった。

多分蘓峰の子孫が住んでいるのであろう。

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徳富蘇峰-歴史観

徳富蘇峰

広辞苑には、徳富蘇峰をジャーナリスト・著述業。名は猪一郎。肥後の生まれ。蘆花の兄。と紹介している。

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2010年6月18日 (金)

しはしば、墓地購入勧誘の電話がかかってくる。我が家には、郷里のお寺にお墓があって、お墓の必要性を感じないのですぐ「結構です」と云ってことわっている。

お墓は作っても自己満足になるだけで、早晩無縁仏になってしまうのでその必要性は少ないとおもっている。

世の家系を見ても何代も直系の家系が続いた例は少ない。皇族でも有栖川宮家は絶え、昭和天皇の弟宮高松宮(有栖川宮の旧称)が、有栖川宮の祭祀を継承したがその高松宮も跡取りがおらず断絶してしい、墓守をする人がいなくなってしまった。

将軍徳川家も十五代続くも、四代で直系は絶え五代、六代は養子で、八代、十一代十四代、十五代と養子が続く。

このように養子を迎えて家の墓守が続いていた。しかし現在は貴族や金持ちなら養子が来るが、我々貧乏人にはどうかな。

昔穏やかな時代は、家長には招集令状がこなく、徴兵逃れに養子に行く人も多かったが現在は無理であろう。

私ごとになるが、息子は子供がいなく、息子の代で墓守はいなくなってしまう。

戦前佐竹所有の三十六歌仙という和歌の書かれた絵が売りに出され、三井の大番頭益田孝が音どを取って、三十六歌仙を一冊買う人は現れないだろうと一人づつに切り裂き、金持ちに売りつけた。

NHKばらばらの三十六歌仙は何枚残存しているか後をたどってみると、戦災を逃れて佐竹三十六歌仙は三十六人分の無のが判明した。そこでNHKではそれを本にまとめて発行した。本の発行前に秋田の佐竹の子孫を尋ねると佐竹の当主が「私には子供がいないので早晩我が家は耐えるでしょう」と言っていたが、本を発行した時には佐竹の当主は亡くなっていたと書いてあった。

名門佐竹家のことだからきっと養子が後を守って行くので有ろう。

昔お盆に墓参りした時、お袋が「隣のお墓は家が絶えて無縁仏になってしまった」と云って共に線香をたむけていたことを記憶している。

墓の必要性のない例として、徳川将軍家ゆかりのお墓は、上野の寛永寺、芝の増上寺、後楽園の伝通寺と各所にあったが、徳川家だけでは維持できなくなり芝の増上寺の徳川のお墓は整備縮小され、現在は東京タワーの一部になってしまった。

また鎌倉の光明寺の日向の内藤家のお墓は、光明寺の一角を占め林のように林立して名所として紹介されていたが、ある時蘇のお墓が取り払われていた。

理由は内藤家も維持しきれなくなり、日向の内藤家の菩提寺に移転したとの事であった。

なお光明寺は浄土宗の本山で、戦後三枝博音ら鎌倉文壇の文士たちが音頭を取って鎌倉アカデミアという自由大学(鎌倉大学校)を設立し光明寺で授業をしていたが、財政難で廃校になてしまった。

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2010年6月17日 (木)

越路吹雪

越路吹雪

越路吹雪は、宝塚音楽学校ので学生時代宝塚fスターとして活躍していた。彼女はb越路の芸名の通り新潟県の出身である。しかし女学校は、交通の便のせいか、越境入学して長野県立飯山高等女学校に通っていた。

宝塚を対談してから映画の世界に入ったが、その後シャンソン歌手として活躍した。

私の小学校へ途中編入入学した女生徒がいた。その娘の父親は、飯山高女の音楽の先生で飯山から長野県立第一高等女学校へ転任したためであった。

その父親の自慢話は飯山高女時代越路吹雪を教えたことであったと言う。

彼女は小学校を卒業して、長野第一高女に入学したが、風の便りに聞くとその後どうした理由でか自殺したと云う。

後年家内が越路吹雪のシャンソンを聴き絶賛していたが、間もなく越路吹雪は病没してしまった。

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山中鹿之介

山中鹿之介

山中鹿之介は、出雲の国富田城主尼子氏の家来で、出陣するに当たり大きな鹿の角と三日月の兜をかぶり武功をあげ、三日月の夜は、月に向かって「願わくは、我に七難八苦を与え給え」と祈った。

小学校の唱歌の教科書の忍耐という科目で「世を流れての末遂に、海となるべき山水も、しばし木の葉の下くぐるなり、見よ忍ぶなり山水も。身に降りかかる憂きことの、なおこの上に積れかし、限りある身の力試さん、いざ試みん身の力」という山中鹿之介の歌がある。

 難攻不落を誇った月山(がつさん)富田城も毛利の軍勢に攻められて落城し、城主尼子義久は毛利軍に安芸に送られ幽閉され、山陰、山陽十一カ国の覇者尼子はここに滅亡した。苦節の末鹿之は、尼子の血筋で出家していた人を還族させて勝久と名乗らせ、主家再興ののろしを上げるも失敗した。三度目は、毛利と敵対している織田信長を頼り中国攻めの秀吉軍とし共に播磨に下り秀吉が落とした考上月城を守るも毛利の大軍に包囲されしまう。秀吉は三木城を包囲中でぁったが急きょ応援に向かうとともに、信長に応援を求めると信長は上月城の放棄を命じ、上月城は落城し勝久は切腹し鹿之介は捕えられてしまった。

小学校の国語の教科書の山中鹿之介では、主家再興に努力する鹿之介を称賛し、合戦では敵の豪傑と一騎打ちして、鹿之介が敵を投げうち首を切るところまで記述していた。

上月城らくじょうでは尼子勝久が「いたずらに朽ち果てたかもしれぬ私が、一時でも尼子の城主になれたのは、ひとえに汝のおかげである」と言及していた。

最後のこ甲部川の渡しでは毛利軍に鹿之介が捕えられて護送され甲部川にさし掛かっり毛利軍に首をはねられる所で終わっていた。

まさに「山中鹿之介の生涯は七難八苦の一生」であった。

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2010年6月16日 (水)

大相撲-双葉山全盛時代

大相撲

双葉山

私の子供のころ横綱には、玉錦・武蔵山・男女川(みなのがわ)・双葉山の四横綱がいたが間もなく玉錦が亡くなった。

私の記憶にはないが、双葉山は関脇時代から頭角を現し、あれよあれよという間に大関・横綱となっちた。

しかも当時の大相撲は、春・夏場所の年に二場所であとは、地方巡業で遠く朝鮮、満州までも巡業していた。

双葉山は、本場所で優勝を繰り返し、連勝を続けて行った。

優勝12回、69連勝となった。双葉山を破ったのは出羽の海部屋所属の安芸ノ海であった。

双葉山は敗れたとき「我遂に木鶏(もっけい)たりえず」と打電したと伝えられている。「木鶏」とは荘子のなかで、木の闘鶏の彫刻を依頼さた人が彫刻は完成してもまだだ、まだだと納入をのばしていた。理由を訪ねると「闘鶏に荒々しさが残り、強さを内に秘めるまでにならないから」と答えたと云う。双葉山は敗れた時電報で平常心でいられなかった事を伝えたものと云われている。

横綱になってから双葉山は横綱相撲を取り必ず四っに構えてから寄り切りで勝っていた。また相手がいくら早くの仕切っでも受けて立ったちまったをしなかった。

しかし双葉山は左目がけがで見えないため、必ず受けて立ったとも言われ、安芸ノ海はそこの弱点を突いたものともいわれている。確かに双葉山の左目は少しへんであった。

安芸ノ海

当時出羽の海部屋の前頭は、東西の一方を全員で占めていて、しかも同部屋、同一門は相撲が当たらない制度であり、出羽の海親方は双葉山の独壇場を悔しがり、双葉打倒をスローガンにけいこをし、安芸ノ海のけいこの様子を隠し、他の部屋の力士の出羽の海部屋へのでげいこを禁じていた。

安芸ノ海は期待通り、双葉山の連勝をストップし、やがて大関輝国と同時横綱になった。しかし間もなく、出羽の海親方の娘婿となり、引退するや藤島取締役となったがその後親方の娘と離婚し、相撲界から去って行った。

双葉山が立浪親方の娘婿になるようにすすめられたが、辞退し別な女性と結婚した。世間の人は双葉山は利口だとささやいていた。

立浪部屋

立浪部屋は小部屋であった。しかし双葉山が横綱になると、続いて羽黒山も横綱になり、名寄岩は大関となり、旭川は前頭になって、部屋は繁栄した。

羽黒山

羽黒山は双葉山の弟弟子で、当時は同部屋、同門の力士は八百長を嫌って大相撲で当たらないことになていた。そこで双葉山と羽黒山の勝ちが同じで優勝のときは、優勝を双葉山に譲っていた。羽黒山は双葉山と異なり、立浪親方の娘婿となり立浪部屋を継いで立浪親方となった。

それに対して双葉山は部屋を持たず、一代部屋として双葉山道場を起こした。大関鏡岩は引退の際部屋を双葉山に譲り、双葉山は、時津風親方となり部屋を持つことが出来た。弟子は横綱鏡里、大関大内山、若葉山などを輩出した。

前田山

前田山は私の知る限りでは、万年大関であった。前田山のしこ名は前田山が盲腸炎を患った時、前田病院の前田博士が執刀し命拾いしたことに感謝し、前田山英五郎を名乗った。万年大関が遂に横綱に昇進した。

大関時代長野巡業で、市立長野球場で、土地の青年たちと力士が野球をして前田山も興じていた。

野球好きの前田山は、横綱朝青竜ではないが、本場所中に負傷で休場し、プロ野球を観戦したと云うことで問題となり、せっかく横綱になてそんなに間がないのに引退させられてしまった。前田山は引退後、高砂親方として、弟子を育成し大関朝潮などを育て上げた。彼の功績の一つにハワイから高見山を初めて外人力士として招聘し、今日の外人力士の先鞭をつけたことである。

力士のしこ名

現在力士のしこ名は、出身地と関係がない力士が多いが、昔はしこ名て゜出身地がわかる者が多かった。たとえば北海道出身の名寄岩、旭川、宮城出身の広瀬側、青葉城、青葉山、埼玉出身の秩父山のようにである。そのほかにも武蔵山、相模灘、播磨灘、九州山、三重ノ海、安芸ノ海、輝国、肥後ノ海、五ッ島、鹿島灘、肥州山など゛がいて、十両には信州山がいた。

佐賀ノ関

大関で二所ノ関親方を務めた佐賀ノ関がいた。私は佐賀ノ関は佐賀県県出身だとばかり思っていたが、最近になり大分県の佐賀ノ関は関サバ産地と知りなっとくした。道理で佐賀ノ関は力士時代双葉山に可愛がられていたがともに大分の同県人であったからだと。

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2010年6月15日 (火)

国姓爺-鄭成功

国姓爺-鄭成功

国姓爺(こくせんや)は、鄭成功(ていせいこう)と云い父は明朝の遺臣邸芝竜(ていしりゅう)で母は日本人田川氏で長崎の平戸で生まれている。

国姓爺は、明朝から国姓朱氏を賜り国姓爺と称した。

鄭成功は、清軍と戦い、廈門(アモイ)金門島(後の台湾)によって奮戦したが、志を遂げず病没した。

近松門左衛門作「国性爺合戦(こくせんやがっせん)でわ和藤内(和糖内)(わとうない)の名で親しまれている。

時代は日本の鎖国時代で、国姓爺は日本にも応援を懇請したがかなわなかった。

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梅雨入り

梅雨

半月ほど前にお沖縄は、梅雨入りした。その後も関東地区は晴れる日が続いていた。

三日ほど前に近畿・中部地区が梅雨入りした。間もなく関東地区も***と思っていたら昨日関東地区も梅雨入りだった。今年の梅雨入りは、例年より遅れていたようだ。

しかし今朝は、からりと晴れ上った天気だ。それにつけても思い出すのは、小学校の国語で習った「五月雨の晴れ間うれしく、野に立てばのは゛野は輝きて、白雲を通す陽陰に、はや夏の暑さをおぼゆ」という名文である。当時は五月雨と梅雨が同じものと知らずにいたが、五月雨を詠んた゛俳句・和歌は多いが思い。先ず思い出すのは、芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」の句であろう。

今日の晴天は夕方まで続かず夜からは雨のようだ。

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2010年6月14日 (月)

フランス 料理

フランス料理

中学生時代「フランス料理には、食べ物の形もなく成なる程煮っめた料理のが多いのは、昔冷蔵庫のなかったころ、肉も野菜も長く保管出来ず殆ど腐った状態であった。

そこで腐る寸前の食べ物をよく煮て、臭みを防ぐため香辛料を用いていた。

世界の大航海時代から植民地時代にかけて欧米列強は、東洋からもっぱら香辛料を大量に持ち去っていった」と。

昔ある寿司やで寿司職人が「魚も肉も腐る寸前が最もおいしい」と言っていた事がある。それは事実らしい。

しかし現在の大衆は、食通ぶっ魚の漁をする現地で取り立ての魚を食べて「おいしい、おいしい」と言っている。

確かに取り立ての魚はコリコリとして余りうまくない。時間をおいた魚にはうまみがあってまろやかである

ある時甲府で新鮮な桃を買ってその場で食べてみたが、コリコリとしていて余りうまくなかっちた。桃、水密桃は、取り立てより少しおいて熟したものの方が甘くて水水しくておいしい。

先日テレビで山梨県人は、桃のもぎ立てを好んで食べるといっていた。

山梨県人の九十数%はもぎ立ての桃を好むようだ。

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2010年6月13日 (日)

シベリヤ物語

シベリヤ物語

戦後外国から名画が続々輸入されてきた。今にして思えば、東和の川喜多社長夫妻の努力のたまものであった。

その中にソ連映画「シベリヤ物語」があった。すじの概要は、戦後帰還したロシヤ兵がギター片手にシベリヤで「バイカル湖のほとり」の歌を流して歩き、バイカル湖のほとりで、「豊かなるザ・バイカルの、果てしなき野山を、やつれし旅人が、あてもなくさまよう」と歌っう映画でスターリンの全盛時代であり、行く先々の家にはスターリンの肖像画が掲げられていた。

当時私は中学生で、お袋と一緒に「シベリヤ物語」を鑑賞した。その時お袋がポツンと「ロシヤ人も田舎の人は、我々と変わらないんだね」とつぶやいた。

学校へ行くと葉山から疎開してきていた同級生が寂しさを紛らわして「ザ・バイカルの***」と歌っていたのが印象に残っている。

二十年後名古屋の映画館で「シベリヤ物語」を見た。その時はスターリンが失脚した後で、戦後すぐに見た映画のスターリンの肖像画は殆どカットされていた。

それからしばらくして米国映画「わが生涯の最良の日」だったか「わが生涯の輝ける日」だったかの映画を鑑賞した。記憶があいまいなのはどちらかが洋画でそれをまねてどちらかが邦画のタイトルで封切られていたからである。

これも復員軍人の物語で軍隊では将校としてはぱ゛を聞かせていた人が帰国して失業者になって生活すると云う物語であった。

中学の教師が「軍隊と一般社会では大きなギャップがあるんだなあ〕と云っていたことが記憶している。

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香水の効用

香水の効用

香水は体臭を隠すため婦人方の身だしなみとして使われているが、現在は男性も使用する人が増えていると聞いている。

中学生時代聞いた話では、これとは全く違う使用法であった。

昔フランスでは、「排泄物は、道路に投げ捨てて処理していた。、そのため道路は臭気で満ちていた。それを隠すために香水が使われていた」と。

日本はまだ清潔で、便所のことを別名厠(かわや)という通り、便所は川の上に建てられ、排泄物は川に流していたのである。

江戸時代から戦前、戦後にかけては排泄物は重要な肥料で、百姓は各家庭に排泄物を汲み取りに行き、落ち葉などを集めその上に排泄物をかけて、腐敗させ肥料として用いていた。現在はやりの有機農栽培である。

そのため田んぼの近くは悪臭をぷんぷんと放ち我々はそれを「田舎の香水」と呼んでいた。

日露戦争の頃、乃木家ではしばしば日本橋の三越から最上級の香水を取り寄せていた。

不審に思った人が、静子夫人に尋ねると「乃木の出陣に当たって香水を一瓶持たせてやり、息子勝典・安典にも一瓶ずつ持たせました」という答えが返ってきた。。

香水は「武士のたしなみ」であった。

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2010年6月12日 (土)

バーコードを読み取る

バーコード

かねてからF100000112 右図のマークは何であろうか、と疑問に思っていた。

たまたま先日「チョイスギフト」を入手し読んでみると「同封のハガキで注文するか、それともこのマークを携帯電話で読みとって注文するかどちらか」と書いてあった。

そこで家電量販店で「このマークは何と云うのか、また現在所有の携帯電話でも読み取ることが出来るか」相談したところ「このマークはバーコードと云い、所有の携帯で読み取り出来る」とのことであった。

また操作方法は、携帯電話を写真撮影状態にし、メニューを機能切り替えにして、バーコード読み取りで撮影するようにと教えられた。家に帰ってバーコードを何回読み取ろうとしても手がぶれて「読み取りできませんでした」というメッセージであった。

今朝新聞広告に同じようなマークが有ったので、落ち着いて撮影したところやっと読み取れた。そこには広告の店のメールアドレスが表示され、メールでその店に注文出来ると云うものであった。

やっと納得し便利な世の中になったものだと改めて感心した次第である。

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2010年6月10日 (木)

通販の懸賞品

通販の懸賞品

ここ何回か通販から商品を購入していたところある日突然「ご当選おめでとうございます」という通知が送られてきた。見ると応募もしていないのに抽選で「ダブルファスナー・セカンドバッグ&牛革ベルトポーチが当たった」というものでパンフレットから想像すると高級そうな品物であった。F1000001125 F100000234 ただし入手するには、同封のパレットから一品購入しなければならないと云う条件が付いていた。だまされたつもりで購入しようと息子に相談すると「セカンドバックが欲しいならば、別途購入すればよいではないか」という。

ここが思案のしどころと数日冷却期間を置いて、応募してみた。昨日現品が送られ、なかにパンフレットと似たF10000041213 F10000051617 バックとポーチが入っていた。それはよいがそれと添付してまたパンフレットがあり、更に別紙のプレゼントカーF1000003891011 ドが同封されていた。これは懸賞品より便利そうで抽選なしで商品を買えば貰えると云うものであった。

あわてる乞食は貰いが少ないか?

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100円パソコンのその後

百円パソコン

前回「安物買いの銭失い」の項で、大道で買った百円パソコンに着いて述べたが、ハードメモリーがパンク寸前になり処置に困って半年以上も使わずに放っておいた。

しかし考えてみれば、使用しなくても毎月三千円近くイーモバイルにただ取りされているし、ノートンのソフト代ももったいないことに気付き、近所の家電量販店に相談したところ「パソコンを持って来なさいということになり、昨日持参し話し合いの結果、100円パソコンはインターネット用に使用するので其の他のソフトは極力廃棄する。またノートンのソフトは期限切れになってしまったので廃棄し、無料のウイルス防止用ソフトをダウンロードすることで修理を依頼して来た。昨夕「修理が終わりハードメモリーに余裕が出来た」との連絡があった。

今日受け取りに行くと100円パソコンのハードメモリーが7.6GB中空きスペースが1.55GBになっていた。

これで何の心配もなくインターネットがやれることになった。やれやれ。

しかし修理代として8,400円はいたかった。

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2010年6月 9日 (水)

ヤクザと興行師

ヤクザと興行師

最近大相撲とヤクザの癒着問題がささやかれ大問題となった。もともと大相撲とヤクザは関係が深かった。戦前戦後しばらくの間大相撲は春場所と夏場所の二場所だけで後は地方巡業であった。地方巡業はその地方のヤクザが勧進元となって運営されていた。従ってヤクザの力を借りなければ地方巡業は成り立たなかった。

ヤクザと興行師の関係は相撲に限ったことでなく、芝居(歌舞伎、新生新派)の地方興行はもとより、映画の興行も流行歌の地方巡業もヤクザが仕切っていた。

そこで役者、映画、流行歌の鉱業の世界はヤクザの力を借りなければならなかった。その一例として美空ひばりもヤクザの大親分に可愛がられていたのは周知の事実である。流行歌手もヤクザの酒盛りに侍らされていた。しかし警察が暴力団と歌手たちの癒着を厳しく取り締まってから徐徐にこの悪弊が是正されてきた。

松竹時代劇の大スター林長二郎が松竹ら東宝に移籍した際、松竹側のヤクザに左ほほを切られ、林長二郎こと長谷川和夫は生涯左の顔は映画に移らないようにしていた。

松竹側のヤクザは誰か知らなかったが、後年文庫本を見てその人物を知った。

だれあろうその人物は後のラッパの名ではせた大映社長永田雅一その人であった。長谷川和夫は後年大映所属の俳優となっている。奇しき因縁を感ずる。

興業の世界ばかりでなく、政治の世界にもヤクザはいた。戦前戦後衆議院の院外団がいたが、これは代議士の手足となって暴力で騒ぎを鎮めていた。

院外団出身で後に有名な代議士になった者もいた。

ヤクザは昔は博打ちと香具師(やし)がいた。香具師は現在のテキヤで神社・仏閣の固定した場所で大道商いをしているか、各地のお祭りや行事にその都度場所を借りて商う「男はつらいよ」の寅さんの職業である。香具師は地元の顔役(ヤクザの親分)の許可を得て商売をしていた。

私の小学校の同級生にも一人親が善光寺の境内の大道で商いをしていた。

その娘は頭がよく先生が国語の時間に「ノート一冊に漢字を書取りをしてみては***」というと翌日にはノート一冊に漢字を書いて提出していた。しかし現在はどうしているのか同級会にも一度も顔を顔を出してない。

昔のヤクザは現在の暴力団のように、薬の売買をして荒稼ぎをするようなことはなく、地元の正業者を痛めつけることはなかった。

現在香具師の親分は、地元の顔役として市会議員になって姿を変えている。

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2010年6月 7日 (月)

大阪方の英雄豪傑の最後

大阪方の英雄豪傑

太閤秀吉は死の床で、秀頼の後を頼んでいたが坪内逍遥の戯曲「桐一葉」ではないが、秀吉に頼まれた人々は、一葉散り、また一葉と散って行った。先ず石田三成が関ヶ原の合戦で敗れ、前田利家死に、加藤清正も死に(毒殺のうわさもある)、最後に大阪城を守っていた片桐勝元も徳川家康の謀略にかかって大阪城を追われた。

家康は秀頼を真綿で首を絞めるように徐々に追い詰め、最後は秀吉の菩提を弔う方広寺に大仏を安置させ、秀頼が鋳造した梵鐘の銘に「国家安康」の文字が有ったことをとがめ大阪冬の陣の口実とした。全くの屁理屈である。

この時は大阪方に味方する大名は一人もなかった。そこで秀頼は諸国の浪人を集めて大阪城を固めた。

集まった浪人たちのなかには幼いころ講談本で読んだ豪傑たちがいた。現在その豪傑たちはどのように評価されているか、広辞苑で確かめてみた。

すると昔の豪傑たちの名前が続々出て来た。

先ず後藤又兵衛「桃山時代の武将。名は基次。初め黒田孝高・同長政に仕えた。のち浪人し、大阪夏の陣で戦死」。

塙団右衛門「安土桃山時代の武将。本名塙(はなわ)尚之とも称。加藤嘉明に従って文禄の役で功をたて、後に小早川秀秋の鉄砲大将。大阪冬の陣で豊臣氏に従い、夏の陣に戦没。

岩見重太郎「伝説の豪傑。筑前小早川家の臣で、諸国を周遊して勇名を挙げ、天橋立で父のかたき広瀬軍蔵を討ち、豊臣秀吉に仕えて薄田隼人(はやと)となったという」小学校の修身で次に出てくる木村重成が大阪城内で茶坊主にいじめられるが無視していた。その茶坊主が薄田隼人に乱暴し、怒った隼人がげんこつを振り上げたところそのげんこつを重成がやんわりと受け止めてなだめた。

重成は薄田隼人をいさめるほどの力量が有ったが忍耐した。そこで「ならぬ堪忍するが堪忍」と堪忍の必要性を説いていた。

木村重成の父は木村重弧玆と云い秀吉に仕え、後豊臣秀次の家老となり、秀次が秀吉に疎んぜられるや秀吉暗殺の計画を立てたと云う理由で切腹させられた。

一族は一時流浪の生活をするが、勘気が解かれ、重成の母は秀頼の乳母となり重成とともに大阪城内に入った。重成は大阪一の美男子で妻白妙も美少女であった。広辞苑の重成は「江戸初期の武将。豊臣秀頼の臣。大阪冬の陣に善戦し、和議の際、家康の血判授取りの使者をしたという。翌年夏の陣に戦死。

家康を和睦の条件に大阪城の外堀だけを埋めると約束して、実は内堀まで埋めて大阪城を丸裸にしてしまった。その結果大阪城は全くの無防備になってしまった。

木村重成が夏の陣に出陣の際妻白妙は二度と兜を閉めないあかしとして兜の緒を切り、兜のなかに香を焚き込めて悪臭が出ないようにし、出陣を前に遺書「一樹一河の流れ***」をしたためて後顧の憂いのないように自殺している。重成、白妙の年は数えで二十歳と十八歳と云われている。

確か現在の大阪城には、木村長門守重成の記念碑が立っている。

白妙の遺書について後世の人は「諸葛孔明の出師の表(すいひのひょう)を読みて泣かざるものは忠臣にあらず。白妙の遺書(名前は忘れた)を読みて泣かざるものは貞婦にあらず」と伝えられて来た。

最後は真田幸村「安土桃山時代の武将。昌幸の次子。名は信繁。幸村は俗伝。関ヶ原の戦ののち父とともに九度山に蟄居。冬の陣に大阪城に入って徳川氏の軍を悩まし、夏の陣に戦死」

大阪方に味方する大名は一人もいなかったが、豪傑たちは最後まで戦って果てた。その名は今日まで鳴り響いている。

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2010年6月 6日 (日)

ノートパソコン不具合

ノートパソコン故障

ノートパソコンの画面の上下(スクロール)が出来なくなり修理を依頼した。

昨年末にパソコンをタッチパッドで捜査していたら操作が出来なくなり、修理を依頼したところ、マウスを使えば操作できるので、年末年始の書き入れ時は避けて修理するようサゼッシょンを受け、以後マウスで操作していた。おかげでマウスの操作が上手くなった。しかし今回の不具合でタッチパットの不具合も直して貰った。

本日修理が完了し、パソコンも調子よく動作するようになった。これからも従来同様ブログの制作を続けて行くつもりである。

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