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2010年3月 5日 (金)

徳川吉宗と徳川宗春

徳川吉宗

運も実力のうちと云う言葉が有るが吉宗は強運の人であった。吉宗は紀州徳川藩主光貞の四男として生まれた。母は身分が低く四男であつたので一生部屋住みで終わ るのが通例であった。将軍綱吉が江戸の紀州藩邸を訪れた時家来の機転で長兄、次兄とともに吉宗も拝謁が許された。将軍に拝謁したものは大名に取り立てられる決まりに従って越前鯖江藩三万石を与えられた。しかし紀州藩の家督を継いだ長兄、次兄が相次いで没したため紀州の藩主になった。ところが将軍家宣、家継と立て続けに没し、御三家には吉宗以外の候補は早世し吉宗ガ八代将軍になった。吉宗は享保の改革で綱紀粛正(こうきしゅくせい)に努め、幕府の諸機構を改革し倹約、と年貢の徴収法を改革して幕府の財政を立て直し徳川中興の英主と呼ばれた。

吉宗は大岡忠相(ただすけ)伊勢町奉行から江戸南町奉行に抜擢し名奉行の名を高からしめた。また田沼意次の父は紀州藩の軽輩であったのを江戸につれて行き百石か二百石から最後は田沼意次は幕府の大老にまで抜擢している。しかし天明の浅間の大噴火とそれに伴う何年もの大飢饉のため失脚した。

徳川宗春

他方尾張藩主徳川宗春は将軍候補者の争いに敗れて憤死(ふんし)した徳川綱友のP50600101_4 P50600201112_2  P50600178_2  P50600167_3 弟で兄の意思を継いで吉宗の享保の改革を批判し、宗春は商業重視を説き、倹約にたいして華美、贅沢を推奨し、歌舞伎役者を尾張へ呼んで興業を開き、遊郭をつくり放漫政策即ち拡大政策に終始した。

名古屋が芸どころと云われるのはこの名残である。しかし放漫経済が長く続くはずがなく、吉宗は忍耐に忍耐を重ね、尾張の付け家老、家老を味方につけて、宗春を隠居,幽閉してしまった。

宗春が没すると墓は鎖で巻かれ七八十年解かれることはなかった。憎さも憎しである。墓に鎖に巻かれたのは将軍徳川家光と権力争いをし敗れた弟駿河大納言忠長(上州高崎に幽閉され切腹)の両名だけである。

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