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2010年2月18日 (木)

足尾鉱毒事件と関係した人々

足尾鉱毒事件と関係した人々

足尾鉱毒事件は、江戸時代から資源を掘りつくし廃坑になろうとする足尾銅山を時の政府から払い下げを受けた、古川市兵衛が鉱脈を掘り当て古川銅山として銅を採掘しその鉱毒(現在の公害)を渡瀬川から近隣にまき散らし、農作物に被害を与え、漁業にも打撃を与えた。怒った村人たちが一揆をおこし、それを鎮圧するため軍隊が出動して鎮圧した事件である。

渡瀬川は広辞苑によると、利根川の支流で足尾山塊にたんを発し、栃木、群馬、茨城、の県界を流れ、埼玉で利根川に注ぐとある。

足尾鉱毒事件では、田中正造を第一に挙げねばならぬ。彼は栃木選出の代議士で生涯鉱毒事件を世に訴えて議会に臨席の明治天皇に鉱毒事件の直訴をしている。

一方軍隊の出動を要請して一揆を鎮圧した時の県令(県知事)は鬼県令と云われ、山形、福島、栃木県令、警視総監を歴任した内務官僚で自由民権運を弾圧し、後に子爵となっている。

徳富蘆花の小説「不如帰(ホトトギス)」は武夫と浪子の悲恋物語で、海軍大尉川島武夫と片岡陸軍中将の娘浪子が結婚するも浪子が結核にかかり離婚となり「もう女には生まれたくない」と云って亡くなったことを知った蘆花が小説に表した。

武夫は三島通陽の息子で、浪子の継母は大山捨松こと山川捨松と云い岩倉使節団と渡米した津田梅子(津田英学塾の創設者)ともに留学した会津藩士の子である。兄弟には陸軍中将と東大、京大、九大の総長を歴任した山川健次郎がいる。

作家の吉屋信子は、「父は足尾一体の群長で、足尾事件では東奔西走して席の温まる暇もなく、弟が死んだ時も靴を脱ぐ暇も惜しんで弟の死に顔を見て直ぐ外出していった」

また「当時の足尾銅山の理事長は、作家の舟橋聖一の祖父で、舟橋は祖母に溺愛されていた」と。

後年群馬県側から日光へ向かった時、足尾銅山跡を通ったが、山は植林されているが緑が少なく廃坑は見学者に開放されていた。しかし廃坑を見学せず記念館だけ見たが、古川の二代目は剃刀大臣の異名のある陸奥宗光外相の子供であった。

古川も三井、岩崎、住友、大倉、藤田財閥と同じように金で買った男爵である。

しかし理研(理化研究所、カメラ、コピー機のリコー等)の総帥大河内正敏子爵は違って先祖は智慧伊豆と云われた松平信綱で正敏は現代の智慧伊豆と云われ核、サイクロトロンの研究者仁科芳男、湯川秀樹、朝永振一郎、など頭脳集団を育成した。

大河内正敏の孫娘は女優の河内桃子で正敏は桃子をかわいがったと伝えられている。河内は大河内から大を除いた命名である。

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コメント

捨松の実家、山川家は、会津の出だと思い込んでいたのですが、元々のご先祖は高遠の家臣なのだそうですね。

明治時代、中央だけでなく、在野の田中正造など人材が豊富だったのは、幕末までの教育基盤が現代とは異なっていたからではないのでしょうか。

投稿: パイエット | 2010年2月19日 (金) 08時20分

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