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2010年3月 2日 (火)

浅間の大噴火 日本版ポンペイ最後の日

天明の浅間の大噴火(田村意次失脚、フランス革命の火ぶた)

ポンペイ最後の日はベスビアス火山の噴火でポンペイと云う街が一夜にして壊滅状態になり現在も不毛の地となっている。

日本版ポンペイの群馬県鎌原村(かんばら村)(群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原地区)は村民と江戸幕府の役人の協力で復興し溶岩流で埋められた村の上に土をかぶせ田畑にして復旧させ今も農業を続けて田畑は青々としている。

昔軽井沢をめぐって鬼押し出しへ行き大きな溶岩のごろごろした山道を上って西武鉄道の堤康次郎会長が創建した観音堂へお参りして下ってきて浅間山の大噴火の記念博物館で、噴火の様子見て帰ったがこれほど歴史のある大事件とは知らなかった。

天明三年(1783)旧暦七月八日の昼四っ半ごろ今でいえば八月五日の午前十一時の出来事である。浅間山頂から噴出した灼熱の火砕流は巨大な熱泥流となって北山麓の村々を襲い死者行方不明二千名と云われる日本火災害史上未曾有の大惨事となった。当時幕府の直轄領であった鎌原村住民五百七十名中四百八十名弱が死亡した。

児玉幸多元学習院大学学長を中心に発屈調査が行われ現在の天皇が皇太子のころ陣中見舞いをしている。

旧鎌原村で僅かに残った観音堂と石段が十数段あったが、そこから下を掘り返すとそこに嫁が姑を背負っていたと思われる二体の遺骨が出てきた。あと僅か石段を上れば助かったのに力尽きて火砕流に飲み込まれたものと思われ、しかも付近には埋没した家屋が掘りだされ、当時の新聞をにぎわしていた。観音堂を参詣するとお茶の接待をする婦人が詰めていた。嬬恋村の無量院の「住職手記」によると浅間の最初の噴火は旧暦四月八日と云うから噴火は四カ月も続いていたことになる。

足の弱い老人たちは遠くへ逃げられぬと悟り近くの高台に逃げ助かったという。観音堂に逃げたのも足に自信のない年寄や婦女子であったらしい。

この大噴火の鳴動は「西は京都、大阪、北は佐渡ヶ島、蝦夷松前、東は八丈、三宅島」まで届いたという。天領鎌原村を直轄する代官所の役人は寡夫になった人と寡婦になった人とを結婚させ子を失った親には親を失った子を組み合わせて「家」を作り「亡くなった人は先祖と思って供養せよ。生き残った人々は、協力して村を盛りたてるように」約束させ、日本版ポンペイは復興して今日に到っている。

近郊の分限者、富豪たちの救援活動も目覚ましく幕府の公式救援が始まる何十日前から飯の炊き出しも続けられたという。

天明の浅間の大噴火は日本史上未曽有の大飢饉となり飢饉は前後七年も続いたという。これにより権勢を誇った田沼意次は失脚している。

私の同級生の兄であり先輩?の元NHKお天気博士は「天明の浅間の大噴火は日本の空を覆い七年もの大飢饉をもたらしたが、地球全体をも覆ってヨーロッパにも何年も大被害をもたらした」言っていたが話半分と聞き流していた。

普通火山の噴火で対流圏に噴出した火山灰は数日のうちに地上に落下するが、成層圏にまで放出された数ミクロンの微粒子は簡単に落下しないだけでなく、偏西風に乗って地球全体に拡散し数年にわたって続くという。浅間山の噴火のあと南フランスでは太陽が仰角十七度まで見えなかったとか、英国では仰角二十度まで赤銅色に見えたという記録が有り、イタリアでも太陽が霞んで直視出来たと言う。

特に高緯度の地方は太陽の放射が妨げられ北極海では氷山が発達し気温は下降し、英国は低温多雨の夏と厳冬が何年も続きフランスでも凶作が続き社会不安と政治の動揺が遂にフランス革命へと進んでいった。

これは「1781年以降の毎日の天気図、フランス革命にいたる十年間の詳細な分析」と云う題で英国人が発表したものだそうだ。

裏付けがあったんだ。驚き驚き。

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