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2010年2月 2日 (火)

清水の次郎長

清水の次郎長

清水の次郎長は、江戸時代から大親分と思っている人が多いが、次郎長が大親分になったのは、明治になってからである。明治になって次郎長一家に一宿一般の恩義にを受けた天田愚庵が「東海遊侠傳(清水の次郎長傳)」を書き、講談や映画が次郎長を大親分として囃したてた。

次郎長は江戸時代はただの博打うちの侠客にすぎなかった。幕末鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜は敵前逃亡して、大阪から船で江戸に逃げ帰ったが、清水の沖合で慶喜に従った家のかの軍艦咸臨丸が嵐に合い座礁し官軍の大砲の攻撃で軍艦は官軍に没収され、乗組員は切りころされて、死骸が海に充満した。しかし官軍を恐れた民衆はそのまま放置していた。次郎長は「死んでしまえぱ゛みな仏だ」と清水の小高い丘の中腹に建つ清見寺にねんごろに葬った。清見寺は豊臣秀吉が小田原征伐の時一時逗留した名刹で私も以前参観したことがあるがそのようないきさつは知らなかった。

現在清見寺の境内には、戦死者を弔う榎本武揚の顕彰碑がある。静岡に赴任した山岡鉄舟はこれを聞いて、次郎長を見どころのある男だと可愛がり、折に触れて次郎長を教育した。

明治になり次郎長は富士の裾野の開墾をして、子分たちには喧嘩はするなと戒めたという。さらに次郎長は船問屋や英語塾をも経営した。

山岡鉄舟が亡くなると、鉄道のない時代で次郎長は清水から東京へ歩いて上京し、鉄舟の葬儀に参列している。

山岡鉄舟は、自分で建立した谷中の全生庵に葬られている。全生庵には落語の中興の祖三遊亭円朝の墓もある。

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