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2010年4月12日 (月)

佐久間象山

佐久間象山(さくまぞうざん)

佐久間象山は「ぞうざん」でなく、中国の陸象山から付けた名で「しょうざん」であると云う学者も多い。しかし信濃の国では「***象山(ぞうざん)佐久間先生もみなこの国の人にして***」と歌い、松代の象山(ぞうざん)神社の近くの象山(ぞうざん)という象に似た山から取った名で、地元では「ぞうざん」と呼んでいる。

象山は信州松代で、藩の漢学者鎌原桐山の薫陶わ受け、二十歳を過ぎ藩の許可を得て二回江戸に遊学している。二度目の江戸では、神田お玉ヶ池で私塾「象山書院」を開き同じお玉ヶ池の北辰一刀流の千葉周作と競いあった。神田ては今でも佐久間町の名が残っている。

象山の主君は松代藩主真田幸貫で、幸貫は寛政の改革をした老中松平定信の子供であり、定信はかの「暴れん坊将軍吉宗」の孫に当たる。従って幸貫の曾祖父は吉宗である。幸貫は幕府の老中になり海防掛を担当し、幸貫は目にかけていた象山に海外の情勢を研究して報告するよう命じた。

象山の洋学研究はこの時に始まる。先ず漢訳書で西洋事情を収集に努め遂に原書を読む段階に進み、いつしか洋学の第一人者になっていた。象山は洋学を学ぶにあたって儒学を捨てたのでなく、儒学思想を高める角度から洋学の研究をしている。

「東洋の道徳、西洋の芸術」が儒学者で同時に洋学者の佐久間象山の信念であった。ここで言う芸術は「Life is sh0rt.Art is long」(人生は短し、しかれども芸術は長し」の「芸術」で「科学技術」のことである。 

この時期に象山が交際した人物は、佐藤一齊、松崎こう*堂(*立身偏に兼)、幕臣川路聖ら*(あき*言偏に莫)、水戸の藤田東湖、田原の渡邊崋山、詩人で同じお玉ヶ池に家を並べる梁川星巌、紅蘭夫妻などえどの知識人と交わり象山の名声も高まって行った。

砲術を学ぶため伊豆韮山の江川太郎左衛門に弟子入りするが、江川は砲術の伝書を見せ渋り象山は、同じ幕の砲術家下曾根金三郎に弟子入りし、貴重な文献を惜しみなく見せてくれるので、象山は感謝している。

象山の奥方は、勝海舟の妹順で、海舟の号は、象山から貰った額の「海舟書屋」から取ったものである。

海舟の象山評は「顔つきから奇妙なのに、む平生緞子(どんす)の羽織に古代袴のようなものをはいて、俺は天下の師だ゛と云うように厳然と構え、漢学者が来ると洋学で脅し洋学者が来ると洋学で脅す。どうも始末に負えなかった」と。

象山は鋳造した大砲の試験を上総の姉ヶ崎で行い見事な成績で見学者を感心させたが、最後の砲弾の発射と同時に砲身が破裂して多数の怪我人を出した。

また象山は殖産興業の意見書を出して施策を具体的に述べて、ビードロから養豚までしている。またオランダ語は二カ月でマスターしたと云う。

種痘にも関心を示し、幕府の種痘禁止令中に跡取り息子恪次郎に種痘をしている。また日本初の電信をつくり松代で実験している。また砲台について江川を批判し、お台場の砲台は役に立たないので、江戸を守るためには千代崎砲台だけを浦賀港の守備用に残し後の砲台は全部撤去し、改めて品川沖の中州と佃島の前の州にカンノン砲を始め強力な大砲を装備し、夷狄の船が侵攻すれば両方から砲撃すれば守備はうまくいく。夷狄は江戸湾から来るとは限らないので西洋と同様な堅固な軍艦を造るしか日本の安全を守る道はないと述べている。

その後上洛して一橋慶喜に呼ばれて建白した前後孝明天皇の養子である山階宮(やましなのみや)から参殿の招きをうけて、中川宮、将軍家茂などに開国を説いている。

そこで攘夷派ににらまれ、山階宮邸に伺候の帰途三条木屋町の私邸近くで人切り彦斎こと河上彦斎に暗殺され墓は京都の妙心寺の境内にあり、何十年か前に参詣した。

象山は優秀な子孫を残そうとするが、失敗した跡取り息子恪二郎は不肖の子で一時新撰組に参加していた。

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コメント

私もしょうざんと習って居りました。しかし、どのようなものも地元に伝わるものには、そこに深く込められたものが宿っていると感じます。

投稿: パイエット | 2010年4月13日 (火) 19時40分

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