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2010年3月11日 (木)

松尾芭蕉と信濃の国

松尾芭蕉と信濃の国

松尾芭蕉と信濃の国は関係がないと思われているが、意外に関係がある。「おくの細道」で芭蕉のお供をした曾良は、国文で河合曾良と云いう信州人であると習ったが、本名を岩波と云い伊勢の武士だと知って納得した。岩波は諏訪地方に多い名前である。昔から「おくの細道」の通りには歩けないと云う事が定説になっていたが、昭和十八年曾良の日記が発見されてその疑問は解けた。曾良は克明に日記を書いていて、芭蕉は「おくの細道」で先の出来ごとを後にしたり、後の出来ごと先に編集したり、時には事実でないことを書き加えたりしていることが判明した。有名な「一つ家に遊女も寝たり萩の花」は事実でなく芭蕉の創作であることも分かった。

「おくの細道」は芭蕉の俳句を作る過程を表した文学であることが知らされた。

曾良は加賀まで芭蕉のお供をしたが、病で脱落したことになっているが、事実は芭蕉の路銀調達のため芭蕉より先に歩いて路銀を調達し後に託しているようである。

「おくの細道」で芭蕉が独り歩きしたのは、永平寺から福井までのせいぜい三里だと言う。あとはだれかお供が付き添っている。芭蕉が大垣に着いた時曾良は伊勢から遥々大垣まで芭蕉を迎えに来て伊勢までお供している。

また芭蕉が信濃の国を扱った文と俳句に「更科紀行」がある。「更科紀行」は「更科の里、おば(女偏に夷)捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風心吹きさわぎて***」と冒頭で述べ、芭蕉が江戸への帰路を木曽に取ったのは、中秋の名月をおば捨山で眺めたかったためで、名古屋を立ち中山道、北国街を経て軽井沢に至る紀行文で、有名な俳句を数多く詠んでいる。木曽では「送られつ送りつ果ては木曽の秋」「桟(かけはし)や、いのちをからむ、つたかずら」とか、おば捨山では田毎の月を眺めて「俤(おもかげ)や、うば(女偏に夷)ひとりなく、月の友」と詠み、「十六夜(いざよい)もまだ更科の群(こおり)かな」と詠っている。信濃の国では「木曽の桟かけしかけしをを、詩歌に詠みてぞ伝えたる」と歌いおば捨は山は「月の名に立つおば捨山、しるき名所と風雅士(みやびを)が詩歌(しいか)に詠みてぞ伝えたる」と歌われている。芭蕉は陰暦八月十五日(中秋の名月)から三日間おば捨山に滞在して夜毎月を愛でて、善光寺へ足を延ばし「月影や四門四宗も只一つ」と善光寺が宗派に属さない稀な寺であると詠んでいる。私が子供の頃善光寺から四五百メートル離れた城山の県社の草むらに、善光寺に向かってブロック塀の一ブロックより小さな芭蕉のり句碑がひっそりと立っていた。信濃の国では「松本、伊那、佐久、善光寺四つの平は肥沃(の地」と歌い、軽井沢では「吹き飛ばす、石はあさまの、野分哉(のわけかな)」と詠んで、信濃の国は「あさまは殊に活火山」と歌っている。

信濃の国で「旭将軍義仲も***」と歌っている悲運の武将木曽義仲が好きで、芭蕉の遺言通り大津の義仲寺の義仲の墓の横に芭蕉は眠さっている。弟子の一人が「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と詠っている。

話は変わるが芭蕉に俳句の手ほどきをしたのは俳人松永貞徳の弟子北村季吟であるが、信濃の国の作曲者はこの季吟から七代目の子孫北村季晴である。

これも何かの因縁か。

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