« 春が来た! | トップページ | 松下村塾は誰が作ったか? »

2010年3月15日 (月)

叛乱-2.26事件

叛乱

学生時代古本屋で朝日新聞の記者立野信行の叛乱を見つけ、2.26事件は聞いて知っていたが、真実については知らぬことばかりであったので買ってきてむさぼり読んだ。

それによると私の認識では青年将校たちは軍備拡張ののろしを上げたとばかり思っていた。事実はその逆であった。

発端は陸軍省内で時の軍務局長永田陸軍少将が、省内に立ち寄った相沢中佐に切り殺されると云う不祥事件が起きた。永田少将は将来陸軍をしょって立つ人物として末は大臣か、大将かと云われた俊才であった。信州の諏訪中学の出身者である。

この相沢中佐の軍法会議で陸軍は二つに割れて賛否両論がはびこった。

これは陸軍の皇道派と統制派の争いでもあった。

立野の説によると日本は世界大恐慌で疲弊し更に東北地方を襲った飢饉で、農家では娘たちを身売りする人々があとを絶たなかった。この状態で満州事変が起こり兵士たちは姉が妹が身売りをしたという手紙におちおち戦も出来ず戦わずして逃げ帰る始末であった。高松宮の部下も妹が身売りしたという報告を受けて宮は金を出してそれを救ったと言う。しかし救われるものは少なく他は流れのままであった。

これを心配した青年将校たちは自分たちは志願して軍人になっちたのでよいが赤紙一枚で駆り出された兵士はどうになるのか。今の政治は疑獄事件、財界は汚職と堕落している。ひとまず軍拡を止め、我らが押す真崎甚三郎大将を首班にし内閣を建てなおさねばならぬと考えた。北一輝著の「国家改造原理大綱(後の日本改造法案大綱)をバイブルにして勉強会を開いた。

これらの青年将校は、秩父宮の部下も多く不穏な空気を察知した陸軍は秩父宮を弘前師団に転勤させてしまった。秩父宮の部下であった、安藤輝三大尉は中隊長で皇道派の代表的存在であったが、事件の首謀者中村孝次、磯辺浅一らのクーデター計画には乗らなかった。遂に2月26日の朝方青年将校らは決起した。安藤大尉は侍従長鈴木貫太郎大将の邸を襲い、制止を聞かずに部下が拳銃を発射し、倒れた侍従長に夫人が駆け寄っり軍刀で留めを刺そうとする安藤に、どうせ助からぬ命ならそれだけはやめてほしいと懇願し、安藤も思い留まり官職、姓名を名乗り遺骸に黙祷をして引き揚げた。侍従長は奇跡的に助かり、大東亜戦争を終結させた内閣の首班となった。

始め山下奉文少将、長大佐らは君たちの真意は分っていると賛成の意を示していたが、天皇が逆賊であるといってから成りを潜めてしまった。安藤大尉は最後まで徹底抗戦を唱えたが、部下を返し軍法会議で意見を述べると言っていたが、公判は非公開、弁護人もなく発言の機会もなく、支那事変の始まった年に代々木で銃殺刑に処せられた。落語家の柳家小さんも兵士として引っ張り出され、後満州に送られたと述懐していた。

立野によると秩父宮家から安藤大尉の遺品を見せて欲しいとの要請で、遺書をご覧に供すると宮家から丁寧に包装して返却されたと書いていた。

これで陸軍の皇統派は壊滅状態となり統制派の天下となり軍拡に走って行った。

叛乱は名古屋学生会館会館に寄贈してきた。

青年将校を陰で支えた人に齋藤瀏陸軍少将がいる。瀏も長野県出身で事件に連座して予備役となり、歌人齋藤史の父でもある。史の幼馴染は2.26事件に連座して処刑されていて、史はその人々の鎮魂の詩を沢山作っている。史は平成になって宮中の歌会始めの召しうどとなって参内し、「お父上は齋藤瀏さんでしたね。軍人で***」控えの間に戻って今上陛下から声をかけられ「はじめは軍人でおしまいはそうでなくなりおかしな男でございます」と答え天皇と初めて和解した。

|

« 春が来た! | トップページ | 松下村塾は誰が作ったか? »

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1320966/33787243

この記事へのトラックバック一覧です: 叛乱-2.26事件:

« 春が来た! | トップページ | 松下村塾は誰が作ったか? »