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2010年3月21日 (日)

大谷刑部

大谷刑部

中学の漢文で大谷刑部吉継の関ヶ原の合戦で壮烈な戦死をする場面を述べた常山記談を習ったことがある。吉継は秀吉から吉の一字をもらい奉行を務め越前敦賀五万石の領主である。

豊臣秀吉が大勢の武将を招いてお茶会を開いた時、大谷吉継に廻ったお茶を飲んで次の武将に回す時、注意していたが、大谷はらい病患者?で、膿の汁が茶碗に落とし大谷は御茶を回すのを躊躇していると、秀吉は「回し間違えたと言って」膿の汁の落ちた茶碗を飲み干し、新たに御茶を立て反対回りにに回して窮地を救い大谷は一生感謝したと云う説と、それは石田三成で、吉継はこの恩を忘れず、関ヶ原の合戦では目がほとんど失明しているのにも関わらず、戸板作りの駕籠にに載り奮戦して、この首を敵に渡すなと家来に命じ田の中に隠したと伝えられている。

石田三成は徳川時代の勝利者の歴史観で必要以上に小物として扱われている。

また「佐和山に過ぎたるものあり。佐和山城と島左近」といわれた。三成は島左近を家来に迎えるとき三成の知行の半分をさいて左近を召抱えたことによる。

また真田信之は家康方に、幸村は三成方に従ったのは、家を存続させるためという説もあるが、信之は徳川の四天王の一人本多忠勝の娘を家康の養女として奥方に迎えてい、幸村は大谷吉継の娘を奥方にしている関係かもしれない。

大阪夏の陣の幸村の奮戦は、吉継の再来かとも思わせるものがある。

なお真田家の家系では幸村はなく、信繁と言われていたようだ。

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コメント

ほー。自分は三成説しか知らんかった。

秀吉が飲みほしたのであれば、秀吉。すごいな。

勉強になります。

投稿: Nagoya | 2010年3月21日 (日) 18時30分

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