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2010年4月

2010年4月27日 (火)

有島三兄弟

有島三兄弟

有島三兄弟は兄を有島武郎、次男を有島壬生馬(みぶま)ペンネームを生馬、末を里見惇(本名山内英夫)言う。

有島武郎

武郎は白樺派の同人で、大学教授から作家になり、「ある女」「カインの末裔」を書いている。人道主義者で北海道の牧場を開放し戦後の農地解放のさきがけをしている。

奥さんを亡くした後、婦人公論の記者波多野秋子の誘惑に負け、人妻との姦通罪をで訴えられるか死を選ぶかの難局に立たされ、遂に死を選び軽井沢の彼の別荘で心中をしてしまった。

武者小路実篤は「俺の図太さの詰めの垢でもやりたかった武郎さんに***」と云っている。息子の一郎は俳優の森雅之である。

有島生馬

生馬は洋画家であり、春陽堂の明治大正文学全集には壬生馬の名前で小説が載っていた。

里見惇

里見惇も春陽堂の明治大正文学全集に「多情仏心」が載り、その経歴は今でも覚えているが、母親が有島家で里見惇を身ごもっている時、母の姉妹の山内家で跡取りがなくなり、「お腹の中にいる子を山内家に養子にほしい」と云って養子にし、子供の頃は有島家で育つたと記していた。成人して「うちの財産はどれほどあるか」の問いに叔母さんは「お前が一生暮らせるくらいはある」と云われて作家を目指したと書いていた。

里見惇の息子は松竹大船に努め、退職後鎌倉ケーブルテレビの社長をし、その後鎌倉文学館の館長をしている。

しばしば鎌倉で「鎌倉の教育を良くする会」主催の講演会が開かれているが、その会の司会者に山内という女性がいる。きっと里見惇の孫か孫のお嫁さんに違いないと確信している。

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2010年4月26日 (月)

木谷実

木谷実

本日の日経の夕刊「こころの玉手箱」欄に大竹英雄日本棋院理事長が載っていた。

彼は九歳で北九州から木谷実九段の門下に入って入段、名人位四期、十段五期、棋聖七期と書かれていた。さしずめ出藍の誉れと言ったところか。

もう何十年も前の新聞に木谷一門は女将さんでもていると新聞記事で読んだことがあった。

相撲、囲碁、将棋など勝負の世界では一門の女将さんの陰の力がものをいうようである。

十年ほど前日平塚の七夕を見に行き、木谷一門で總計百十段突破と書かれている七夕を見つけた。

私の子供の頃お袋が「呉清源の女将さんは信州の地獄谷温泉の娘で、囲碁の勝負が地獄谷でよく行われている」と言ったことがある。地獄谷はテレビなどで猿が温泉に入って湯あみする野猿公園で有名な温泉である。

しかしこれはお袋の勘違いで地獄谷温泉の娘は、木谷九段の女将さんである。

確か呉清源も「木谷九段に連れられてしばしば地獄谷温泉へ行った」と書いていた。

地獄谷温泉は、木谷夫人の姉か妹かの老婦人が温泉を守って粽(ちまき)を一休みする客に売っている。

戦後しばらくして踊る宗教が世を騒がせた。当時は踊る宗教にびつくりしたが、時宗の開祖一遍上人は踊る念仏を世に広め遊行上人と言われた。藤沢の遊行寺は一遍の弟子が開開いた寺である。

確か墓地には国定忠治の子分で「坊や良い子だねんねしな***」で流行歌や講談で有名な板割の朝太郎の墓もある。彼は明治になってここの寺守をしていたようである。

その踊る宗教に名横綱双葉山と呉清源名人が入信し乱闘騒ぎを起こしニュースにもなった。一芸に秀でる人も心の迷いはあるものだ。

その後二人には踊る宗教の話は聞こえてこなかった。

双葉山は、時津風理事長として相撲の改革に努めた。

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2010年4月25日 (日)

皇居前散策

皇居前散策

銀座へ来たついでに日比谷公園をよこぎって桜田門から皇居を散策した。

F100005435F10000584344_3F100005334_2 二重橋の画像は何枚も撮ったが逆光のためよ く取れている写 真は F10000645657_3 少な かった。

  大楠公の銅像のありかが見つからず皇居前広場を彷F1000059454612 徨した。1f1000066606263F10000666062631   

楠公の銅像は住友財閥の総帥住友吉左衛門が戦前寄付したものである。吉佐衛門は鋼の研究にも資金を投じている。KS鋼を発明した本多光太郎東北大教授は、吉左衛門に感謝して発明した鋼を吉佐衛門住友の頭文字をとりKS鋼と名付けている。

それに対して三島徳七東大教授のMS鋼は、養家と実家の頭文字を取って付けた名前である。

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さらば歌舞伎座

歌舞伎座

歌舞伎座は、今月一杯で改築すると云うので、現在の歌舞伎座を画像におさめようとぽF100002423 F10000119 F100001210 かぽか陽気に誘われて銀座まで足を伸ばした。外はカメラマニヤと最後の公演を見るためのチケットを買う人であふれかえっていた。

歌舞伎座が出来た時、当時の大谷竹次郎松竹社長が非常に喜んで談話をしていたが、昨日のように思い出される。

新宿に歌舞伎町があるが、この名は当時歌舞伎座が新宿に建てられると云う噂を先取りしたもので、歌舞伎座より後に建てられた新宿コマ劇場が一早く閉館になってしまった。F100001614_2F100002120 F100002019_2  

新装の歌舞伎座は見られるであろうか。

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2010年4月23日 (金)

伊勢路

伊勢路

前日とはうって変って天気の良い伊勢路の旅となった。昨日は雲と霧で視界が見えなかF100007527 F1000075272829 ったが本日は車窓から模擬安土城が山の頂に見えた。

余りに小さく撮れているのでトリーミングしてみた。天守閣の輝いて見える屋根は、金で出来ているそうだ。

鳥羽は御木本幸吉の人工真珠の産地でありどこへ行っても真珠工房があって真珠を展示している。

工房には各種阿古屋貝が展示しており、職人の真珠を加工する姿がF100004123F100002710  F100003920 見受けられた。F100003012_2 F100003113

展示製品は真珠のお城が見栄えがするのか各種のお城の展示が目立っていた。

F10000241234F10000265678 F10000371718 真珠展示場の見学を終えると鳥羽の港の待合室で昼食に舌鼓を打った。

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雨の二見ヶ浦

二見ヶ浦

二見ヶ浦に着いたときは、完全な雨降りになっていた。

100001221 F10000091112雨の中 を折りたたみの傘をF100001013 さして夫婦岩へと向かって歩いていった。

以前夫婦岩へ来たのは逆方向からか、私の記憶が間違っているせいか以前とは違って見えた。

しかしテレビで馴染みの光景で、F10000162324F10000172526 夫婦岩は非常に間直に見ることが出来た。天候が晴れであったらなおF1000018272829 F100001930 よかったと思った。

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2010年4月22日 (木)

お伊勢参り

お伊勢参り

バスツアーで、何十年振りかでお伊勢参りに行って来た。

バスが出発する時は曇りがちの天気であったが、途中から霧雨になり最後はどしゃぶりとまでは行かないが、雨の中をバスは進んで行った。翌日は天候にも恵まれ楽しい一日であった。

F10000445   F10000462 内宮は大鳥居が我々

迎えてくれた。F10000696 F10000532

五十鈴川の流れはすがすがしくウイークディにも関わらず参詣の団体であふれていた。

F100006214F100006315 以前は 入れなかった拝殿にまで入れたと思っていたが、以前もここまでは入れたという。

平成二十五年は遷宮の年に当たると云っていたが、木の間から見え隠れする新宮はもう大半が完成しているように見えた。

F10000641F10000685 神馬もあぶか小さな虫に悩まされいいるように見えた。

参拝を終えて大鳥居をくぐると道路の一角に猫が我がもの顔に寝そべって時々目を開けては四方を睥睨していた。

大鳥居を右に折れるとそこは、おかげ横丁で参拝客は横町を散策して店屋を覗きこんだりしていた。

中には一個千円もする松坂牛の寿司を話のタネにと一個注文して食べて来たと云う人もいた。

F10001041 F10001042

F10001051 F10001062

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2010年4月19日 (月)

大仏次郎邸

大仏次郎邸

大仏次郎は、本名を野尻清彦といい「鞍馬天狗」「赤穂浪士」「パリー燃ゆ」などを書きP11200011 P11200022 文化勲章を受章している。大仏邸は毎年春・秋の二回公開しているが、他の邸宅と異なり、現在も野尻一家が住まっていることである。

鎌倉八幡宮に通じる「段葛」(将軍源頼朝が、政子の無事出産を祈願して作った道で春は桜の名所)となっていてこの道と並行な八幡宮に向かって右側の道路の中P11200033 間を右手に曲がって少し入ったところに邸宅がある。

他の鎌倉に在住した作家と同様に庭が広くて平屋建ての質素な邸宅である。

なお大仏次郎の兄は「野尻ほうめい」という高名な天文学者である。

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2010年4月18日 (日)

川喜多映画記念館-川喜多邸跡

川喜多記念館

毎年春・秋の二回公開していた川喜多邸は、今年は装いも新たまって瀟洒な川喜多F100000710 映画記念F100000323館になった。洋画の日本配給会社東和の社長をしていた川喜多長政、かしこ夫妻の邸宅を鎌倉市が映画記念館として通常展と特  別展をF100000811  開いて参観も映画鑑賞もできるが、今日は、入場20100418133801_4き なかった。記念館の周囲の看板に以前の川喜多邸の写真が飾られていた

F100000567_2 F100000689 F100001116_2

川喜多長政、かしこ夫妻の邸宅はどことなく落ち着いた雰囲気のある建物であった。         この質素な建物に世界のVIPを招待して 心のこもった接待をしていたようである。

玄関が引き戸の平屋の家は「古寺巡礼」を書いた哲学者和辻哲郎が神奈川県秦野の

農家の家を買って東京へ移築した建物で、その後川喜多夫妻が鎌倉

                P40300093_2          P403000711         

P40300115P403000822_3 移築し直して使用していたものである。

今回の記念館の再建に際して旧和辻邸は丘の上に移築くして保存しているとのことである。

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2010年4月17日 (土)

太宰春台

太宰春台(だざいしゆんだい)

信濃の国の一節に「***春台太宰先生も***みなこの国の人にして***」とある。

広辞苑は「江戸中期の儒学者、名は純、字は徳夫。号は春台・紫芝園。信濃の人。出石藩に仕え、後に辞して荻生徂徠に学ぶ。経書・経済に通じ、また近世中国語に詳しかった***」とある。今回始めて気がついた事てあるが、小学校の国史下巻に紫芝園の名だけが載っていた。先生も太宰春台の別名とは知らなかったのか「太宰春台のことである」と云う説明はなかった。

赤穂浪士の討ち入り後、将軍綱吉がその処置に苦しんでいた。荻生徂徠は「国法を犯したので死刑は当然である」と云ったが、特に死刑を協力に主張したのは太宰春台であった。

また春台は「私は儒教だけを信ずる者であるが、無知文盲の門徒の人々が阿弥陀仏だけを信じて他の神や仏を信じないのは感心なことだ」といっている。

浄土真宗の寺では、親鸞の「阿弥陀仏の加護だけを信じ、寺や佛像を排しているが、現在寺は大伽藍でははあるが、お寺は他の神社・仏閣のようにお札やお守りは決して売らない。

これだけは感心なことである。

春台の墓は、東京都台東区谷中の寺街にある、天眼寺(てんげんじ)の境内の一角にひっそりと立っていて、東京都の重要文化財に指定されている。

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前田侯爵別邸-鎌倉文学館

前田侯爵別邸

前田侯爵別邸は、現在鎌倉文学館として公開されている。

Jp60300135P60300124_2 P92400055_2 さすが加賀百万石の別邸である。東大の赤門は加賀藩の上屋敷のご守殿門で、将軍家斉の息女が前田家に嫁したさい謙造したもので、金沢大学の黒門と対をなしていP92400066 る。しかもP6030011311 駒場にある、東京都近代文学博物館P92400077 も前田家の邸宅跡である。

鎌倉の別邸建設した当時の当主は婿養子で、戦時中 陸軍大将として従軍し戦死している。また一時行儀作法の本を書いて世間を賑わした酒井元伯爵夫人は、息女のはずである。

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華頂宮邸

華頂宮邸

鎌倉の竹の寺で有名な報国寺を横切って上って行くと華頂宮邸に着く。華頂宮邸というのはPa0900012_3 正しくなく実際は、華頂侯爵邸というのが正しい。この建物は建設は華頂宮であるが、住んだのは華頂侯爵である。華頂侯爵は第二十二代伏見宮で第三代華頂宮の子息で兄は第四代華頂宮である。Pa0900023

現在は鎌倉市の所有で年に春と秋の二回公開している。

広大な邸宅と行き届いた庭の手入れは一見の価値がある。

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2010年4月15日 (木)

ただは安い-携帯電話

携帯電話

「ただより高い物はない」も真理ならばその逆の、「ただより安い物もない」も真理である。新聞広P416000112 P4160002678 告で現在使用している携帯電話で、MOVAを使っている人は平成22年3月31日で切り替わりFOMAでなければ使えなくなると云う記事を読み、それまでに切り替えを計画しなければならないと家電販売店でどの携帯電話がよいか物色していると、ドコモの販売員が「これがよいですよ、これだと無料です」という。しかしその販売店では、何かの条件が有って「それに入会しなければならなく、入会金を払はなければならなP416000312_3 いシステムだ」という。その店員は「、街で買えば、そP4160004345_2 んな条件もない ので、街の販売店で買いなさい」とサジェッションしてくれた。

街の携帯電話の販売店でも同一製品が無料であったので購入した。

新品は、旧製品に比べて機能が充実していてデジカメ機能が付きメール機能がずっとすぐれていた。

ただし購入した翌日から迷惑メールが一日に十数回から二三十回伝送され、販売員に迷惑メールを遮断してもらうと直ぐ平常に戻った。携帯電話で撮った画像処理の仕方はSDメモリーをパソコンに挿入してパソコンで画像処理するか画像処理装置の有る店で処理してもらうかとのことであった。

殆どの説明が画像処理はSDメモリーを挿入する方法であったが、ドコモの技術サービス員のうちただ一人だけ「専用のUSBケーブルを購入で従来の画像処理ソフトが使用出来る」云いう。その通りやると携帯電話で画像、処理が簡単に出来デジカメを持ち歩くより軽量でしかも便利をしている。また息子とも時々メールを使って連絡しあってぃる。更によいことは月々の料金が安くなったことである。

この無料の携帯電話は、買い得であった。感謝、感謝。

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安物買いの銭失い-ノートパソコン

F100000278_2 100円パソコン

昨年街を歩いていると携帯電話の販売店の一角を借りて100円パソコンを一週間限定で売っていた。かねてから二台目の安いパソコンが有ると便利だと思っていた。

F100000112 F100000434 説明を聞くと販売人は「イー・モバイル社の人」で販売価額は100円で月額基本料金は2,900から6,880最高で二年間契約で契約解除F10000039 する場合は違約金1ヶ月69,600円、2 ヶ月66,70円3 ヶ月63800円、4ヶ月60,900円、5ヶ月58,000円、6ヶ月55,100円、7ヶ月52,200円、8ヶ月49,300円、9ヶ月46,400円、10ヶ月43,500円、11ヶ月46,400円、1年37,300 円、1年1ヶ月34,800円、1年2ヶF100000556_2 月、31,900円、1年3ヶ月、29,000円、1年4ヶ月26,100円、1年5ヶ月23,200円、1年6ヶ月20,300円、1年7ヶ月17,400円、1年8ヶ月14,500円、1年ヶ9月11,600円、1年10ヶ月8700円、1年11ヶ月5,500円、2年2900円となっている。違約金は2,900円の月掛となっている。しかも事務契約手数料は2,835円で、解約しようが月々の基本料金であろうが、契約が成立すれば「イーモバイル」に最低89,600円はいることになり、100円パソコンは、70,000円で買ったことになり損はしないシステムであ る。

しかも右図のイー・モバイルの貸し賃という名目だけである。二三日冷却期間をおいて購入することに決めた。このパソコンの特徴は屋外でも無線によってインターネットが使えることだと言う。

家で使用すると無線の状態が悪い場合、インターネットが出来なくなり屋外へ近づけると動作する。このパソコンはCD読み取り機能がないため、インターネットを使う関係上ウィルス防止のソフトを無線でダウンロードしなければならずその費用も馬鹿に成らない。しかもこのパソコンはHDの容量が゜小さく、使っていると直ぐメモリーが満杯になり、必要最小限度のソフトとしても容量不足に成ってしまう。現在ウィルス防止のソフトも消去すべきか悩んで何ヶ月も無為に過ごしている。「安物買いの銭失い」の良い見本である。

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2010年4月14日 (水)

冷蔵庫

冷蔵庫

十数年来愛用の冷蔵庫を操作ミスで、壊してしまったようだ。買った当時は最新の機能を備えた製品で価額は十八九万したと思う。

F1000001123 それが冷凍室、製氷室とチルド室は正常に働くが冷蔵室と野菜室が温度が下がり過ぎて、冷凍室になってしまうと云う現象が実情である。そこでメーカーのサービスセンターに連絡して、検査して貰ったところ「回路の障害でコントロールが効かなくなったものでもう補修製品がなく修理出来ない」という回答 F100000245_2 F100000467_3 で五分ぐ らい滞在しただけで出張旅費三千円を請求された。全く泥棒に追い銭である。

この状態だと電気製品は高いものを買わずに安いもので間に合わせ、古くなったら買い換えるのがベターだと悟った。これではエコに反すのではないか。家電製品も悪い癖を付けてしまったものだ。

破損した冷蔵庫をそのまま使用していると、冷蔵室に収納していた水が凍ってしまい始末に負えなくなった。

たまたま家電販売店で、ホテルや旅館の各部屋にある、小型の安い冷蔵庫を見つけF100000812 これを冷蔵室代わりに使い、古い冷蔵庫を冷凍室として使うことを思いついて購入した。さて新しい冷蔵庫を冷蔵室に使うのは簡単に出来たが、古い冷蔵庫のコンセントを外し差し替えて電源を入れるも古い製品が動作しない。

確か以前にもそのようなことが有って、納入者に問い合わせると電源の投入と同時にコンプレッサーの起動ボタンを押すとよいと言われていた。同様な操作をするもちょっと動いて直ぐ止まってとしまう。

何回繰り返しても失敗に終わってしまい、前記販売店で販売員に尋ねると「十数年もすればもう寿命だから買い替えるしかない」と云う。

一二週間してもう一度試してみると起動し、現在は以前と同じように動作している。

家電製品の寿命については良い勉強になった。

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ロボット・クリーナー

ロボット・クリーナー

先日、テレビはのCMはロボット掃除機の宣伝をしていた。小型な円盤状の掃除機が自動で掃除をし障害物にぶつかると方向を変え、電池が切れると充電装置に近づき充電すると云うものであった。 ずぼらな私には最適な掃除機であると見ていた。

F100000178_4 その後同じような製品が新聞で広告し、通販名と電話番号が載っていた。

通販に連絡し、この掃除機の掃除の対象物は、第一はフローリング、第二は絨毯(じゅうたん)で畳は畳の目に関係なく掃除機が動くので不適当ということであった。ただしテレビで宣伝していた製品とは異なり放電後自動的に充電場所で充電はしないとのことであった。

注文すると二週間かかるとのこと。今日か明日かと待っていてもF100000256 製品が届かないので催促すると、搬出の手続きが終わっているので間もなく届くとのことであった。その日の夜現品が届き翌日説明書通り、四時間充電すると青信号の点滅が青信号で静止する。そこで電源を入れるとうんともすんとも動作しない。そこで翌日メーカーに問い合わせると「配線ミスかも知れないので、早速代替品を送付F100000412 する」とのことであった。今度はレスポンスが早く当日製品が届き、また四時間充電後電源を入れると今度は即座に正常に動作して、説明書通り丁度五十分後に動作を停止してしまった。また手動で充電が必要なのでテレビで宣伝の別な製品ならば***と考えた次第である。

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2010年4月12日 (月)

佐久間象山

佐久間象山(さくまぞうざん)

佐久間象山は「ぞうざん」でなく、中国の陸象山から付けた名で「しょうざん」であると云う学者も多い。しかし信濃の国では「***象山(ぞうざん)佐久間先生もみなこの国の人にして***」と歌い、松代の象山(ぞうざん)神社の近くの象山(ぞうざん)という象に似た山から取った名で、地元では「ぞうざん」と呼んでいる。

象山は信州松代で、藩の漢学者鎌原桐山の薫陶わ受け、二十歳を過ぎ藩の許可を得て二回江戸に遊学している。二度目の江戸では、神田お玉ヶ池で私塾「象山書院」を開き同じお玉ヶ池の北辰一刀流の千葉周作と競いあった。神田ては今でも佐久間町の名が残っている。

象山の主君は松代藩主真田幸貫で、幸貫は寛政の改革をした老中松平定信の子供であり、定信はかの「暴れん坊将軍吉宗」の孫に当たる。従って幸貫の曾祖父は吉宗である。幸貫は幕府の老中になり海防掛を担当し、幸貫は目にかけていた象山に海外の情勢を研究して報告するよう命じた。

象山の洋学研究はこの時に始まる。先ず漢訳書で西洋事情を収集に努め遂に原書を読む段階に進み、いつしか洋学の第一人者になっていた。象山は洋学を学ぶにあたって儒学を捨てたのでなく、儒学思想を高める角度から洋学の研究をしている。

「東洋の道徳、西洋の芸術」が儒学者で同時に洋学者の佐久間象山の信念であった。ここで言う芸術は「Life is sh0rt.Art is long」(人生は短し、しかれども芸術は長し」の「芸術」で「科学技術」のことである。 

この時期に象山が交際した人物は、佐藤一齊、松崎こう*堂(*立身偏に兼)、幕臣川路聖ら*(あき*言偏に莫)、水戸の藤田東湖、田原の渡邊崋山、詩人で同じお玉ヶ池に家を並べる梁川星巌、紅蘭夫妻などえどの知識人と交わり象山の名声も高まって行った。

砲術を学ぶため伊豆韮山の江川太郎左衛門に弟子入りするが、江川は砲術の伝書を見せ渋り象山は、同じ幕の砲術家下曾根金三郎に弟子入りし、貴重な文献を惜しみなく見せてくれるので、象山は感謝している。

象山の奥方は、勝海舟の妹順で、海舟の号は、象山から貰った額の「海舟書屋」から取ったものである。

海舟の象山評は「顔つきから奇妙なのに、む平生緞子(どんす)の羽織に古代袴のようなものをはいて、俺は天下の師だ゛と云うように厳然と構え、漢学者が来ると洋学で脅し洋学者が来ると洋学で脅す。どうも始末に負えなかった」と。

象山は鋳造した大砲の試験を上総の姉ヶ崎で行い見事な成績で見学者を感心させたが、最後の砲弾の発射と同時に砲身が破裂して多数の怪我人を出した。

また象山は殖産興業の意見書を出して施策を具体的に述べて、ビードロから養豚までしている。またオランダ語は二カ月でマスターしたと云う。

種痘にも関心を示し、幕府の種痘禁止令中に跡取り息子恪次郎に種痘をしている。また日本初の電信をつくり松代で実験している。また砲台について江川を批判し、お台場の砲台は役に立たないので、江戸を守るためには千代崎砲台だけを浦賀港の守備用に残し後の砲台は全部撤去し、改めて品川沖の中州と佃島の前の州にカンノン砲を始め強力な大砲を装備し、夷狄の船が侵攻すれば両方から砲撃すれば守備はうまくいく。夷狄は江戸湾から来るとは限らないので西洋と同様な堅固な軍艦を造るしか日本の安全を守る道はないと述べている。

その後上洛して一橋慶喜に呼ばれて建白した前後孝明天皇の養子である山階宮(やましなのみや)から参殿の招きをうけて、中川宮、将軍家茂などに開国を説いている。

そこで攘夷派ににらまれ、山階宮邸に伺候の帰途三条木屋町の私邸近くで人切り彦斎こと河上彦斎に暗殺され墓は京都の妙心寺の境内にあり、何十年か前に参詣した。

象山は優秀な子孫を残そうとするが、失敗した跡取り息子恪二郎は不肖の子で一時新撰組に参加していた。

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2010年4月11日 (日)

昭和の怪物-久原房之助

久原房之助

大宅壮一の昭和怪物伝のトップを飾るのは久原房之助である。履歴書を見ると久原房之助は明治二年山口県に生まれ、東京高商(現一ツ橋大学)慶応義塾正科(現慶応大学)卒となっている。森村組に入社後に、藤田組に転じ更に久原鉱業、久原商事を創立し第一次大戦後大当たりをする。久原鉱業の電機部門が独立して現在の日立製作所となった。

昭和二年海外経済特使として訪ソ、スターリンと会見し話題を投げた。昭和三年政界に打って出て衆議院議員に当選し、田中義一内閣の逓信大臣、近衛内閣の参議、政友会正統派総裁を歴任。戦後昭和二十七年衆議院議員に当選。日ソ、日中国交回復会議議長として活躍。となっている。

大宅は戦後、日本社会そのものが複雑怪奇な様相を呈するとともに怪物的存在が各界に続出した。しかし現在日本中で代表的怪物の筆頭は久原房之助であると言っている。

久原は久原鉱業、久原商事で満足せず船舶、造船、ゴム栽培、水力電気、電信電話、漁業とあらゆるものに手を出して第一次大戦で大当たりをする。そのころ兵庫県武庫川に宅地二万五千坪、建坪一千三百坪の豪邸を作ったばかりか、沿海州から持ってきた銘木の丸太で別棟を作り、たまたまロシヤから来ていたミハイロウィッチ大公は目を丸くしたと言う。またアメリカのUSスチール社の社長で鉄鋼王と云われたジャッジ・ゲーリーが来たときは六甲山に穴をあけ、六甲山の奥の冷たい空気をパイプで送りこむ冷房装置のある部屋へとうしたので、さすがの鉄鋼王も驚いた。冷房装置は発明されていたが、これを家庭に用いる贅沢なまねをする人はいなかったという。鉄鋼王の家でも早速作ることを思い立ち、完成したら招待すると約束し、二年後に鉄鋼王の招きで渡米したが、大陸を横断するのに彼の一行は客車一つ買い切る大名旅行をやってのけ第一次大戦末期で大統領でさえ出来ないことをしたと皆を驚かせた。帰途ハワイにより二世のための育英資金を残して戦後二世の名士が沢山出て久原をハワイに迎えたいと言っていた。

政入りした久原は代議士三回目に田中義一内閣の逓信大臣になた。政友会の長老たちは猛反対するが、田中首相は「オラが政友会をオラが意見通りにするのに何が悪いか」と云って押し切った。この言葉の裏に久原の金力が動いていることは言うまでもないと。

久原は2・26事件の青年将校にも資金を提供して情報を事前に入手したと云うので「叛乱幇助」の嫌疑で軍法会議に付せられたが、証拠不十分で不起訴に成っている。

久原の叔父藤田伝三郎は「久原は一円の金を百円に見せるすべを知っている」と云っていた。また日産コンツェルンの総帥、満州重工の経営者、鮎川義介は久原の義兄に当たる。

藤田伝三郎は金で男爵を買うがその実贋金つくりの嫌疑も懸けられている。当時は贋金は紙幣をコピーしただけでも国家反逆罪で死刑になる時代である。また山県有朋の陸軍の軍資金浪費事件にも関係していると噂された。

戦時中久原は私の田舎に疎開し、孫は私の中学の下級生であった。勤労奉仕で農家の麦刈の応援した時、同期の友人が目を丸くして「勤労奉仕で働いた下級生に日本で第六番目の大財閥の家の子がいると言っていた。お袋に話すと「久原房之助のことだ」と返事が返ってきた。

戦後久原が新聞紙上をにぎわしたのは、公職追放中に公職に関与したとして裁判で高齢なため執行猶予付きの有罪となった時と、ある日子守をしている房之助を見た記者が「お孫さんですか」と聞くと八十歳にもなる彼が「私の子供だ」と云っていたと云うものであった。孫が高校生になる時、まだ子供がいるとは***

戦後は静かに余生を送ったと思っていたが、履歴書を見ると代議士に帰り咲くとは驚きである。

渋沢栄一と同じで老いてますます盛んなことである。

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信濃で埋もれた人-建御名方命

建御名方命(たけみなかたのみこと)

神話の世界であうるが、諏訪大社の祭神建御名方命も信濃で埋もれた神である。建御名方命は、出雲大社の祭神大国主命(おおくにぬしのみこと)の次男で長男は事代主命(ことしろぬしのみこと)である。

小学生の時、「七福神の中二人が日本の神で、他は外国の神様である」と教えられた。「二人のうちの一人は、大国主命で他の一人は事代主命で、大国主命は大黒さんで事代主命は、片手に釣り竿他方の脇に鯛を持っている恵比寿さんである」と。

後日大国さんと大黒さん(大黒天)は別人で恵比寿さんだけが天孫降臨(てんそんこうりん)民族の使者建御雷命(たけみかずちのみこと)が領地を献上するよう求め、大国主命と事代主命はこの命令に従ったが、勇猛な建御名方命はこれに従わず力比べをして建御名方命が負けたら国を譲ることになり、建御名方命は敗れて信濃に逃げて行き諏訪で暮らすことになったと云う話である。

しかし歴史学者は建御名方命は信濃まで追われてそこで殺されたと言っている。

戦(いくさ)の神様も哀れな末路であった。

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2010年4月10日 (土)

信濃で埋もれた人-松平忠輝

松平忠輝

松平忠輝は、徳川家康の子で三河の松平家を継ぐこととなり、家康と対面し下総(しもふさ)の佐倉五万石の領主となり松平上総介忠輝(まつだいらかずさのすけただてる)と名乗り、翌年信濃の川中島十八万五石を与えられて松代に移った。

佐倉は後の大老堀田氏の居城で、印播沼(いんばぬま)開拓で義民佐倉惣五郎の事件の起きたところで現在も佐倉神社がある。川中島、松代は地元であり後に真田幸村の兄信之の居城となった。

その後伊達正宗の息女五郎八(いろは)姫と結婚し、越後高田に移り川中島領とともに六十万五石の大大名となり越後少将と呼ばれた。

高田は上杉謙信の居城があった土地である。

大阪夏の陣で北陸軍総大将を命令されたが、進軍が遅れ合戦に間に合わず家康の勘気をこうむり追放された。

表向きは夏の陣の遅参であるがその実はキリシタンに関係したものと言われている。

伊達正宗はキリシタンの信者で、息女である忠輝の奥方もその感化を受けているし忠輝も洗礼は受けていないが信者であった。

家康が恐れたのはキリシタンによる一族の分裂であり、秀忠の恐れたのは忠輝を競争相手としてであった。

家康が病に伏すと忠輝は「父を見ま舞い、秀忠にもあって誤解を解きたい」と申し出るが、家康との対面出来ず臨終にも会うことが出来なかった。

その上秀忠に高田城は取り上げられ、伊勢の朝熊山(あさまやま)蟄居させられ、しばらくして飛騨高山に配流となり最後は信濃の高島藩にお預けになった。

朝熊山は伊勢志摩をめぐった時、山を見上げたところでたが、険しいやまであった。高島城は新しく新築した城を以前参観した。飛騨高山へは観光でしばしば訪れている。

諏訪に移された忠輝は秀忠の勘気を許されるよう運動したが赦免にならず気の強い忠輝も遂にいあきらめて、諏訪で九十二年の生涯を閉じた。

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2010年4月 9日 (金)

四なのに埋もれた人-吉良義周

吉良義周(よしちか)

吉良家は高家筆頭で幕府の儀式を指南する役目である。吉良家は室町幕府の将軍足利の一族で、三河の吉良の領主である。

忠臣蔵で悪名高い吉良上野介吉央(よしひさ)の奥方は、上杉家から嫁いでいた。たまたま上杉家は、嗣子がおらずお家断絶の危機にさらされた時、保科正之と吉良義央の口利きでお家断絶がまぬかれ、義央の息子綱憲が上杉の養子となり、その子義周は義央の養子になった。即ち吉良義央の孫が養子となって義周を名乗った。赤穂浪士の討ち入りの時、義周は「父が襲われた時父を救わず逃げるとは卑怯不届きだ」と領地没収の上、信州高島藩へお預けとなった。

義周は気が弱く絵を描く紙も欲しいと云えなかったという。体も弱くこの地で三年暮らし元江戸家老左右田孫兵衛に看取られて寂しく死んだ。

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2010年4月 8日 (木)

信濃で埋もれた人-絵島

絵島

六代将軍家宣の愛妾月光院の年寄絵島と山村座の歌舞伎俳優生島との艶聞は、小説や講談に述べられている。しかしこれは真実でなく月光院の名代として芝の増上寺へ代参した際、帰途歌舞伎を観劇してはめを外し帰りが遅れ、絵島は公務をろそかにし不埒であると裁かれた。

月光院は七代将軍家綱の母として政治的に重きをなし、側近の間部あき*房(*言偏に全)年寄絵島に対する、正妻天英院と老中の権力争いに巻き込まれた犠牲者と言えよう。

絵島は信州高遠藩内藤家にお預けになり、二十七年の年月の末生涯を閉じ、遺言により蓮華寺に葬られた。

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2010年4月 7日 (水)

信濃に埋もれた人-福島正則

福島正則

福島正則は、豊臣秀吉子飼いの家来で賤ヶ岳の戦いでは、七本槍の一人として武功を上げたがた武人派であるが、秀吉生存中から文人派の石田三成と仲が悪くそれが徳川家康らと上杉景勝を攻めに向かっている最中に三成が旗揚げし、家康が自分について石田を攻めるか、それともここから帰って石田方に味方するか判断を迫られた時真先に家康に従うと言ったのが正則であった。

この時正則の運命は決定してしまった。関ヶ原の合戦に東軍が勝利し、正則は安芸の国四十九万八千五石を与えられる。

正則の居城広島城が洪水に合い城郭が浸水したため幕府に修理の許可を申請するもなしのつぶてで、しびれを切らした正則が城郭の修理に取り掛かると、幕府は法度を破って城の修理をしたかどで、越後魚沼郡二万五千石、信濃高井郡二万石計四万五千石の知行に格下げをする。正則は「家康が生きていたならば言うべきことはあるが今となってはいかにもせんかたない」とそのまま転地に応ずる。

天下屈指の大大名から田舎の領主に成り下がった正則は出家し、岩松院を菩提寺と定めて余生をおくった。

正則が死ぬと嫡子が死亡していることを理由にお家断絶となった。

幕府も外様大名を取り潰すためには、無理難題を吹っ掛けた一例であろう。

江戸時代末期葛飾北斎がこの地を訪れて、岩松院の天井に竜の絵を描いた。現在は、お寺の仏間の畳に寝そべって絵を鑑賞する姿が見られる。

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2010年4月 6日 (火)

己を知る者のために死す

己を知る者のために死す

「男子は己を知る者のために死す」乃木大将は、軍神に祭られたが武人と云うよりは、玉木文之進の薫陶よろしき文人である。そのよい例として森鴎外とも親交があッて、鴎外が小倉の師団に左遷されたときには、駅頭の陰でこっそり鴎外を見送っていると云う。

「山川草木(さんせんそうもく)うたた荒涼(こうりょう)十里風はなまぐさし、新戦場征馬(せいば)進まず人語らず、錦州城外斜陽に立つ」(山も川も荒れすたれて十里四方は生臭い風が吹いている新戦場、馬も進まず人も話をしない錦州城外の夕陽に向かって立っていると)という格調の高い漢詩である。ここで乃木大将の次男保典(やすすけ)が戦死している。

軍の上層部は乃木の第三軍が旅順攻略の成果が上がらず戦死者が続出するので、明治天皇に乃木の更迭を進言すると明治天皇は「そのようなことをすれば、乃木は死ぬぞ」と許可しなかったという。

天草の乱の時の総大将板倉重宗は、総大将が松平信綱に変わるため出陣してくると、敵陣に攻め込んで戦死してしまった故事を思いだされたのであろう。

凱旋の時各将軍たちは意気揚々と帰還するが、乃木はこそこそと帰り、宮中に参内し「兵士たちはよく戦ったが、多くの部下を失って申し訳なかった」と涙をたれ流しながら奏上し、周りの人たちは一人去り二人去りと最後は明治天皇と乃木だけになったと云う。

「皇師(こうし)百万強虜(きょうりょ)を征す、野戦攻城(こうじょう)屍(しかばね)山をなす、愧(はず)我何の顔(かんばせ)ありて父老(ふろう)に看(まみ)えん、凱歌(がいか)今日幾人か還る」(日本軍は、ロシア軍を破り、野戦の城攻めでしかばねが山のようになった、恥ずかしくて自分はどんな顔をして兵士たちの老いた両親に会うことが出来ようか、凱旋の今日幾人の人が帰って来たのか)と。これが凱旋の時の漢詩である。明治天皇は、乃木のただならぬ気配を感じ、「乃木にはこれから重大な任務を与えるから暫く待つように」と云い皇孫殿下(昭和天皇と秩父宮)の通う学習院の院長を命じた。

乃木は明治天皇の熱い信頼に感謝しており、天皇の御大葬の日に自殺した。

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2010年4月 5日 (月)

軍港めぐり

軍港めぐり

F100000538_2 F100000835_2 F100000736 先日来大磯から真鶴へのクルージングと江ノ島から小田原へのクルージングに応募したが、いずれも落選だった。横須賀の軍港めぐりは、直に行って観光船に乗船できる事を知り出かけて行った。

観光船のデッキに上ると春とはいえ寒さが厳しく、貸出用の毛布を手にする人も

F100000934F100001330_2F100001528_2半数以上いた。

軍港内には米国の軍艦や、海上自衛隊の軍艦が何隻も停泊していた。

特に圧巻は米国の原子力船「イージス艦のス艦姿も見えたが、撮影に専念していたため撮影したかどうかが不明である。

F100001528_3 F100001627_2船のF100001825 案内人の話によると米国の軍艦や自衛隊の軍艦がこのように出そろうのは珍しいと言っていた。

船は寒かったが、楽しいひと時であった。

また何時の日にか訪ねてみたい。

F10000412F100002617 F100001924_2      

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2010年4月 4日 (日)

左に高き大銀杏

左に高き大銀杏

「上るや石のきざはしの、左に高き大銀杏、問わばや遠き世々の跡」は、小学唱歌「鎌倉」の一節である。我々が習った歴史では、北条義時にそそのかされ、八幡宮の石段の左に高い大銀杏の陰に「公暁」が隠れていて、将軍源実朝を暗殺し三浦義村を頼ったF100003314 F100003718 F100003819 F100003920 が、三浦に刺殺され源氏は滅亡した。となっていたが、作家の永井路子はこれに異論を唱え実朝の乳母(めのと)である北条が実朝暗殺に手を貸すはずがない。むし公暁の乳母である三浦が、公暁をそそのかして実朝を殺させたが、都 合が悪くなって公暁までも殺したのが真実だと唱え現在ではこの説F10000253 F100002412 が認められている。

その大銀杏が先日の大風で根こそぎ倒れ、現在は接ぎ木をして再生待ちと聞いていたので段葛(だんかづら)の桜見物がてら八幡宮に足を延ばしてみた。

石段の左は、大銀杏の根っこの一部とソの下の左側に倒れた銀杏の木の上の部分を大半切断した大樹の下部が立っていた。しかし接ぎ木のあとがないので、社務所の職員に尋ねると、継ぎ木はしなくても根の一部が生きていてそこから銀杏が芽吹いていたのでそのままにしてある。との返事であった。八百年以上する大銀杏の生命力に感心して来た。

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2010年4月 2日 (金)

商事会社の変遷

商事会社の変遷

進駐軍が民間会社に対して先ずやったことは、財閥の解体である。財閥から放出された株券は、当時トラック何台分にもなるとささやかれた。

三菱本社四代目の社長岩崎小弥太は、病床に伏せながら会社は儲かっているので「株主には配当をするように」指示しその要求が許可されたと思って安心して死亡するが、進駐軍の命令でから手形に終わってしまった。

進駐軍はかっての貿易摩擦の張本人、三井物産と三菱商事を目の敵にし両社の本店の課長以上の人が二人以上で作った会社は認めなかった。

そこで三井物産と三菱商事は各々二百数十社に分離した。

財閥解体に伴って、会社の頭に財閥の名前を付けることを禁じ、三井銀行は帝国銀行、三菱銀行は千代田銀行、住友銀行は大阪銀行、安田銀行は富士銀行、横浜正金銀行は東京銀行を名乗らせ、三菱重工は三に分け東日本重工、中日本重工、西日本重工とした。帝国銀行は、平沢事件の帝銀事件で有名な銀行である。

三菱鉛筆は鉛筆の三菱のマークの横に「当社は財閥と関係ありません」と印刷し「何故」と不思議に思ったが、後で本当に関係がないのを知り名前とマークを実用新案かで取得し利用価値のある時は利用し、価値がなくなると逆宣伝に終始する商魂丸出しだと思った。

財閥関係でただ一社社名を変えずに済んだのは、三菱電機であった。三菱電機は戦前戦後米国の「ウェスチング・ハウス社」と技術提携しており、時あたかも朝鮮動乱で出兵して電気品の調達、修理に間に合わなくなり、戦前の恩義に感じた「ウェスチング・ハウス社」が米軍を動かし、日本で部品調達や修理を三菱電機にさせ名前も変更せずに済んだ稀な例である。

時代も落ち着いてくると、旧財閥系会社は、財閥とは関係なくなったが、元の名前に復帰したが、富士銀行だけは名前を変えてから銀行が好成績であったのでそのまま富士銀行を継いだ。

東、中、西日本重工に分かれていた会社は元の三菱重工に戻った。

また三菱商事も二百社以上に分かれていた会社を次々と吸収合併し元の姿に戻ったが、三井物産だけは乗り遅れていた。しかし向井蔵人が蔵相の時元の三井物産に戻って現在に至っている。

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2010年4月 1日 (木)

戦中戦後の映画会社の変遷

映画会社の変遷

戦前の映画会社は、松竹、東宝、新興キネマなど弱小会社が多かった。

軍は戦争遂行のため、これらの会社を松竹、東宝の二社に統合しようともくろんだ。

松竹は、白井松次郎と大谷竹次郎の兄弟が作り、名前の頭文字を取って松竹としていた。

軍の計画で失職してしまう永田雅一は松竹の社長大谷竹次郎に泣きつくと大谷は「うちの撮影所長にしてやる」と答えたが、当時松竹の撮影所長は城戸四郎という娘婿であり、城戸がいる間自分の居場所がないと悟った永田は軍と交渉し松竹、東宝の二社のほかに弱小会社の一社を加え三社にする約束をさせた。

この一社を大日本映画会社(大映)とし、文壇の大御所菊池寛を社長にし、永田は副社長に納まった。

戦後吉川英二を文壇の大御所と呼ぶが、戦前の菊池寛の足元にも及ばない。

菊池は、芥川竜之介、久米正雄とともに純文学で活躍するが、純文学で清貧に甘んじるか、大衆文学に進み金儲けをするかと考え後者を選び、大衆文学を数々書き雑誌社「文芸春秋」を作り、現在も続いている「芥川賞、直木賞」を発案し文壇に寄与するとともに無名の作家志望者の資金的援助もした。

川端康成も菊池に金の無心をすると何も云わずに百円と菊池の住まいを提供したと云う。

直木は菊池に無心し菊池が東京から京都へ出かけ、駅を降りると直木は一等車に乗り大勢の女性に囲まれて下車し、それを見た菊池は「金を貸した俺が三等車で、借りた彼が一等車とは***」と怒ったとか。

戦後菊池は戦時中軍に協力したというかどで、公職を追放され永田が大映の社長となった。それ以後の永田のワンマンぶりは有名である。

映画会社は、東宝は労働運動で、ストライキを繰り返し困った会社は、新東宝を作り映画製作を続け、その後日活、東映と現在の映画会社になった。

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