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2010年5月

2010年5月18日 (火)

おごる平家は久しからず

おごる平家

「祇園精舎の鐘の声、諸行無情のことわりを現す。おごれるもの久しからず、ただ春の夜の夢の如し。遠く異朝を訪ろうに秦の始皇帝***」と平家物語の巻頭を飾る名言である。

戦後の日本は諸外国に追いつけ、追い越せで努力をしてようやく立ち直ったが、今の日本は老若男女贅沢品やグルメに走り見聞を広めるだけでなく、連休と云えば当然のように海外旅行をして贅沢三昧である。

昔は蟹、伊勢エビ、ウ二、イクラなどは庶民の口には入らなかった。それが毎日たらふく食べて、マグロの漁獲制限に一喜一憂している。そんなものは食べなくても食に差し支えることはない。

コンビニなどでは賞味期限が過ぎたからと云って食品を廃棄処分をしている。衛生上の問題だと云うが賞味期限が過ぎてもすぐ腐敗するものではない。

それに引き換え諸外国には、餓死する人も多い。のど元過ぎれば熱さを忘れるではないが、終戦後の食糧難が過ぎると直ぐ贅沢に走る。

おごる平家と同じように、「おごる日本も久しからず」である。

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2010年5月17日 (月)

高島嘉右衛門と高島易断

高島嘉右衛門

「当たるも八卦、当たらぬも八卦」というが占いは戦前は殆ど高島易断によるもので、現在はやりの星占い(占星術)は陰をひそめていた。

子供のころ見た本に、高島嘉右衛門が占いを勉強をしたのは、幕末罪を得て牢獄に入れられた時、牢名主をしながら、支那の易学を勉強した結果であった。

しかし記憶が正しければ、高島嘉右衛門と高島易断は関係がなく、易断は高島を名乗って世に普及させたので高島易断がある。

高島嘉右衛門は明治になり実業家となった。広辞苑によれば「実業家、易学家。号は呑像。江戸生まれ。はじめ建築請負など実業に従事・京浜間の鉄道敷設にも尽力。

のち高島易断で知られる」とあって高島易断を開いたかどうかは明確でない。

横浜を走っている鉄道、私鉄、かJRか不明であるが高島駅がある。

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2010年5月16日 (日)

天覧歌舞伎

天覧歌舞伎

子供のころ読んだ本に明治の天覧歌舞伎が有った。時の外務大臣井上馨は芝居好きで皇居に歌舞伎役者を呼び初日は明治天皇の天覧を仰ぎ、翌日は昭憲皇太后にその翌日は各国大使、公使ら外交官を招いて、「仮名手本忠臣蔵」を上演した。

この相談を受けた八代目市川団十郎は身に余る光栄と五代目尾上菊五郎、三代目市川左団次らと相談し歌舞伎役者総出演を決め、毎日芝居が跳ねた後練習をして皇居で上演し好評を博した。

それまで河原乞飯とさげすまれた歌舞伎役者の地位が向上し、能役者、相撲取、歌舞伎役者をさげすむものはなくなった。

現在河竹登志夫が日経の「私の履歴書」に書いているが、そこには旧制大学院の修士論文」は「明治天覧劇の研究」とした。明治二十年四月二十六日に、明治天皇による史上初の歌舞伎観劇があった。この催しは当時「劇界空前の盛事」として喧伝されたが、その実態や真の目的など明らかでなかった。

[東大の「新聞雑誌文庫」でやま山積した資料を手書きで写した結果、あの天覧劇は、条約改正に悩む初代伊藤内閣が、日本も西洋に負けぬ国になったことを示すための一大イベントであったことが明らかになった]とかかれていた。

これは驚きであった。目的は鹿鳴館の舞踏会と同じ、諸外国へ日本が西洋に負けぬ国になった事を示すためであったとは***

時の政府の努力の跡が垣間見える。条約改正とは「幕末井伊直弼の大老時代幕府が欧米諸外国と結んだ不平等条約の改正で、その中心は治外法権の撤廃と関税自主権の回復で、明治二十七年の日英通商航海条約で治外法権を撤廃し、明治三十四年関税自主権の回復に成功」とあるが林房雄の「大東亜戦争肯定論」によれば不平等条約の完全撤廃は戦争により日本が条約を破棄したことによる」と云っている。

なお河竹登志夫の父は河竹繁俊で、歌舞伎の戯作者河竹黙阿弥の養子であり、河竹登志夫は旧制成城高校から東大の理学部へ行き、数学者小平邦彦の薫陶を受け戦時中は長野の諏訪に東大数学科画疎開しそこで疎開生活を送りノーヘル賞を受賞に努力していたようだ。卒業後は、数学に対する自己の限界を感じ、成城学園で教鞭をとる傍ら早稲田に行き、繁俊、登志夫二代にわたり早稲田の演劇科の教授を務めている。

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2010年5月15日 (土)

昇仙峡

昇仙峡

昇仙峡は「山梨県甲府市北方にある渓谷。笛吹川の支流荒川の浸食により奇岩・滝Pb110008910 Pb1100111516 Pb1100091112 が多く、紅葉の名所。秩父多摩国立公園の一部。別称、御岳(みたけ)昇仙峡」とかかれている。

昇仙峡の入り口までは、水晶、や宝石の石を陳列して、宝石の加工品を土産に売る店が多い。

今は水晶の発掘は少なくなったようだが、昔は盛んで旧制山梨工専(現山梨大学工学部)には全国でも珍しい、宝石を扱う学科がある。

また昇仙峡は入り口が二か所あってどちらから入っても奇岩や滝が鑑賞できる。

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2010年5月14日 (金)

高尾山

高尾山

東京の西の方、中央線で八王子の更に西方を京王線に乗り換えて一つ目の駅に高尾山がある。高尾山は東京都と山梨県の県境に近い。ケーブルカーに乗って 高尾山駅を降り、林の中を歩いて行くと薬王院がある。

Pb10000667 Pb10000545 Pb1000043 高尾山を広辞苑で引くと「東京都八王子市にある山。小仏峠゛の南東に連なり標高559メートル。山頂に薬王院がある。古樹多く、新緑、紅葉共によく、東京西郊の行楽地」と紹介している。

薬王院は修験者の道場で、真冬にケーブルカーの入り口の平らな場所で護摩を焚き、燃え盛る火の中を修験者は裸足で歩いて行く。そのあとを希望する参拝者は裸足で歩いてお参りをする。

最近は外人の観光客も多く訪れるようだ。参道には「南無飯縄大権現」の石碑が建っている。

飯縄と言えば長野にも飯縄山がある。広辞苑には飯綱山(飯縄山)を「長野市の北西にある山。妙高火山群の一つで円錐形の火山。南山麓は湿地が多く、植物の宝庫。標高1971メートル。山頂に飯綱神社がある」と紹介している。飯綱山には遠足で一二度しか上らなかったが、飯綱高原にはしばしば゛上った。飯綱高原は、戸隠山や戸隠神社中社、宝光社、戸隠神社奥社へ登る入り口である。

飯綱高原に富士見の茶屋があるがそこから富士山を見たことはない。噂によると冬の晴れた日には富士が拝めると言う。

この飯綱山も戸隠山と同様修験者の道場である。飯綱神社と飯縄権現は何か関係があるのかも知れない。

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2010年5月13日 (木)

キシリトール

キシリトール

某ガムメーカーの大手がキシリトール入りのガムを売り出した時、虫歯予防効果を唱えていた。

しかし歯医者の何人かは「キシリトールには虫歯予防の効果はない」テレビで断言していた。

しかしいつの間にか宣伝効果か広まってキシリトール入りのガムは虫歯予防効果が有るかのようなムードになってきてしまい、虫歯予防効果をうんぬんする歯医者もなりを潜めてしまった。

広辞苑でキシリトールを引くと「キシロースを還元して得られる糖アルコール。分子が

C5H12O5砂糖と同等の甘さでカロリーが約75%。虫歯予報の効果が有るとされ、甘味料に用いる。

となっている。

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2010年5月12日 (水)

娘深雪

娘深雪

「娘深雪」上村松園の絵に「娘深雪・がある。深雪は武士の娘で、宮城某に一目惚れするが熊沢蕃山という儒者に結婚を申し込まれ、断って家出をする。大井川の川止に会い目暗になった深雪を見た熊沢番蕃山は「熊沢番山こ宮城某」と書き残して出立する。それを知った深雪はびっくりし親元に帰り熊沢蕃山に嫁いでめでたしめでたしと云う歌舞伎と講談の物語を上村松園が絵画に残したものである。

女優で伊藤深水の娘浅丘雪路は始め深雪といつていた。これは伊藤深水付けた本名か芸名て゜出典は熊沢蕃山と深雪の恋の物語である。

蕃山は実在の人物で、近江聖人といわれた中江藤樹に陽明学を学び岡山藩主池田新太郎光政にに仕えた。

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2010年5月10日 (月)

長嶋、島と山冠に鳥の「しま」山冠に

長嶋、島と***

野球の長嶋は以前は長島であった。「しま」は嶋、島と山冠りに鳥の「島が有るが、いずれも「しま」でどれを使っても正しい。このような漢字は沢山ある。

山崎の「さき」も崎と嵜もいずれも正しい。峰村の「みね」も峰と峯が有るがどちらも正しいのである。蘇東波の「そ」も蘇と蘓のように魚が右に来ても左に来ても正しく、これは中国でも日本でも同じである。

日本からいなくなった「とき」も朱遍に鳥の鵇でも朱を冠にして鳥を書いても「とき」で正しい。しかし現在は略字の鴇もある。また二字になるが朱鷺とも書く。

漢字は歴史が有るだけに奥深いものがある。

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2010年5月 9日 (日)

荒磯

荒磯

風光明美な城ケ島と立石の丁度中間点にこれまた荒々しい岩からなる荒磯が有る。

P527001111P527001313_2P527001212   ここも城ケ島と同様にリヤス式の石の連でありここかしこの岩には貫通したほら穴がみら

P52700044P527002424れる。

更に荒磯への入り口のビルはしばしば推理ドラマのテレビで犯人の住まいとしてよく出て来ている馴染みの深い建物である。海水浴には適さなくても水遊びには最適とおもわれる。

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2010年5月 8日 (土)

城ケ島

城ケ島

「雨は降る降る、城ケ島の磯に、利休鼠の雨が降る***」は北原白秋の詩である。ここでP822001467 P822001610 P82200088 利休鼠とは、利休色のねずみ色を帯びた雨が降ると云うことで、戦時中逗子から疎開をして来た今は亡き友が故郷を偲んで、口ずさんでいたことが昨日のように思い起こされる。北原白秋が城ケ島で過ごした頃は現在のような橋もなく船で渡ったので有ろうが、今は大橋がかかり、有料では有るが瞬時に渡ることができる。橋の下には、城ケ島の詩P91600065 P91600087  P91600043

の歌碑が あってその上の記念館には北原白秋が城ケ島に滞在した頃の写真が飾られている。島はこじんまりとしていて海岸の岩はリヤス式 のように岩がギザギザしている。

島にはお茶屋が有って四季それぞれの魚を食べさせてくれる。島の小高い丘には灯台も鎮座している。

P82200055 P82200077 島の一角には京浜急行が経営するホテルもあり、句碑も目立っているところにある。

また島にはウの鳥も巣を構えており遊覧船や、船頭が漕ぐ観光の舟で島を半周すると島の様子がよくみられる。観光船は島を半周して島に着きお客を下すか、希望すれば油壷へ着けてもくれる。

また1月から3月の天気のよい日には、波の彼方に富嶽が拝まれる日が何日か続くことがある。

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2010年5月 4日 (火)

吉屋信子邸

吉屋信子邸

吉屋信子は、戦前には少女小説を書いていたが、戦後になって「地の果てまで」「良人の貞操」「安宅家の人々」「徳川家の女ちたち」を書き表していた。

吉屋信子邸は、春と秋の二回公開をしている。

P60300088_2 P603000772_2P60300011_3 P60300033_4      鎌倉在住の作家たちと同様彼女の屋敷も平屋作りの簡素な家で、広い庭を所有している。庭はよく手入れされていて、広い庭には、吾妻屋もあって趣がある。P60300055_5 3_3 P60100026_2

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2010年5月 2日 (日)

長野散策

長野散策

久し振りの長野詣で、東急百貨店の六階の「やぶ」でそばを食べたが、こしがあってうまかった。長野駅は新幹線が通じ機能的にはなったが、昔善光寺に摸して建てられた駅舎は取り壊され、味気ない鉄筋の駅となっていた。

しかし駅前は整備され綺麗に変わっていた。駅から東の山を眺めると菅平のなだらかな山並みが美しく昔のままの姿をとどめていた。F10000011  F10000012_3

先ず善光寺を詣でて、城山公園と城山小学校を訪れた。

小学校は私の通った当時の木造校舎から鉄筋校舎に変り、あの二階のテラスもなく、屋上の時計台もなくなって変わりに鉄筋の校舎に時計があっちた。F1000050_2 F1000047 F1000056 城山 から善光寺に向かって見える山の中腹に往生寺がある。この寺の鐘の鳴る音を頭に描いて、草川信が作曲したのが童謡「夕焼け、小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る***」である。F1000052

旧県社の祭神は建御雷F1000055 命と思っていたが、いつの間にか事代主命に変わっていた。境内は歌人の碑が沢山あるが 、齋藤史の顕彰碑が目にとまった。齋藤史は、2.26事件に関わって軍を退職した齋藤瀏陸軍少将の娘で、幼馴染みは2.26事件に連座して処刑された人々がおり、その鎮魂歌を多く詠んでいる。

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善光寺参詣

善光寺参詣

所用で長野へ行き、善光寺を参詣してきた。長野駅から善光寺行きのバスを大門町で降りてると左側(西側)が大本願で、向かいの東側は院坊である。昔は院坊で善光寺参りの団体客が泊っていたが、現在の団体客は善光寺を詣で院坊を素通りして温泉に直行して温泉に宿泊するので院坊へ泊まる人は少ない。

院坊を経て石段を上るとそこは仁王門である。

F1000024141578 F1000030232425 仁王門の向かって右側の仁王は高村光太郎父光雲の作で、左側は米原雲海の作である。仁王門から山門へ向かう仲見世通りの左右(東西)並行の通りF100003616 と大本F100003414_3 願の向かいの院坊の裏通り(西側)に当 たる通りにある院坊は全部で39軒ある。それぞれの院坊は大勧進か大本願のいずれかに所属していて、大勧進の大僧正か大本願のお上人さんのお供をして毎朝の善光寺で勤行を上げるのが日課となっている。

F100007248F10000764647  F100006832 F100007758 更に善光寺へ向かうと山門がある。山門の西側は大勧進である。

山門の東側は弘化四年の善光寺大地震で死亡した参詣者の供養塔がある。F100007044

F100006328F10000734952_2 F10000745051 山門 F10000663334の手前に六地蔵が鎮座している。

善光寺の大伽藍の東側と西側の柱がそれぞれ一本づつ台座からずれているが、これは弘化の大地震の結果だと云う人と伽藍が完全無欠は宜しくないので台座からずらしていると云う説もある。

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