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2010年2月 2日 (火)

徳川慶喜

徳川慶喜

徳川慶喜は水戸の徳川斉昭と有栖川の宮の姫君の実子であり、エリート中のエリートであった。将来を嘱望され御三卿の一つ一ツ橋家に養子に入っている。十四代将軍を紀州徳川慶福と争ったが、大老井伊直弼の裁断で将軍に付けなかった。このときは各大名からも推薦されたが、斉昭が大奥で嫌われていたからともいわれている。

大政奉還後逆賊として蟄居し、静岡で悠々自適、趣味の人として生活をしている。

明治も中ごろになって明治天皇に召されて宮中へ参内して、明治天皇、昭憲皇太后から懇切丁寧な接待を受けた。明治天皇はあとで借りを返した。と云われたという。その後慶喜は公爵に叙せられ、高松宮喜久子妃殿下は慶喜の孫で、秩父宮勢津子妃殿下は松平容保の子孫で後に参議院議長になった松平恒雄の子女であり、三笠宮百合子妃殿下は、旧幕臣の子孫高木子爵から嫁いでいる。

また高松宮家は、有栖川宮家の祭司も行っていた。

徳川慶喜は孫の喜久子姫が高松宮家に嫁ぐことを大変喜んだという。

皇室も徳川家の処遇には配慮したものと思う、

徳川慶喜の援助をしたのは、実業家渋沢栄一で従兄弟は上野の彰義隊に参加して戦死し渋沢栄一は後に「徳川慶喜傳」を書いている。

慶喜の側室には新門辰後郎の妹や新村姓の女性もいたが、彼女は広辞苑の作者新村出を援助し、後に新村出を養子にしている。

終戦後陸軍幼年学校の英語の教師で、我々の中学の英語の教師になった先生が以前は徳川慶喜は優柔不断な男と思っていたが、国が敗れた今は、敗軍の将はあのようにふるまうしか方法がなかったと悟った。と語っていた。

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