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2010年3月

2010年3月31日 (水)

戦中戦後の電力会社の変遷

電力会社の変遷

戦前は、電気の配電会社は地区ごとに東京電灯、大阪電灯、名古屋電灯、長野電灯のように細かく分類され、電力会社もたとえば大同電力、東邦電力、梓川電力のように別れていた。しかし軍部は戦争遂行の上で不都合とみて配電会社は、八配電会社に統合し、電力会社は一社にした。

八配電会社は、北から北海道配電、東北配電、関東配電、中部配電、関西配電、中国配電、四国配電、九州配電で、電力会社は、日本発送電一社とした。

長野電灯も中部配電に吸収されるとき、土地を国に寄付して官立長野工専(現信州大学工学部)を誘致した。

戦後電力再編成で日本発送電総裁の小坂順三と電力の鬼松永安左衛門とが争奪戦を繰り返し遂に松永が勝利者となり、日本発送電は解体し、各配電会社に電力会社を付けて、北海道電力、東北電力、東京電力、中部電力、関西電力、中国電力、四国電力、九州電力の九電力と新しい発電所を作る電源開発一社となった。

電源開発が作った発電所は新技術を導入した佐久間ダムであり、関西電力が作ったのは映画「黒部の太陽」で有名な黒部ダムである。

今日の電力会社は松永安左衛門の恩恵といえよう。

長野県の大町から黒部ダムへ通ずるトンネルと壮大な黒部ダムの景観と富山県の宇奈月渓谷のトロッコ電車は、ダムを作る時の機材を運びや、冬季に人が歩くトンネル道となっているのを観光に提供しているがそのスケール大きさには感心する。

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2010年3月30日 (火)

一ッ目が欲しい

一ッ目が欲しい

2p10800011富士山を背景にした、緑の江ノ島は美くしい。

江ノ島は裸弁天で有名であるが、江ノ島の鳥居を向かって右に進むと直ぐ海側に臨むが、その手前を少し奥に下ると、に杉山総検校のお墓

P108000112ひっそりと立っている。 杉山検校と江ノ島関係は講談でも読まれている因縁がある。杉山検校は和一といい、幼いころから全盲で、手先

も不器用のたP41000044P410000556幾ら修行しても鍼(はり)が上手く刺すことが出来ずに絶望して自殺するため江ノ島へ来て、足にチクリと刺さる松葉からヒントを得て管に鍼を差し込んで打つ杉山流を発明する。後年五代将軍徳川綱吉の病気を針で直し、将軍から「なんでも好きなものを与える」と云われ「一ッ目が欲しゅうございます」と答えると、将軍は本所深川の一ッ目を彼に与え関東の総検校に任命した。

杉山和一は江ノ島神社に感謝して一ッ目の邸に江ノ島神社を祭り日夜拝んだと言う。

現在は深川の相撲部屋の多い通りの一ッ目の彼の邸跡に杉山神社(江ノ島神社)が鎮座して大衆に参拝されている。

P41000022 P40900056_2 P40900067 P92300055 P92300066    

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2010年3月29日 (月)

村八部

村八部

昔富士見高原病院(結核療養所)の院長、正木不如丘の小説「木賊(とくさ)の秋」を読み村の掟を破って「村八部」になり、村から追われる幼い姉弟に同情したものであった。戦後になっても「村八分」に合い村を追放される「非民主的な話」としてしばしば新聞記事に載っていた。

しかし、後年国士舘大学の樋口清之教授の「梅干しと日本刀」の「村八分」を読み規正概念を改めざるを得なくなった。

「梅干しと日本刀」では「村八部」は読んで字の通り村人との断絶は、「十部」でな「八部」であると言う。

「十部」とは「出産・成人・結婚・葬式・法事・病気・火事・水害・旅立ち・普請」の総て断絶するのではなく、八部は断絶するが「葬式と火事」の二部は残すと云う意味で、絶縁はしても「家族の中に誰か死んだ時は村中の人たちが手伝って悲しみを共にし、火事に遭った時も皆で手を貸して手伝うという意味である」と。つまり絶縁はしても悲しい出来ごとだけは、分かちあうというのが「村八部」でこんな心やさしい風習世界に類を見ないと書いていた。

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2010年3月28日 (日)

わが落第 の記-その2

岩波茂雄

安部能成著「岩波茂雄傳」によれば、岩波の最所のつまずきは一高入学試験試験に受験して不合格となり、翌年一高を受験して入学。安部次郎、上野直昭、萩原井泉水鳩山秀夫(現鳩山首相の曾祖父)と同級になった。一高一年の時ボート部へ入り一部の第三選手のトップになる。この時代が岩波は「ボーキチ(ボート狂い)」のあだ名を付けられたと云う。一高二年に進学して間もなく、足尾の鉱毒事件が世を騒がせ、岩波は渡良瀬川の現状を見るため、足尾へ行っている。二年の初期からボート部への情熱も冷め、煩悶して二年の試験を放棄し落第して安倍能成と同級になったと云う。この年一高生藤村操は日光の華厳の滝で、「厳頭の辞」を残して自殺し岩波と安倍はひどいショックを受け立ち直れずに二人とも落第する。なお安倍能成の奥さんは、藤村操の妹である。

岩波は同じ学年を二度落第したので規則上退学になってしまう。

岩波は、母親に一高の退学を告げれず、昔何かの本でで読んだ所によれば一高の卒業記念写真にチャッカリ顔を出し、写真の中に入って母親に送ったと言う。

その後岩波は東大哲学科の選科を出ている。戦後しばらくの間は、代議士などの履歴に大学の本科か選科卒かを区別していた。広辞苑によれば本科は、その学校の本体をなす課程と書かれ、選科は、学科の一部を選択して学習する過程と書かれている。

此処に旧制の学校制度は予科と本科があって予科は本科に入るための予備の課程で、旧制大学入学前の段階で旧制高等学校に相当する過程。東京商大(現一ツ橋大学)・北海道帝国大学、私立大学に設けられたとある。

新制大学に成り本科、予科、選科の区別がなくなり、代議士の履歴から本科、選科の区別はしなくなってしまった。

F100000112 F10000023 F10000045 後年岩波は岩波書店の人に「なぜ選科でなく本科を出なかったか」尋ねられ岩波は「本科はもう一度高等学校へ行かなければならないし、本科も予科も同じようなものだから」と答えているが、安倍は「岩波にはもう一度多くの学科を学んで受験する学力がなかったから」と書いている。

岩波は女学校の教師をし、教師を辞めて古本屋を開きその後新刊本屋とな岩波のメリットは岩波が新刊本屋になった時、旧友たちはそうそうたる学者になっており、容易に出版を許されたことによる。

F100001414F100001515_3  今日岩波の墓が有る鎌倉の東慶寺によって見ると、以前あった道路沿いの東慶寺の門は取り除かれ、岩波、安倍能勢、鈴木大拙、清水幾太郎、らの御墓は以前より大きく成っているようであった。さら に小林秀雄、出光、安宅などの御墓も増えていた。

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2010年3月27日 (土)

わが落第の記-その1

わが落第の記

ご五十年ほど昔「わが落第の記」という題名で、当時の著名人が自分の落第(現在の留年)や入試の失敗談を書いていた。

中には著名な評論家、中島健蔵の中学四年と五年から入試を失敗し、都落ちして松本高等学校へ合格した話とか、徳川無声の高等学校入試の失敗で、進学をあきらめた話などであった。

特に印象に残ったのは、名前は忘れたが、初代道路公団総裁の話は面白かったのでここに記憶をたどりながら書いてみた。

彼は福島の中学校から一高へ合格したが、その年東大駒場の農学部と本郷の一高との土地交換の話が持ち上がり、一高百年の大系を決める一大事だと交渉委員に選ばれ、授業にも出席せずに交渉にレ専念した。時の東大総長山川健次郎は、学校は大丈夫か心配したが、一高のためだと頑張り通した。その結果は見事に落第した。

すると一高の寮の舎監が遥々福島へ出向き、一高のために頑張って落第したむね両親に報告してれた。寮では「落第して舎監を走らせた」として有名になったと云う。

次は翌々年一高ヨット部のために落第し、更に隔年に何か一高のために落第し、都合三年落第した。一高を卒業してか、東大を卒業してか、結核にかかった時前記山川健次郎は彼の病状を心配し、山川の湘南の別荘に転地療養させ、療養途中は彼を助手として山川のポケットマネーで給料を払ってくれたと云う。良き時代を彷彿させる。

山川は彼の心意気に感じたせいもあろうが、山川自身会津の藩士であり同郷のよしみでもあったのであろうか。

その後彼は満州で活躍するが、終戦で引き揚げ失職している時、一高六年の同級生たちが、彼を初代道路公団総裁に推挙してくれたと書いていた。

まさにうらやましい良き時代であった。

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2010年3月26日 (金)

漱石

漱石

小説家夏目漱石はペンネームであり、本名を夏目金之助という。小説の中にも書かれているが、漱石は養子に出され、後に実家に引き取られている。

漱石の生まれたと場所は新宿の菊井町であるが、記憶が正しければ、菊井町の町名はむ漱石の父が付け親で、菊は漱石の実家の紋どころで、井は確か屋号であったように覚えている。

漱石はこれを嫌っていた。漱石の出典は漱石枕流(そうせきちんりゅう)(石に口をすすぎ流れに枕す)だと推測している。昔読んだ中国の故事に正しくは漱流枕石(そうりゅうちんせき)(流れに口をすすぎ石に枕す)を誤って上記のように云い「石ですすぐのは歯を磨くためであり、流れに枕するのは汚れた話を聞いた耳を洗うためだ」とこじつけて言ったことから「こじつけ」という言葉になったと読み、一言居士の漱石ペンネームにはピッタリだと確信した。

今日ブログを書くに当たり、四字熟語引くとまさにその通りで「夏目漱石のペンネームは、この故事に由来する」と書れていた。

夏目漱石と正岡子規の交友は、有名であるが漱石が俳句を作ると子規は添削し、漱石が漢詩を作るとこれまた添削し、漱石が英語の詩を作ると黙って「べリグッド」と書いて帰したと言う。

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2010年3月25日 (木)

夜明け前

夜明け前

「木曽路は山の中である」で始まる島崎藤村の小説「夜明け前」は木曽馬籠の宿から眺めた幕末から明治へかけての歴史小説である。

先ず皇女和の宮の江戸城へ御輿入れの大行列は何夜も続いたと云う話や、立ち寄った宿宿への御下賜金の数々を克明に記している。

次は水戸の天狗党が武田耕雲齊、藤田小四郎などが筑波山で旗揚げし京へ目指してい進み、役人たちは素知らぬ顔をして見逃す様子などが書かれている。彼らはその後越前に行き捕えられて処刑された。

更に維新の前夜は相良総三らが官軍の先方隊となって「年貢の半減」をうたい文句に宿宿から軍資金を調達して進んで行くが、途中で偽官軍の汚名を着せられて処刑される事件。

藤村の父は国学者荷田の一門から国学を学び、ひとかどの国学者であった。

藤村の父親は、明治になれば、今まで尾張徳川家から禁じられていた木曽のヒノキの伐採も許可されると思っていたが、新政府になっても、御両領林として保護され村人の自由に自由にはらない。父親は一時期は国学者として処遇され飛騨の国の一宮の宮司にも成るもその後は不遇で、明治天皇の行幸に際して御領林の伐採の許可を直訴するも入れられず座敷牢に入れられ、気のふれた父親は祖先の菩提寺に火を付けてしまう。

藤村は、木曽の山奥の出身にもかかわらず、東京でも名門の泰明小学校を出て明治学院を卒業している。これも父親の教育熱心のたまものである。

明治は日本の夜明けでなく、夜明け前であった。

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2010年3月24日 (水)

野球

野球

日本の野球の紀元は、明治六年開成学校(後の第一高等学校、現東大)でアメリカ人教師が生徒に教えたことに始まる。

俳人正岡子規は「ベースボールは、面白かりける」を始めベースボールの歌を二十首以上作っている。

また子規は幼名升(のぼる)と云い野球(のボール)の名付け親であるとも云われている。それはさておき、子規は随筆でも野球について詳しく説明し、多くの用語を翻訳している。したがって当時日本で野球の強かった学校は第一高等学校であった。

早稲田大学の安部磯雄(早稲田の教授、代議士、野球の振興にも貢献)は早稲田が一高を破れば米国へ連れていくと約束し、早稲田が一高を破ると、日露戦争中にも関わらずアメリカへ連れて行っている。

それから野球は盛になり、六大学野球の勝敗争いに一喜一憂し、六大学全盛時代は昭和十年ごろまで続いてた。しかし六大学唯一の官立の東大は学問が主で他の私立大学のように野球だけ上手な学生の入学がままならずいつの間にか最下位に甘んじる現在の姿になってしまった。変わって早稲田と慶応が頭角を現し、早慶戦が皆の注目を浴びるようになっちた。

一方朝日新聞主催の中等学校野球も盛んになり、後には甲子園球場を作って夏の大会で「欠き割り氷を食べながら」声援する人が多かった。明石中学と中京商業の死闘は現在も世に語り継がれた。

その頃アメリカからプロ野球が来日し、ベーブルース、ゲーリッグなどが活躍した。

これに対抗するため、読売ジャイアンツは、日本初のプロ野球を急にごしらえて六大学出の選手や甲子園で活躍した選手を集めた。

その中に日米野球で活躍し伝説の人となった沢村栄治投手がいる。さらに旭川中学でエースで甲子園での活躍を期待された、スタルヒンもいた。

スタルヒン一家は白系ロシヤ人でロシヤ革命で追われ亡命して旭川中学の野球部に入部し、甲子園での活躍が期待されていた。

ジャイアンツの野球に対する功罪は半ばするものと思っている。スタルヒンはジャイアンツに入って甲子園に出場出来なくなり旭川の市民を怒りと失望に陥れた。スタルヒンの娘の書いた伝記によれば、亡命したスタルヒン一家は日本の国籍を持たず、父親は喫茶店の経営にに失敗していた。入団交渉はあまりなく、突如スタルヒンのジャイアンツ入団を発表し、「スタルヒンには入団しなければ一家はロシヤに帰させられる」と脅迫し遂に出場を承知させた。読売新聞の社長正力松太郎は、警視総監を務めた警察のトップであり、まさか彼ではないだろうが部下が警察の権力を傘に脅迫したことになる。甲子園の出場を楽しみにしていたスタルヒンの夢を破り、何も知らない旭川市民を失望させた罪は大きい。また沢村栄治も京都商業から無理に中途退学させている。スタルヒンは戦後も活躍していたが沢村は出征して戦死してしまった。

沢村投手の功を称えて、その年プロ野球で活躍した投手に沢村賞が贈られている。

戦後旭川球場は、スタルヒン球場として彼の功績をたたえている。

戦争中学徒動員が始まり、早稲田と慶応は早慶戦をやって送り出そうと、安部磯雄と小泉信三の尽力でこれを実現させている。

戦後六大学野球は、復活し万年最下位の東大は、各大学野球部の練習不足に助けられて一時大活躍をした。

プロ野球も復活し、川上、青田、小鶴のホームラン争いは、赤バット、青バットと世間を騒がせた。

中等学校野球復活したがしばらくして高等学校野球として現在の発展を見るにいたった。

プロ野球では南海ホークに別所投手というエースがいたが、ジャイアンツは、またも悪い癖を出して別所を引き抜き両球団は険悪なムードになったことがある。

次は甲子園野球で活躍した桑田、清原の指名事件である。桑田には他球団を牽制するために、進学と云わせ、清原はプロ野球に懸けふたを開けると、桑田はジャイアンツだけが指名となり清原に悔し涙を流させた。球団は信義を損ない、桑田、清原両名には友情を失わせてしまった。

次にジャイアンツは数年前各球団の主力をごっそり引き抜き、優勝しないのが不思議だと言われる状態で首位を取れなかった。

野球はリーグでやるもので、一チームが強くなても仕方がないものなのにこんな簡単なことが分からない首脳陣なのか。

野球の将来のためにも憂慮すべきことだ。

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ほおずき市-四万六千日

四万六千日

ほおずき市は広辞苑によれば7月9・10日の両日、東京浅草観音(浅草寺)の境内に鉢植えのホオズキを並べて売る市。とあり7月10日は浅草観音の四万六千日(しまんろくPb130016121 Pb13001212 Pb13001089 Pb130015910111 せんにち)に当たり、大勢の参詣人でにぎわう。と書いてある。ほうずき市は本末転倒(ほんまつてんとう)で本来は四万六千日の参詣人を当て込んで、ほうずきを売ったためほうずき市となったのである。

Pb1300147 Pb1300071 四万六千日はこの日観音さんを参詣すると一日で四万六千日拝んだと同じ功徳が有ると云う民間信仰で、江戸中期、享保の頃より始まるとある。

これは浅草寺だけに限らず、二万五千日は、京都、長崎などの清水寺の観音に7月10日に参詣と2万5000日功徳が有ると書かれていて、千日参りは、千日の間神社・仏閣に参詣すること。後には、特定の日(江戸浅草寺・京都清水寺間などでは、7月9日10日)に社寺に参詣すれば千日の御利益があるとされたとも書かれている。

どうも功徳が拡大して行ったようだ。

私の故郷の観音寺では一月遅れの7月10日は四万八千日と称し参詣者でにぎわっている。

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2010年3月23日 (火)

ラジオ体操

ラジオ体操

現在も夏休みになると、近くのグランドなどで子供たちが集まってラジオ体操をしているが、私の子供の頃は小学校のグランドに小学生や近所の老若男女が集まってラジオに合わせて体操をしていた。親戚の大店(おおだな)の大将も着物に下駄を履いて、2キロ以上の坂道を歩いて通い体操をしていた。

ある夏の日にラジオ体操を普及させるための全国行脚(あんぎゃ)をしていたNHKの江木アナウンサーが小学校のグランドで放送兼実演したことがあった。

当時は放送局はJONKと云い、東京はJOAK、大阪はJOBK、名古屋はJOCKとそれぞれ名付けられていた。JONKは小学校から500メートル離れた岡の頂上近くにあり、アンテナは丘の中腹のくぼんだ所に30メートルと50メートルの4本梯子の巨大な鉄塔であった。山国の長野ではこんな巨大な塔でなければ電波は捕えられなかったのであろう。

江木アナウンサーは体操の前の前奏曲「躍る(おどる)旭日(あさひ)の、光を浴びて、曲げよ伸ばせよ、吾らが腕(かいな)、ラジオは号(さけ)ぶ、一二三」で始まり、この曲が終わると江木アナウンサーは「お早うご座います。さあこれから元気にラジオ体操を始めましょう」の掛け声で体操が始まった。今日の今日までラジオ体操の前奏曲は「上る」だと思い歌っていたが、「躍る」であったとは意外であった。さらにこの曲は堀内敬三の作曲とは知らなかっちた。

掘内敬三は戦後間もなく始まったNHKのラジオの人気番組「話の泉」のレギュラーでこのほかサトー・八ロー、石黒敬七・太田黒元雄などがいて司会者が出すクイズに答えるもので初めて聞くようなものも多かった。たとえば「電話で始めて話した外国語は何語か」という問題もサトー・八ローが「それは米国に留学中の金子堅太郎と伊澤修二であるから日本語」と答えていた。

堀内敬三については、歌手の藤山一郎が日本橋の遊び友達らしく敬三は日本橋の「浅田飴本舗の息子である」と言っていた。

浅田飴は幕府の御殿医で明治になり皇室の侍医となった浅田宗伯の発明したのど飴であり宗伯は信州人である。

堀内敬三は世界名歌集120曲中30曲もの歌詞の翻訳者でもある。

著名なものは「歌劇蝶々夫人のある晴れた日に」「歌劇リゴのレットの女心の歌」「歌劇カルメンのハバネラ」「歌劇ホフマン物語のホフマンの舟歌」「歌劇ミニョンの君よ知るや南の国」「ソルヴェーグの歌」シューベルトの「アヴェマリア」「セレナード」「ます」、「ジングルベル」、「ケンタッキーの我が家」フォスターの「故郷の人々」「ァー二ーローリー」「ドリゴノセレナーデ」「サンタルチア」と数え上げればきりがない。

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2010年3月22日 (月)

藤原咲平と新田次郎

藤原咲平

藤原咲平は上諏訪の生まれで、諏訪中学、一高、東大を出て中央気象台に努め、理学博士であり気象予報官と成り、「お天気博士」と呼ばれた第1号である。

咲平は戦前、戦後を通して中央気象台の台長も務めた。永田鉄山軍務局長とは小学校、諏訪中学の同級生であり、永田少将とも岩波茂雄とも諏訪中学出身の関係で親しく付き合っていたようだ。

新田次郎-藤原寛人

新田次郎は本名藤原寛人と云い藤原咲平は伯父にあたる。諏訪中学を出て、無線電信講習所(前逓信講習所、現電気通信大学)から咲平を慕って、中央気象台に就職し満州の中央気象台の気象課長として転職し、終戦を迎えてソ連の捕虜となり抑留生活を送って帰国した。

満州に残した妻ていは三人の子供と満州から三十八度線を歩いて超えて帰国した。てい女史は満州からの引き揚げ記録を「流れる星は生きている」の題名で書いてベストセラーになった。妻ていは新田次郎より早く作家になり、参議院議員にも出馬して議員になっている。

新田次郎は咲平と同じ上諏訪の角間新田に生まれ、新田の次男坊であったのでペンネームを新田次郎とし、妻ていに刺激され作家活動はに入った。以後の活躍は周知の通りである。

引き揚げのの時最も小さかった三男は現在大学の教授?で藤原孝夫は作家活動もしている。新田次郎が夫婦喧嘩をするとてい女史は「誰がこの子たちを連れ帰ったと思っているの」と云うと、新田次郎はこそこそと二階へ上がっていったという。

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唐人お吉-実在しなかった

唐人お吉 

伊豆の下田の玉泉寺へ行くと案内人がとうとうと「唐人お吉」の生涯を見て来たように語っている。昔「講釈師、見て来たようなうそを言い」と云われたがまさにその通りである。

玉泉寺はアメリカ総領事ハリスが日米通商条約を結ぶため日本で最初の領事館を置き星条旗を上げたところである。唐人お吉はハリスの侍女として仕え後に解雇され、川の淵に身を投げたと云う女性である。

広辞苑は「アメリカ総領事ハリスの侍女。伊豆下田の船大工の娘。しかも年表まで載せ下田で投身自殺。唐人お吉」と書かれている。

しかし昔見た実話全集では「唐人お吉」の実在を調べるため作家村松松風ら数人で下田に行き「お吉」の時代を知っている古老に合って聞き歩いたが、お吉が実在したと云う証拠はなく、お吉は実在しなかったという結論に達していた。

「ハリスが病気になった時、三日間だけ看病してハリスに付き添った船大工の娘はいるが、ハリスの妾としてではなかった。更にハリスは敬虔なクリスチャンで妾を持つような人佛ではない」ハリスの通訳ヒュースケンは女たらしで彼ならばそのようなことはあったかもしれない。

しかし「唐人お吉」のような運命をたどった人はいたと思うが、世間で言われているハリスの侍女「唐人お吉」はいなかったという結論である。人のうわさも怖いもので何時の間にか架空のり人物が実在の人物になってしまった。

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2010年3月21日 (日)

大谷刑部

大谷刑部

中学の漢文で大谷刑部吉継の関ヶ原の合戦で壮烈な戦死をする場面を述べた常山記談を習ったことがある。吉継は秀吉から吉の一字をもらい奉行を務め越前敦賀五万石の領主である。

豊臣秀吉が大勢の武将を招いてお茶会を開いた時、大谷吉継に廻ったお茶を飲んで次の武将に回す時、注意していたが、大谷はらい病患者?で、膿の汁が茶碗に落とし大谷は御茶を回すのを躊躇していると、秀吉は「回し間違えたと言って」膿の汁の落ちた茶碗を飲み干し、新たに御茶を立て反対回りにに回して窮地を救い大谷は一生感謝したと云う説と、それは石田三成で、吉継はこの恩を忘れず、関ヶ原の合戦では目がほとんど失明しているのにも関わらず、戸板作りの駕籠にに載り奮戦して、この首を敵に渡すなと家来に命じ田の中に隠したと伝えられている。

石田三成は徳川時代の勝利者の歴史観で必要以上に小物として扱われている。

また「佐和山に過ぎたるものあり。佐和山城と島左近」といわれた。三成は島左近を家来に迎えるとき三成の知行の半分をさいて左近を召抱えたことによる。

また真田信之は家康方に、幸村は三成方に従ったのは、家を存続させるためという説もあるが、信之は徳川の四天王の一人本多忠勝の娘を家康の養女として奥方に迎えてい、幸村は大谷吉継の娘を奥方にしている関係かもしれない。

大阪夏の陣の幸村の奮戦は、吉継の再来かとも思わせるものがある。

なお真田家の家系では幸村はなく、信繁と言われていたようだ。

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2010年3月20日 (土)

鉾をおめて

鉾をおさめて

「鉾をおさめて、日の丸上げて、胸をドンと打ちゃ、夜明けの風が、そよろそよろと、身にしみわたる、灘の生酒に、魚は鯨、樽を叩いて、故郷の歌に、ゆらり、ゆらりと、陽は舞い上がる、エンヤッサ、エンヤッサ、ヤンレッサ、ヤンレッサ、踊り疲れて島かとみれば、母へ港へ土産の鯨」このほかにも「「出船の港」ドンとドンとドンと、波乗り越えて、一挺二挺三挺櫓で飛ばしゃ、さっと上った鯨の潮の、潮のあちらで、朝日がおどる」」これも時雨音羽作詞、中山晋平作曲の勇壮な捕鯨の歌でともにわれらのテナー藤原義江が歌った得意な歌である。

捕鯨は以前は各国で行っていた。米国のペリー提督が日本に開港を迫ったのも捕鯨船の寄港する場所を確保するためであった。米国の捕鯨は鯨の油を燈油として使うためで油を取った残骸は捨てていた。

しかし日本は鯨の肉は食用に、油は肝油として健康薬として飲み捨てるところはなかった。

米国は燈油として鯨の油がいらなくなると捕鯨をやめて、今や英米其の他の国々は、鯨を取るのはかわいそうだと言って捕鯨を禁止しようとしている。

戦後間もなく日本の捕鯨は盛んで、食糧難の時の栄養補給元として活用された。現に学校給食としてもしばしばお目にかかった。当時北杜夫は捕鯨船に医者として乗り組み「ドクトルマンボー航海記」を書いている。

最近調査捕鯨で獲得した鯨を販売し戦後を懐かしんで「うまい、うまい〕と云って食べているようだが、私は鯨には良い思い出がなく、そんなにうまくはなかったような気がする。

  

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2010年3月19日 (金)

一所懸命と一生懸命

一所懸命と一生懸命

昔の辞書には一所懸命はあるが、一生懸命はない。小学校でも一所懸命は習ってたが一生懸命は習っていない。この区別は戦後も続いた。一所懸命は武士たちが所有する土地を守るために命を懸けたことに語源が有る。武士は加増は勿論うれしいが知行安堵に命を懸けていたことが分る。

戦後朝日新聞社?で入社試験に一所懸命を出したところ一生懸命と書い者がいると言って新聞種になっていたが、最近は一生懸命も市民権を得て辞書にまで載るようになってしまった。しかし広辞苑では「イッショウケンメイは(一所懸命)の転と書いている。

これと同じような例に「洗條と洗浄」がある。前者は「せんでき」と読み後者は「せんじょう」と読み区別していた。「胃を洗條(せんでき)」するのように。しかしいつの間にか混同されて区別がなくなってしまった。

これとは違うが「完璧(かんぺき)」は戦後当用漢字が出てから「完壁」と書いて「かんぺき」と読ませていたが、そもそも成りたちが中国の「玉を無事に持ち帰った」ことから完璧という字が出来たので、ワープロの普及により元の「完璧」に戻ってしまった。

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戦争と景気

戦争と景

今日の民放のテレビでこの不況を乗り切るにはどうすればよいかを、三賢人に尋ねたところ答えは「昔ならば戦争」だという回答であった。その証拠にアメリカの景気をグラフで示し、好調な時を見ると、いずれも第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争で、不況の最たるものは世界大恐慌であった。

思いい起こすとお袋は「終戦の後日本を救ったのは朝鮮動乱で、これがなければ日本の復興はおぼつかなかった」と常々言っていた。

朝鮮動乱で戦いに明け暮れしていたアメリカは、つぶれる寸前までいっていた日本経済を救い開店休業の会社に軍需品、食料品、衣類其の他もろもろ機械製品の生産を任せて、日本は奇跡的な復興遂げることが出来た。

人の不幸を喜ぶようで申し訳ないが、世の摂理はこのようにして出来あがっている。

お袋は「昔は戦争という景気回復策があったが、これからはどうなることか」と戦争は嫌いで道を歩いていた出征前夜の見ず知らずの人に「何としても生きて帰りなさい」と言っていたお袋は矛盾した考えであるが一面眞理ついていた。

この現状の不況は打開策はないかという問いに「これはという策はないが、今までの常識に捕われずに非常識な策をするしかない。さもないと早晩に日本は破滅する」といっていた。

この時「太西洋の黒マグロの捕獲禁止条例は否決された」というニュースが流れた。

マグロの一かけらや二かけら食べなくても餓死することはない。終戦ごの食糧難を考えればなんでも出来る。人間は贅沢に流される動物だ。

終戦後世間なを驚かせたのは東京地検の山口判事の餓死事件である。彼は「いやしくも自分は人を裁く判事である。その判事がヤミ米を買うわけにはいかない。国もまさか餓死させることはあるまい」と言って餓死し新聞などに大々的に報道された。

国の危急存亡の時、「海外旅行だ」「グルメだ」と贅沢の限りを尽くす人々の心理がわからない。戦時中までとは行かないまでも、質素、倹約に努めてはいかがか。

戦時中、東京美術学校を出てパリーに留学した親戚の画家が「フランスは滅びる国である。その証拠に人口が激変している」と云っていたが、現在は人口は増えて持ち直している。日本の若者の出生率が減っているが、このようなことがないことを祈る。

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2010年3月18日 (木)

岸壁の母-二人いた

壁の母

「母は来ました。母は来た。この岸壁に母は来た***」で始まる岸壁の母を歌って一世を風靡した二葉百合子が、来年三月で歌手を引退すると発表した。この歌は戦後一番遅れていた、満蒙に配属になった兵士がシベリヤへ送られ、過酷な労働に耐えて共産主義に洗脳された兵士たちが、舞鶴港に引き上げて来るのを毎日、毎日見守っていたある母を歌った流行歌である。

なお舞鶴港はむ昔の軍港で舞鶴鎮守府と云った。

ただ無言の帰国をした人も多かった。その一人に元首相近衛文麿の子がいる。彼はソ連に抑留され「一生、生きてソ連から帰されることはないだろう」と予言しその通りになった。彼は元首相細川護煕の叔父にもあたる。彼の母親と兄弟で後継ぎが耐えるので細川家の二男を近衛家の養子にしている。

さて「岸壁の母」は記憶が正しければ二葉百合子の持ち歌ではなく、中堅歌手の持ち歌を百合子が譲ってもらいヒットさせたものである。

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2010年3月17日 (水)

鎌倉幕府執権邸跡

幕府執権邸跡

鶴ヶ岡八幡宮の三の鳥居に向かって右側の突き当りに宝戒寺という秋には萩の花が咲き誇る寺ががある。ここは執権北条の邸跡で、新田義貞の鎌倉攻めの時、北条高時は邸に火を付け裏山の「高時腹切り櫓で一族郎党とともに切腹して果てたと伝えられている。

信州塩田の北条国時、俊時親子も「すわ鎌倉」と鎌倉に駆けつけ「高時腹切り櫓」で運命を共にした。

F100001510F100001489 「高時 腹切り櫓」は円形の大地に谷戸があり、そこに卒塔婆が何本かある質素なもので此処で切腹したのでは寂し過ぎる感のある場所である。栄枯盛衰は世の習いか。

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京都は爆撃されないほ-神話?

京都は爆撃されない

「京都、奈良は文化財が多いので空襲されない」という神話がささやかれていた。

さすがに米国はこんな激しい戦にもそのような配慮をしているのかと感心したが、戦争は非常なものでそんな配慮はなかったことを知った。

二年ほど前に京都の商家の主人が、日本経済新聞に京都も爆撃にあっている。

しかも二回もである。ウナギの寝床のように細長い家の中庭に不発弾が落ちて今も記念に保管していると言う。しかも「終戦がもう二三カ月遅ければ京都にも原子爆弾を落とす計画もあった」と。

戦争は敵味方必死の戦いである。米国も始めは、軍の施設や軍需工場を空襲していた。そのうちに無差別攻撃となり東京、仙台、長岡の空襲のように焼夷弾を落とし大衆の家を壊滅状態にしている。

本来戦争は敵対するものを攻撃し大衆には危害を及ぼさないものである。

それにつけても終戦の時のロシヤスターリンの発言には驚かされた。火事場泥棒のように終戦がわかってから参戦し「日露戦争の仇を討った」といった。国化の元首の言う言葉ではない。

それに対して支那事変出苦しめられた蒋介石総統は「今までは不幸に敵味方に分かれて戦ったが、これからは仲好くして行こう」と賠償金も取らず、兵士たちの帰国を直ぐ行ってくれた。後に中共軍も蒋介石が賠償を取らなかったのでそれと同じ条件にした。

東洋のマタハリと云われた川島芳子の裁判も、養父川島浪速の蒋介石への助命には売国奴であるからと耳をかさなかったが、遺骨は浪速に送り届けている。

日本の政治家たちの中でも蒋介石の終戦の時の発言に感謝して、中共軍が支那大陸から蒋介石を台湾に追い込んでからも蒋介石の政府を認め、中共を政府とは認めなかった。

ちなみに蒋介石は、日本の陸軍士官学校を出て、少尉に任官し高田の連隊に配属されていたことがある。

また東京裁判では、インドの判事が東京裁判は勝者が敗者を裁く裁判だと職まを退いて帰国してしまった。

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2010年3月16日 (火)

松下村塾は誰が作ったか?

松下村塾

松下村塾と言えば十中八九が吉田松陰が作った私塾と答えるが、さにあらずで広辞苑よれば吉田松陰が叔父玉木文之進のあとを受け継いで安政三年から主宰した私塾。高杉晋作、久坂玄端、前原一誠、伊藤博文、品川弥二郎らを輩出。となっている。

吉田松陰がいかに傑出した人物でも二三カ月の教育では人々を感化出来ない。吉田松陰の前も後も玉木文之進が教育している。

玉木家と乃木家は親戚同士で、乃木は子供の頃江戸から萩へ玉木を頼って家出をしている。しかし玉木は弟子にすることを断わり、乃木は一年間百姓の手伝いをしてやっと許されて弟子となった。

乃木の弟真人は玉木家に養子に入って玉木正宜と名乗っている。元参議前原一誠は征韓論で西郷とともに下野し、西南戦争の前に萩の乱を起こそうとして、真人は乃木を味方に引き込もうと説得する。前原一誠は新潟県知事時代年貢を半減という大胆な政治も行っている。

文人乃木は「去年より今年の秋はものうけれ、またくる年はいや勝るらむ」と心の内を語っている。その通り萩の乱で乃木の弟は戦死し、恩師玉木文之進は賊軍を大勢出してしまって申し訳ないと先祖の墓前で割腹自殺をしている。
四五十年前大阪の商工会議所の会頭に杉百合之助という人がいたが、名を尋ねられると吉田松陰の生まれた家と答えていると。事実松陰は会頭の先祖の杉百合之助の次男で叔父吉田賢良の養子となり吉田寅次郎をなのた。鎌倉の瑞泉寺の和尚も松陰の叔父で瑞泉寺にも逗留している。

なお乃木は軍人としては珍しく、四回も休職して復帰を繰り返している。これも長州の軍閥が吉田松陰に配慮したためであろうか。

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2010年3月15日 (月)

叛乱-2.26事件

叛乱

学生時代古本屋で朝日新聞の記者立野信行の叛乱を見つけ、2.26事件は聞いて知っていたが、真実については知らぬことばかりであったので買ってきてむさぼり読んだ。

それによると私の認識では青年将校たちは軍備拡張ののろしを上げたとばかり思っていた。事実はその逆であった。

発端は陸軍省内で時の軍務局長永田陸軍少将が、省内に立ち寄った相沢中佐に切り殺されると云う不祥事件が起きた。永田少将は将来陸軍をしょって立つ人物として末は大臣か、大将かと云われた俊才であった。信州の諏訪中学の出身者である。

この相沢中佐の軍法会議で陸軍は二つに割れて賛否両論がはびこった。

これは陸軍の皇道派と統制派の争いでもあった。

立野の説によると日本は世界大恐慌で疲弊し更に東北地方を襲った飢饉で、農家では娘たちを身売りする人々があとを絶たなかった。この状態で満州事変が起こり兵士たちは姉が妹が身売りをしたという手紙におちおち戦も出来ず戦わずして逃げ帰る始末であった。高松宮の部下も妹が身売りしたという報告を受けて宮は金を出してそれを救ったと言う。しかし救われるものは少なく他は流れのままであった。

これを心配した青年将校たちは自分たちは志願して軍人になっちたのでよいが赤紙一枚で駆り出された兵士はどうになるのか。今の政治は疑獄事件、財界は汚職と堕落している。ひとまず軍拡を止め、我らが押す真崎甚三郎大将を首班にし内閣を建てなおさねばならぬと考えた。北一輝著の「国家改造原理大綱(後の日本改造法案大綱)をバイブルにして勉強会を開いた。

これらの青年将校は、秩父宮の部下も多く不穏な空気を察知した陸軍は秩父宮を弘前師団に転勤させてしまった。秩父宮の部下であった、安藤輝三大尉は中隊長で皇道派の代表的存在であったが、事件の首謀者中村孝次、磯辺浅一らのクーデター計画には乗らなかった。遂に2月26日の朝方青年将校らは決起した。安藤大尉は侍従長鈴木貫太郎大将の邸を襲い、制止を聞かずに部下が拳銃を発射し、倒れた侍従長に夫人が駆け寄っり軍刀で留めを刺そうとする安藤に、どうせ助からぬ命ならそれだけはやめてほしいと懇願し、安藤も思い留まり官職、姓名を名乗り遺骸に黙祷をして引き揚げた。侍従長は奇跡的に助かり、大東亜戦争を終結させた内閣の首班となった。

始め山下奉文少将、長大佐らは君たちの真意は分っていると賛成の意を示していたが、天皇が逆賊であるといってから成りを潜めてしまった。安藤大尉は最後まで徹底抗戦を唱えたが、部下を返し軍法会議で意見を述べると言っていたが、公判は非公開、弁護人もなく発言の機会もなく、支那事変の始まった年に代々木で銃殺刑に処せられた。落語家の柳家小さんも兵士として引っ張り出され、後満州に送られたと述懐していた。

立野によると秩父宮家から安藤大尉の遺品を見せて欲しいとの要請で、遺書をご覧に供すると宮家から丁寧に包装して返却されたと書いていた。

これで陸軍の皇統派は壊滅状態となり統制派の天下となり軍拡に走って行った。

叛乱は名古屋学生会館会館に寄贈してきた。

青年将校を陰で支えた人に齋藤瀏陸軍少将がいる。瀏も長野県出身で事件に連座して予備役となり、歌人齋藤史の父でもある。史の幼馴染は2.26事件に連座して処刑されていて、史はその人々の鎮魂の詩を沢山作っている。史は平成になって宮中の歌会始めの召しうどとなって参内し、「お父上は齋藤瀏さんでしたね。軍人で***」控えの間に戻って今上陛下から声をかけられ「はじめは軍人でおしまいはそうでなくなりおかしな男でございます」と答え天皇と初めて和解した。

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2010年3月14日 (日)

春が来た!

春が来た!F100000134

ここ二日ばかりのぽかぽか陽気に我が家にも春が来た。猫の額のような我が家のにはにも春がやってきた。「木蓮の花が今日は咲き始めた」

F100000234 昨日 まではつぼみのままであったのが、今朝は木蓮の花がほころびF100000212   てきた。

近所のこぶしの花は今が満開だ。直に作桜の花も咲くだろう。

春が来た。春が来た。

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2010年3月13日 (土)

サイパン

サイパン

私と中学同期の友に「サイパン」と云うあだ名の男がいた。彼はサイパン島から当時の金千円を持って単独で親戚の化学の先生を頼ってきた。

サイパンは第一次世界大戦に日本が参戦し、ドイツから委任統治としてまかされた日本領であった。日本の委任統治はマリアナ諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島、パラオ諸島などが含まれ、ただガム島だけは米国領であった。

「私のラバーさん酋長の娘、色は黒いが南洋じゃ美人、赤道直下マーシャル群島、踊れ踊れ踊らぬ奴に、誰がお嫁に行くものか」という歌がはやっていた。

南洋の測候所の所長として親父が転勤し、私の小学校に転校してきた男性がいた。彼は南洋育ちのせいか色が黒く丸顔のかわいい子で、彼の妹も色が黒かった。

後年同級会で彼の思い出話をしていた時、彼の父親は黒人であったと聞かされ色が黒かったことに納得した。

サイパンとは同級になったことはないが、部活は弓道部に属していて毎日顔を合わせていた。サイパン陥落の日彼は家族の安否を心配していたが、慰める言葉もなかった。しかも彼の頼って来た親戚の化学の教師も病気で亡くなってしまった。

後に彼から聞いた話では、戦後インフレで物価は上がり、金の価値が急激に下落してサイパンから持ってきた金も底をつき彼は学校をやめようと、教師たちに相談したところ教師たちは皆中学を修了するまではやめるなと云い、彼が闇で買って持ち運んできた米を各自の先生がこっそり買ってくれ、試験の前日には試験に出そうな問題を教えてくれたと云う。

戦後一時期中学の剣道場のガラス窓が破損されていていた。なぜかと疑問に思っていたがサイパンの友達の一人が一緒にガラス窓を盗んで街で売り、自分は僅か取って共犯になり、残りはすべてサイパンに譲り、お陰で助かったと漏らしていた。これも友情の変形というべきか。

サイパンは中学を修了して、自衛隊へ入隊し下士官になっていた。自衛隊では経理担当であった。「自衛隊の戦史でも米国の記録でも、我々の中学の先輩で硫黄島の最高司令長官栗林中将(戦死して大将に昇進)が玉砕した硫黄島の戦が日米両軍で最大の犠牲者が出ている」と云っていた。

しかも彼が心配していた家族は親父は亡くなったが、お袋と妹は無事であった。

下士官の定年は早く四十代で再就職の心配をしていたが、無理がたたったのか若死にしてしまった。

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2010年3月12日 (金)

命の儚さを知る

命の儚さ

学生時代名古屋の学生会館で寝起きしていた。当時学生会館は、お城の中の旧六連隊の兵舎の二棟を男子寮に一棟を女子寮として名古屋市内の学生たちの宿舎として使い、他の兵舎は名古屋大学の法学部と文学部が使っていた。お城の外の兵舎は、国立病院の病棟であった。

或る時一級下の同僚が、「明日海水浴に行かないか」と誘い男性ばかりでは面白くないとその男が、女子寮の昼間は名古屋市役所に勤め夜間の市立か県立短大の女子大生を誘ってきた。女子大生は「明日は市役所に勤める人々がバス旅行で乗鞍へ行くので股の機会に誘ってほしい」と断られてしまった。翌日は雨模様であったので我々の海水浴は中止した。

夕方街の食堂でテレビを見ていると、市役所のバス旅行で乗鞍へ向かったバスが転落して一名死亡したと云うニュースであった。その一名の死亡があの女子大生であった。

人の運命は分らぬもので我々がもっと強硬に誘ったら難をまぬかれたかも知れなかった。命の儚さを知った。

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2010年3月11日 (木)

松尾芭蕉と信濃の国

松尾芭蕉と信濃の国

松尾芭蕉と信濃の国は関係がないと思われているが、意外に関係がある。「おくの細道」で芭蕉のお供をした曾良は、国文で河合曾良と云いう信州人であると習ったが、本名を岩波と云い伊勢の武士だと知って納得した。岩波は諏訪地方に多い名前である。昔から「おくの細道」の通りには歩けないと云う事が定説になっていたが、昭和十八年曾良の日記が発見されてその疑問は解けた。曾良は克明に日記を書いていて、芭蕉は「おくの細道」で先の出来ごとを後にしたり、後の出来ごと先に編集したり、時には事実でないことを書き加えたりしていることが判明した。有名な「一つ家に遊女も寝たり萩の花」は事実でなく芭蕉の創作であることも分かった。

「おくの細道」は芭蕉の俳句を作る過程を表した文学であることが知らされた。

曾良は加賀まで芭蕉のお供をしたが、病で脱落したことになっているが、事実は芭蕉の路銀調達のため芭蕉より先に歩いて路銀を調達し後に託しているようである。

「おくの細道」で芭蕉が独り歩きしたのは、永平寺から福井までのせいぜい三里だと言う。あとはだれかお供が付き添っている。芭蕉が大垣に着いた時曾良は伊勢から遥々大垣まで芭蕉を迎えに来て伊勢までお供している。

また芭蕉が信濃の国を扱った文と俳句に「更科紀行」がある。「更科紀行」は「更科の里、おば(女偏に夷)捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風心吹きさわぎて***」と冒頭で述べ、芭蕉が江戸への帰路を木曽に取ったのは、中秋の名月をおば捨山で眺めたかったためで、名古屋を立ち中山道、北国街を経て軽井沢に至る紀行文で、有名な俳句を数多く詠んでいる。木曽では「送られつ送りつ果ては木曽の秋」「桟(かけはし)や、いのちをからむ、つたかずら」とか、おば捨山では田毎の月を眺めて「俤(おもかげ)や、うば(女偏に夷)ひとりなく、月の友」と詠み、「十六夜(いざよい)もまだ更科の群(こおり)かな」と詠っている。信濃の国では「木曽の桟かけしかけしをを、詩歌に詠みてぞ伝えたる」と歌いおば捨は山は「月の名に立つおば捨山、しるき名所と風雅士(みやびを)が詩歌(しいか)に詠みてぞ伝えたる」と歌われている。芭蕉は陰暦八月十五日(中秋の名月)から三日間おば捨山に滞在して夜毎月を愛でて、善光寺へ足を延ばし「月影や四門四宗も只一つ」と善光寺が宗派に属さない稀な寺であると詠んでいる。私が子供の頃善光寺から四五百メートル離れた城山の県社の草むらに、善光寺に向かってブロック塀の一ブロックより小さな芭蕉のり句碑がひっそりと立っていた。信濃の国では「松本、伊那、佐久、善光寺四つの平は肥沃(の地」と歌い、軽井沢では「吹き飛ばす、石はあさまの、野分哉(のわけかな)」と詠んで、信濃の国は「あさまは殊に活火山」と歌っている。

信濃の国で「旭将軍義仲も***」と歌っている悲運の武将木曽義仲が好きで、芭蕉の遺言通り大津の義仲寺の義仲の墓の横に芭蕉は眠さっている。弟子の一人が「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と詠っている。

話は変わるが芭蕉に俳句の手ほどきをしたのは俳人松永貞徳の弟子北村季吟であるが、信濃の国の作曲者はこの季吟から七代目の子孫北村季晴である。

これも何かの因縁か。

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2010年3月10日 (水)

年は取りたくないもの

年は取りたくないもの

三月四日の朝ゴミを捨てに出て玄関の前の僅か二三センチメートルの段差につまず いF10000028_2 F100000167_3 てよろよろけ若ければ形勢を立ち直すところだが、年をとるとままならずそのまま五メートルほど離れた共同のゴミ捨て場まで飛ばされそうになりあわてて前につんのめったが、無様にも右手はのばし左手は下げF1000003345_3 た形でうつぶせに倒れた。その時左足の膝小僧をすりむきささくれ立ったようになり、右手のくるぶしは強く打ちしばらく起き上がれなかった。たまたま通りがかりの男性に助けられて起き上がったが、しばし歩けずに立ちつくしてしまった。ようやくの思いで家に入ったが、その晩はあっちこっち痛みF10000041011_2 更に足の膝(ひざ)と右ひじが傷んでよく使えず、しかも腹部が傷んでおきあがるのに一苦労した。日が経つにつれて序序に回復し現在は何とP40300141617 か起き上がれるようになった。徒(いたずら)に馬齢(ばれい)年は取りたくないものである。足が弱くなったと三国志の玄徳(げんとく)ではないが、脾肉の嘆(ひにくのたん)を嘆いた次第である。

人だけでなく大木とても同じこと今日のニュースによれば昨夜の大風で鶴ヶ岡八幡宮の大銀杏の木が根元からひっくりくりかえり破壊されてしまったという。小学唱歌「鎌倉」に「上るや石のきざはしの、左に高い大銀杏(いちょう)、問はばや遠き世世のあと」と歌われ実朝が甥公暁に殺された銀杏の木としても有名な樹であった。

諸行無情と云うべきか。

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2010年3月 9日 (火)

五浦(いづら)と西山荘

五浦

五浦は岡倉天心が東京美術学校(現東京芸術大学)を追われて、橋本雅邦の門下生の四天王の三名横山大観・下村観山・菱田春草を引き連れて籠り、日本芸術院を立ち上げたことで有名である。以前国道六号線を走っていて海岸端に五浦の六角堂を  見て何時かは訪れて見たいと思っていた。P52900203_2P502000812_2   

この度念願がかなって五浦ホテルに泊まることが出来た。しかしこのホテルが出来たため国道沿いからは六角堂は見えず、現在は入場料の取る記念館になってい

P52900185_3 P422002312_2          ため着いた日は入れず翌日は出発時間は入館時間より  遅いので入館出来なかった。

そこでお土産用の包袋の絵を添えておいた。

西山荘

西山荘は水戸黄門こと徳川光圀の隠居所である。水戸黄門の講談、テレビでは黄門漫遊記を面白おかしく書いたり、演じているが黄門は生涯旅をしたのは水戸から江戸への出府と帰国の時だけである。漫遊記の元になったのは第日本史を編纂するに当たり家来を各地に送って調べさせたり、楠正成の功績をたたえるため神戸の湊川神社に「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」を建てたことによる。正成の墓は現在湊川神社の鳥居に向かって右側にある。

P529000813P529000714 P529000516_2 P529000318_2西山荘 P529000417 

は水戸三十五万石の隠居所としては質素である。光圀は晩年になって無礼打ちを している。これは講談でも語られているが、水戸より江戸に出府し能を舞うと称して脇役に家老藤井紋太夫を置き長らく待たせた直後無礼打ちにし家来に紋太夫の家から書簡を持ち帰らせ読まずに焼却してしまった。中を読めば家来が疑心暗鬼になるのを読まずに焼却し謀反を未然に防ぎ帰国した。

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2010年3月 8日 (月)

河津桜

河津桜

去年の今頃早咲きの河津桜を生まれて初めて見に行った。先日の房総でも鎌倉の近くでも河津桜は栽培されていることが分かった。

河津は曽我兄弟の父河津三郎祐康画が統治していたところで昼ヶ小島に島流しの源頼朝を慰めるため、相撲大会を開いて祐康が優勝し意気揚々と帰るところを親戚の工藤祐近の放った暴漢に弓で撃たれて死亡した。祖父の伊東祐近は難をまぬかれた。曽我兄弟は苦節十九年頼朝の末富士の裾野の巻狩りにお供した工藤祐近を夜陰にまぎれて遅い本会を遂げ兄十郎は切り時死にし弟五郎は捕えられて殺された。

工藤祐近の墓は白糸の滝の近くの丘の上にポツンと立っていた。工藤祐近のむ子孫は飫肥藩(おやびはん)の藩主となり明治には子爵となっている。

河津祐康の得意な技は河津掛けで相撲四十八手にある。

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君死に給うこと勿れ-与謝野晶子

君死に給うこと勿れ

「ああ弟よ君にな泣く、君死に給うこと勿れ、たとえ旅順は落ちるとも、落ちざるとても、なんのその、君死に給うこと勿れ」これは鳳(ほう)晶子(与謝野晶子)が雑誌「明星」の没頭に掲げた日露戦争で出征中の弟を歌った詩である。日露戦争の頃は軍の統制も厳しくなかったようである。この詩のあとに出てくるように鳳晶子は堺の老舗(しにせ)の菓子屋に生まれ東大在学中の長兄が送ってくれた雑誌、や新聞を読みふけったと言う。歌を作り始めたのは十八歳ごろからですぐ著しい進歩を見せ「明星」に同人として毎号投稿し、山川登美子とともにちゅうもくされるようになった。後に与謝野鉄幹に師事し二人とも鉄幹の虜になり勝利したのは晶子であった。

大学時代鳳誠三郎東大教授の「電気材料」を教科書に使い、講義をした助教授は電気回路で鳳-テブナンの定理があるが、この鳳は鳳秀太郎東大教授で与謝野晶子の兄で誠三郎はその息子で晶子の甥に当たると聞かされた。

晶子は鉄幹の妻を追い出して結婚したが、秀太郎は奥さんに同情して晶子との付き合いは断絶したと聞いている。

晶子は子福者で子供を背負ってどこへでも出かけたと伝えられている。

吉屋信子によれば鉄幹の詩を褒めると自分の晶子の詩を褒められたように喜んでいたと言う。晩年は明らかに鉄幹を追い抜いたようである。

鎌倉の大仏を歌った詩に「釈迦牟尼は、美男におわす、夏木立かな」があるが鎌倉の大仏は阿弥陀如来である。

現在自民党の代議士に与謝野馨がいるが彼は晶子の孫にあたる。

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2010年3月 7日 (日)

量(はか)り売り

量り売り

現在は見かけなくなったが昔は量り売りが多かっちた。量り売りを上げると限がないが酒、醤油、味噌、豆腐、野菜類、油、駄菓子等がそうである。豆腐や味噌は丼や鍋を持って行って買うか、豆腐売りが自転車で豆腐を売り歩き丼、鍋を持って買いに出ていた。味噌醤油は店やに一升瓶を持って買いに行くか、御用聞きが配達したが、一升瓶は持ち回りであった。

酒も一升瓶を持って店やに行って量り売りで買った。野菜類は農家の主婦がリヤカーに野菜を積んできてて売りさばき目方は小型の天秤量りではかり、風袋(量る時入れるかご)の重さを差し引いて勘定をした。そこにはつと(藁の包み)に入った納豆もあった。昔の納豆は自然発酵で藁のっとに煮豆(大豆)を入れて放置すると納豆菌が自然について納豆になった。

現在はプラスチックの入れ物に煮豆を入れて納豆菌を注入して人工で納豆を作るようになった。

駄菓子類も別な秤で風袋を引いて勘定をしていた。

油も量り売りであるが、菜種油、ごま油でも一斗缶の油を小型な升のひしゃくで油を量って持参の瓶にジョウゴを差し込み前期の柄杓を傾けて油が瓶に落ちるまで待った。この時は小母さんが学校の出来事や放課後のできごとを聞いて待っていた。主婦であれば世間話に花が咲いたのであろう。この待ち時間の事を「油を売る〕と云い遂にはさぼってだべることも「油を売る」と云うようになった。

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呼称の変遷-小母さんからお姉さんへ

呼称の変遷

たった五十年しか経っていないが、人への呼び方の変化は目まぐるしいものがある。

現在のおばさんたちは「小母さん」と呼ばれるのを嫌って年も考えずに「お姉さん」と呼ばせて悦にいっている。昔は目上の人に対しては名前で呼ぶのは失礼であると、わざわざ「小父さん、小母さん」と呼ばせ、その子よりちょっと上の人を「お兄さん、お姉さん」と呼ばせていた。

しかも父母の年上の兄弟を「伯父さん、伯母さん」と呼び父母の年下の兄弟を「叔父さん、叔母さん」と呼んで区別していた。

また今では妻女を総て「奥さん」とネコでも杓子(しゃくし)も呼ぶが、お袋ははっきり区別していた。「奥さん」は医者、弁護士、教師の妻女と月給取りの妻女だけで、商人の主人は旦那様、ご主人様、大将(たいしょう)で、その妻女はお上さん、御新造(ごしんぞう)さんたまには女将(おかみ)と呼び、農家の妻女はお上さんと区別して呼んでいた。

現在も変わらずに旅館や料亭の女主人を女将と呼んでいる。

私の姑は、名古屋弁で「おみゃ様(お前様)」と呼んでいたが、近世までは「お前様」は目上の人を呼ぶ敬称であったが、現在は「お前」は目下を呼ぶことになってしまった。また軍隊で日常使われた「貴様」も近世は目上の人を呼ぶ敬称であったが、現在はもっぱら目下を呼びつける言葉になり下がってしまった。

またやくざや水商売の女給、ホステスなどを「お姐さん」と呼ぶが戦後しばらくしてある若い女性が「お姐さん」と呼ばれたと言って怒って新聞に投書をしていた。

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2010年3月 6日 (土)

建長寺と円覚寺

建長寺

「建長・円覚古寺の、山門高く松風に、昔の音やこもるらん」は小学唱歌「鎌倉」の最後の歌詞である。建長寺は臨済宗で山号は巨福山と云い、北条時頼(最明寺)宋からの亡命僧蘭渓道隆を開山として創建し臨済宗の五山の第一位である。

Pa1600011Pa16000678_4Pa16000556_2Pa16000810  Pa16001214 最明寺時頼は小学国語読本にも載っていて

子供の頃執権の妻であり母から障子の張り替えに切り張りをして倹約の大切さ教わり、長じて執権になっても母の教えを守り或る晩酒が飲みたくなったと重臣を呼んで勝手から 一つまみの味噌を出しそれを魚に一献酌み交わしたという。北条時宗は、時宗は時頼の子である。また建長寺は「けんちん汁」でも有名である 

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円覚寺

円覚寺は山号を瑞鹿山と呼び北条時宗の開創、開山は宋の亡命僧無学祖元で鎌倉五山の第二位である。無学祖元は時宗を我が子のように育て来るべき元寇に備えさせた。

円覚寺はJR横須賀線の通路に当たり当時横須賀は鎮守府(ちんじゅふ)(軍港)が有ったため境内を横切って横須賀線が走っている。踏切を渡ると円覚寺の門がある。関東大震災の頃は門が藁屋根で、地震で門は崩れただ藁屋根だけが通路に落ちている写真を見た。 関東大震災の震源地は大磯で地震だけの被害が大きかったのは神奈    

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          川県横浜市、鎌倉市等であったという。また夏目漱石が円覚寺へこも   って修行したが遂に悟ることが出来ずに下山したことは漱石の小説「門」にもかかれている。  下図は漱石がこもった塔頭(たっちゅう)門である。

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民放のテレビ時代劇「水戸黄門」が主役、脇役が何度も変わっても続いているがもう一つ続いているものに「水戸黄門」のタイトルであるが当初から変わらぬものは元円覚寺住職「朝比奈宗源」の書である。                  

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2010年3月 5日 (金)

徳川吉宗と徳川宗春

徳川吉宗

運も実力のうちと云う言葉が有るが吉宗は強運の人であった。吉宗は紀州徳川藩主光貞の四男として生まれた。母は身分が低く四男であつたので一生部屋住みで終わ るのが通例であった。将軍綱吉が江戸の紀州藩邸を訪れた時家来の機転で長兄、次兄とともに吉宗も拝謁が許された。将軍に拝謁したものは大名に取り立てられる決まりに従って越前鯖江藩三万石を与えられた。しかし紀州藩の家督を継いだ長兄、次兄が相次いで没したため紀州の藩主になった。ところが将軍家宣、家継と立て続けに没し、御三家には吉宗以外の候補は早世し吉宗ガ八代将軍になった。吉宗は享保の改革で綱紀粛正(こうきしゅくせい)に努め、幕府の諸機構を改革し倹約、と年貢の徴収法を改革して幕府の財政を立て直し徳川中興の英主と呼ばれた。

吉宗は大岡忠相(ただすけ)伊勢町奉行から江戸南町奉行に抜擢し名奉行の名を高からしめた。また田沼意次の父は紀州藩の軽輩であったのを江戸につれて行き百石か二百石から最後は田沼意次は幕府の大老にまで抜擢している。しかし天明の浅間の大噴火とそれに伴う何年もの大飢饉のため失脚した。

徳川宗春

他方尾張藩主徳川宗春は将軍候補者の争いに敗れて憤死(ふんし)した徳川綱友のP50600101_4 P50600201112_2  P50600178_2  P50600167_3 弟で兄の意思を継いで吉宗の享保の改革を批判し、宗春は商業重視を説き、倹約にたいして華美、贅沢を推奨し、歌舞伎役者を尾張へ呼んで興業を開き、遊郭をつくり放漫政策即ち拡大政策に終始した。

名古屋が芸どころと云われるのはこの名残である。しかし放漫経済が長く続くはずがなく、吉宗は忍耐に忍耐を重ね、尾張の付け家老、家老を味方につけて、宗春を隠居,幽閉してしまった。

宗春が没すると墓は鎖で巻かれ七八十年解かれることはなかった。憎さも憎しである。墓に鎖に巻かれたのは将軍徳川家光と権力争いをし敗れた弟駿河大納言忠長(上州高崎に幽閉され切腹)の両名だけである。

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太宰治は人殺しだ!

太宰治

「太宰治は人殺しだ!」この言葉は以前元江ノ島の警官が文芸春秋に投稿していた。

太宰は本名津島修治と云い青森県の大地主の次男で、兄に対して劣等感を抱き小説の各所に劣等感を吐露している。太宰の父は代議士で、兄も確か代議士から青森県知事に転身し、太宰の甥か姪の婿は自民党の代議士で名を津島修二と言う。

本妻の娘津島治子は作家で、妾の娘も名は忘れたが作家である。

太宰の名を知ったのは、学生時代太宰が山崎富栄と玉川上水に入水してからで、「人間失格」「斜陽」「グッドバイ」「津軽」などをむさぶり読んだ。

太宰が今日のようにもてはやされる作家になったのは死んでからである。

太宰の命日を弔うようになったのも死後で、彼の小説「桜桃」と季節が「桜の実の熟する頃」のせいか「桜桃忌」として毎年三鷹市の菩提寺に若い女性たちが訪れているという。

さて太宰の心中事件は数多く昭和の初期銀座の貧しい女給と鎌倉で心中するが女性は死に太宰は助かった。次は昭和十年鎌倉で縊死(いし)を図るもまた失敗する。

この二件にっいて検視をした鎌倉の元警官は太宰は心中相手を見殺しにして自分だけ助かろうとしていたふしがある。と文芸心中で書いている。これらは父が代議士の力でもみ消したに違いない。次は妻と水上温泉で心中を図るが失敗し夫婦は離婚している。最後は玉川上水で成功?するが、元警官はこれも太宰は一人助かるつもりが失敗したのだと言っていた。

戦前太宰は芥川賞が欲しくて川端康成の家を襲い「なぜ俺に芥川賞を呉れないのか」と迫ったということは有名な話である。世間知らずのお坊ちゃんヤンチヤ坊主と言うことか。愛すべき一面もある。

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2010年3月 4日 (木)

高校むの授業料無償問題-取りやめるのも手

授業料無償問題

鳩山内閣は高校の授業料無償化は公約であるからと云って実施しようとしている。

内閣が第一番にやるべき問題とは思ないが***ここに思いがけない邪魔が入った。

朝鮮人学校への支給は拉致問題もあり、国民感情を逆かなですることになるので朝鮮人学校を除くと云うという世論もある。それに対し北線は「民族差別だ」「差別するなら国際問題だ」と意義を申し立てている。これは明らかに内政干渉だ。田中真紀子はまたシャシャリでて来た。

無償支給をするから政府間問題となるのだ。いっそ無償支給は取り止めとし、支給したければ、形を変えればれば問題は解決する。公約を順守でなく融通無碍(ゆうずうむげは親鸞に叱られるかな!)にすれば受給者側も納得し、政治問題にもならなくて済むのではなかろうか。

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2010年3月 3日 (水)

富嶽(富士山)

富嶽

「真白き富士の嶺(ね)、緑の江ノ島、仰ぎ見るも、今はなみだ、帰らぬ十二の、雄雄(おお)しきみ魂(たま)に、捧げまつる、胸と心」は逗子開成中学の生徒がボートで遭難して犠牲(ぎせい)になった十二名を弔う歌である。

鎌倉で最も富士が美しく見えるのは、稲村ヶ崎から江ノ島を眺める堂々たる富士山である。「七里ガ浜の磯伝い、稲村ケ崎名将の剣(つるぎ)投ぜし古戦場」と小学唱歌「鎌倉」で歌われているように稲村ケ崎は、新田義貞が鎌倉攻めに際して剣を海に投じて、引き潮に乗じて鎌倉に攻め込み勝利したところである。昔の武将は天候、気象にも通じていた様だ。

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初めて富士山を見たのは大学受験で上京した時、埼玉県川口市から眺めた富士山であつた。当時東京は焼けてめぼしいビルはなく焼け野原に富士山だけが立ちふさがるように立っていた。次は出張で上京する際新幹線の中から見た富士山である。現在でもテレビに時々映しだされている。しかしビルが建ってしまうと東京で富士見の名のつく場所でも富士山は見られなくなってしまった。

鎌倉では富士見の名のつく場所は秋から冬にかけて晴れた日には、三日と開けずに富士山が眺められる。

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神奈川県では湘南ばかりでなく城ヶ崎、立石、逗子からも綺麗な富士がながめられる 

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箱根の大観山から見た勇壮な富士は神々しい。また箱根の山から御殿場へのトンネルを抜けると辺り一面を睥睨(へいげい)する富士の威容を目の当たりにする。

     太宰治 は「富士には月見草がよく似合う〕と書いている。月見草はまたの名を待宵草(まつよいぐさ)ともいう。以前はどこの川原でも生えていたが現在は余り見かけなくなってしまった。

宵待草は竹久夢二の創作でそんな名の花はない。待宵草からヒントを得たに違いない。 富士五湖 の山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖 の湖ごしにに見P10900022_2 P1090001123 る富士の巍巍(ぎぎ)として聳(そびえ)P10900011 立つ様は一興である。

オウム事件の前に富士五湖をめぐりオウムで有名になった「上九一色村(かみくいしきむら)」から身延山を通って富士川を静岡に向かって車を走らせた時、何とも言えない陰気なバラック建ての工場に出会った。余りにも不気味であったので小さな看板を見ると「清流荘」と書かれていた。オウムの事件が発覚して、そこもオウムの解体工場であったことが分かったが、あの不気味さはあすこでも殺人があったのではないかと思えるほどであった。

F10000011 F10000022 以前は我が家から富士山は見えなかったがビルが解体、徹去され富士山が見えるようになって毎朝富士を拝めるかどうか楽しみしている。左図は我が家から眺めた富士である。

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2010年3月 2日 (火)

浅間の大噴火 日本版ポンペイ最後の日

天明の浅間の大噴火(田村意次失脚、フランス革命の火ぶた)

ポンペイ最後の日はベスビアス火山の噴火でポンペイと云う街が一夜にして壊滅状態になり現在も不毛の地となっている。

日本版ポンペイの群馬県鎌原村(かんばら村)(群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原地区)は村民と江戸幕府の役人の協力で復興し溶岩流で埋められた村の上に土をかぶせ田畑にして復旧させ今も農業を続けて田畑は青々としている。

昔軽井沢をめぐって鬼押し出しへ行き大きな溶岩のごろごろした山道を上って西武鉄道の堤康次郎会長が創建した観音堂へお参りして下ってきて浅間山の大噴火の記念博物館で、噴火の様子見て帰ったがこれほど歴史のある大事件とは知らなかった。

天明三年(1783)旧暦七月八日の昼四っ半ごろ今でいえば八月五日の午前十一時の出来事である。浅間山頂から噴出した灼熱の火砕流は巨大な熱泥流となって北山麓の村々を襲い死者行方不明二千名と云われる日本火災害史上未曾有の大惨事となった。当時幕府の直轄領であった鎌原村住民五百七十名中四百八十名弱が死亡した。

児玉幸多元学習院大学学長を中心に発屈調査が行われ現在の天皇が皇太子のころ陣中見舞いをしている。

旧鎌原村で僅かに残った観音堂と石段が十数段あったが、そこから下を掘り返すとそこに嫁が姑を背負っていたと思われる二体の遺骨が出てきた。あと僅か石段を上れば助かったのに力尽きて火砕流に飲み込まれたものと思われ、しかも付近には埋没した家屋が掘りだされ、当時の新聞をにぎわしていた。観音堂を参詣するとお茶の接待をする婦人が詰めていた。嬬恋村の無量院の「住職手記」によると浅間の最初の噴火は旧暦四月八日と云うから噴火は四カ月も続いていたことになる。

足の弱い老人たちは遠くへ逃げられぬと悟り近くの高台に逃げ助かったという。観音堂に逃げたのも足に自信のない年寄や婦女子であったらしい。

この大噴火の鳴動は「西は京都、大阪、北は佐渡ヶ島、蝦夷松前、東は八丈、三宅島」まで届いたという。天領鎌原村を直轄する代官所の役人は寡夫になった人と寡婦になった人とを結婚させ子を失った親には親を失った子を組み合わせて「家」を作り「亡くなった人は先祖と思って供養せよ。生き残った人々は、協力して村を盛りたてるように」約束させ、日本版ポンペイは復興して今日に到っている。

近郊の分限者、富豪たちの救援活動も目覚ましく幕府の公式救援が始まる何十日前から飯の炊き出しも続けられたという。

天明の浅間の大噴火は日本史上未曽有の大飢饉となり飢饉は前後七年も続いたという。これにより権勢を誇った田沼意次は失脚している。

私の同級生の兄であり先輩?の元NHKお天気博士は「天明の浅間の大噴火は日本の空を覆い七年もの大飢饉をもたらしたが、地球全体をも覆ってヨーロッパにも何年も大被害をもたらした」言っていたが話半分と聞き流していた。

普通火山の噴火で対流圏に噴出した火山灰は数日のうちに地上に落下するが、成層圏にまで放出された数ミクロンの微粒子は簡単に落下しないだけでなく、偏西風に乗って地球全体に拡散し数年にわたって続くという。浅間山の噴火のあと南フランスでは太陽が仰角十七度まで見えなかったとか、英国では仰角二十度まで赤銅色に見えたという記録が有り、イタリアでも太陽が霞んで直視出来たと言う。

特に高緯度の地方は太陽の放射が妨げられ北極海では氷山が発達し気温は下降し、英国は低温多雨の夏と厳冬が何年も続きフランスでも凶作が続き社会不安と政治の動揺が遂にフランス革命へと進んでいった。

これは「1781年以降の毎日の天気図、フランス革命にいたる十年間の詳細な分析」と云う題で英国人が発表したものだそうだ。

裏付けがあったんだ。驚き驚き。

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長野県は教育県であった!

長野県は教育県

小学校の教師が修学旅行の旅先で、高松宮とお会いして宮から「どこの県から」と尋ねられ「長野県」とお答えすると宮は「長野県は教育県だね」とおっしゃったといたく感激して話してくれた。

長野県が教育県と言われる訳の一つに小学校が義務教育となった明治初年に就学率第一位は筑摩県で第二位は長野県でいずれも現在の長野県である。

次は長野県ではせめて学校教育だけは***言う気風があった。そのため旧制高等学校、専門学校、大学の教授になる人は枚挙にいとまがなかった。

宮澤俊義東大法学部教授、吾妻一橋大教授、金子・吉江喬松早大文学部長、十代田早大理工学部長、中村早大政経部長、峰村慶応法学部長など多士才々で峰村教授は末広厳のあとを継いで中労委委員長もしている。

歌人でわ「アララギ派」の島木赤彦(小学校校長)、大田瑞穂、四賀光子、等がいる。

以前お袋が「大学の総長、学長のほとんどが長野県出身者で占められたことがある」

と言っていたがそんなことはと疑問視していたが、調べてみると誇長でないことがわかった。

沢柳政太郎東北、京都両帝大総長・大工原銀太郎九州帝大、同志社大総長・熊谷岱蔵東北帝大総長・長田新広島文理大学長・務台理作東京教育大学長・中島東京外語大学長・田中穂積早大総長・今村力三郎専修大学総長・原嘉道中央大学学長・横田秀雄明大学長・山岡万之助日大総長・児玉幸多学習院大学長波多野精一玉川大学長と一県でこのような総長、学長を輩出している県はないのではなかろうか。

長野県には明治前半に信濃教育会と云う教師の教育研究機関が設けられている。

また戦前岩波文庫が一番購入されたのも長野県あったと云われた。

教育者で現総理の曽祖母鳩山春子女史も長野県出身で共立女学校(現共立女子大)を創設した。

教育者ではないが王子製紙の社長で商工大臣をした藤原銀次郎は戦時中藤原工業大学を創設し、彼が出身の慶応大学に工学部がないので藤原工業大学を慶応に寄付し慶応の工学部にした。また藤原には子供がいないので戦後二三回慶応と共立女子大に高額の寄付をして新聞をにぎわしていた。

現在の長野県は外から見聞きすると決して教育県とは言い難く、過去の遺産にあぐらを書いているように思えるがいかに!

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早春の房総

早春の房総

日帰りバスツアーで房総の旅に参加した。珍しく早起きして人通りもまばらな街中を歩いてふと脇道を見ると真っ赤な太陽が昇るところであった。

F10000011212 F100000233 バスが出発し横浜ベイエリアに差し掛ると煙突、クレーンが林立し、煙突から吐き出す煙で辺りは霞んでいた。首都高を抜けて東京湾アクアラインでトンネルを突き進み、抜けるとそこは「海ほたる」であったが、トイレ休憩で時間がなくあわただしかった。急きょエスカレーターに飛乗って何階も駆け上り「海ほたる」へ出たが、携帯で写真を撮ってまたエスカレーターを駆け降りた。

バスは千葉県の中央の道路をひた走りに走り、ガイドさんの説明通り「海岸沿いの旅は変化が有って楽しいが中央は単調で眠くなる」と。

勝浦に着きメインエベントの雛祭りを鑑賞した。街あげての祭りでどこの店も殆ど雛人形を飾って行事に参加していた。あとはホテルでランチを取り、海産物店、カステラ工房、草花狩りと懐のひもを緩め、一路元来た道を岐路についた。

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