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2010年4月10日 (土)

信濃で埋もれた人-松平忠輝

松平忠輝

松平忠輝は、徳川家康の子で三河の松平家を継ぐこととなり、家康と対面し下総(しもふさ)の佐倉五万石の領主となり松平上総介忠輝(まつだいらかずさのすけただてる)と名乗り、翌年信濃の川中島十八万五石を与えられて松代に移った。

佐倉は後の大老堀田氏の居城で、印播沼(いんばぬま)開拓で義民佐倉惣五郎の事件の起きたところで現在も佐倉神社がある。川中島、松代は地元であり後に真田幸村の兄信之の居城となった。

その後伊達正宗の息女五郎八(いろは)姫と結婚し、越後高田に移り川中島領とともに六十万五石の大大名となり越後少将と呼ばれた。

高田は上杉謙信の居城があった土地である。

大阪夏の陣で北陸軍総大将を命令されたが、進軍が遅れ合戦に間に合わず家康の勘気をこうむり追放された。

表向きは夏の陣の遅参であるがその実はキリシタンに関係したものと言われている。

伊達正宗はキリシタンの信者で、息女である忠輝の奥方もその感化を受けているし忠輝も洗礼は受けていないが信者であった。

家康が恐れたのはキリシタンによる一族の分裂であり、秀忠の恐れたのは忠輝を競争相手としてであった。

家康が病に伏すと忠輝は「父を見ま舞い、秀忠にもあって誤解を解きたい」と申し出るが、家康との対面出来ず臨終にも会うことが出来なかった。

その上秀忠に高田城は取り上げられ、伊勢の朝熊山(あさまやま)蟄居させられ、しばらくして飛騨高山に配流となり最後は信濃の高島藩にお預けになった。

朝熊山は伊勢志摩をめぐった時、山を見上げたところでたが、険しいやまであった。高島城は新しく新築した城を以前参観した。飛騨高山へは観光でしばしば訪れている。

諏訪に移された忠輝は秀忠の勘気を許されるよう運動したが赦免にならず気の強い忠輝も遂にいあきらめて、諏訪で九十二年の生涯を閉じた。

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