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2010年5月16日 (日)

天覧歌舞伎

天覧歌舞伎

子供のころ読んだ本に明治の天覧歌舞伎が有った。時の外務大臣井上馨は芝居好きで皇居に歌舞伎役者を呼び初日は明治天皇の天覧を仰ぎ、翌日は昭憲皇太后にその翌日は各国大使、公使ら外交官を招いて、「仮名手本忠臣蔵」を上演した。

この相談を受けた八代目市川団十郎は身に余る光栄と五代目尾上菊五郎、三代目市川左団次らと相談し歌舞伎役者総出演を決め、毎日芝居が跳ねた後練習をして皇居で上演し好評を博した。

それまで河原乞飯とさげすまれた歌舞伎役者の地位が向上し、能役者、相撲取、歌舞伎役者をさげすむものはなくなった。

現在河竹登志夫が日経の「私の履歴書」に書いているが、そこには旧制大学院の修士論文」は「明治天覧劇の研究」とした。明治二十年四月二十六日に、明治天皇による史上初の歌舞伎観劇があった。この催しは当時「劇界空前の盛事」として喧伝されたが、その実態や真の目的など明らかでなかった。

[東大の「新聞雑誌文庫」でやま山積した資料を手書きで写した結果、あの天覧劇は、条約改正に悩む初代伊藤内閣が、日本も西洋に負けぬ国になったことを示すための一大イベントであったことが明らかになった]とかかれていた。

これは驚きであった。目的は鹿鳴館の舞踏会と同じ、諸外国へ日本が西洋に負けぬ国になった事を示すためであったとは***

時の政府の努力の跡が垣間見える。条約改正とは「幕末井伊直弼の大老時代幕府が欧米諸外国と結んだ不平等条約の改正で、その中心は治外法権の撤廃と関税自主権の回復で、明治二十七年の日英通商航海条約で治外法権を撤廃し、明治三十四年関税自主権の回復に成功」とあるが林房雄の「大東亜戦争肯定論」によれば不平等条約の完全撤廃は戦争により日本が条約を破棄したことによる」と云っている。

なお河竹登志夫の父は河竹繁俊で、歌舞伎の戯作者河竹黙阿弥の養子であり、河竹登志夫は旧制成城高校から東大の理学部へ行き、数学者小平邦彦の薫陶を受け戦時中は長野の諏訪に東大数学科画疎開しそこで疎開生活を送りノーヘル賞を受賞に努力していたようだ。卒業後は、数学に対する自己の限界を感じ、成城学園で教鞭をとる傍ら早稲田に行き、繁俊、登志夫二代にわたり早稲田の演劇科の教授を務めている。

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