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2010年2月 7日 (日)

信州の鎌倉塩田の郷

信州の鎌倉塩田の郷

別所温泉の在る塩田の郷は信州の鎌倉と呼ばれ、鎌倉ゆかりの寺が多い。別所をP925000661_9 吸収した上田市は鎌倉市と姉妹都市を結んでいる。

長野県の国宝第一号の八角三重塔のある安楽寺の開祖は樵谷惟仙和尚で宋から帰国した留学僧である。

以前鎌倉国宝館で樵谷惟仙和尚の展示会を見た時、国宝館の館長はやっと惟仙和尚の像を迎える事ができた。

先代の住職から「おれの眼の黒いうちは貸せない」と云われていが「代が変わって実現できた」と云っていた。

惟仙和尚は、鎌倉建長寺の開祖蘭渓道隆の来日と同じ船に乗り合わせ、日本でも建長寺を訪ねたり手紙の交換もしている。と説明していた。また上田市と鎌倉市が姉妹都市を結ぶ時も鎌倉市長から「何の縁もゆかりもない上田市と姉妹都市を結ぶのか」と云う質問に両市の深い関係を説明し納得してもらったと話していた。

塩田の庄は鎌倉幕府の執権極楽寺北条重時が信濃の守護となり塩田の庄に代官を差し向けた事にはじまる。。その後重時の子北条義政が塩田の庄の祖となった。NHKの大河ドラマ北条時宗で俳優伊藤四朗の役が義政で執権時宗の連署として執権を補佐していたが、途中で「疲れたから国へ帰る」と云う場面があるがこれは塩田の庄へ帰ると云うむことである。

P925000778_2 塩田北条は義政の子国時、孫俊時と三代続いた。北条高時が元弘の乱で新田義貞に攻められたとき、塩田二代国時、三代俊時親子は「すわ鎌倉」と鎌倉に駆けつけ高時が自害する時親子ともども自害して果てた。その模様は太平記に塩田親子の最後として書かれている。

塩田の前山寺に国宝三重塔があるが、これは未完の塔として各階に手すりがない。これはお天P92500077834気博士の倉島厚によればすわ鎌倉で当主が出陣し自害したので工事が中止されたままになったためと説明していた。右の写真は未完の様子を示している。

私が小学生のころ同級生の北条と云う女生徒が「家紋は三つ鱗で北条㋨子孫だ」と云っていたが鎌倉の北条と何の関係があるのかと疑ったが、後年になって塩田北条は近くて、家紋は三つ鱗であるので納得した。

常楽寺は北向き観音と呼ばれ善光寺詣でのP92500043_6 帰りには北向き観音にも参詣するようにと言われていた。常楽寺には塩田二代北条国時の自像が安置されている。右の写真は常楽寺の境内にある高い楼台である。

境内の愛染堂の隣に立つかつらの木は川口松太郎の小説「愛染かつら」のモデルになった。P925000545_3

上田市と鎌倉市 に縁のある人物に作家の久米正雄がいる。久米正雄は鎌倉文壇の大御所として活躍し、鎌倉カーニバルを立案して初代審査委員長を務めた。

久米正雄の父親は幕府の旗本で明治になって乞われて上田の小学校の校長をしていたが、たまたま失火で御眞影(明治天皇の写真)を焼き責任を取って自殺した。久米の小説「学生時代」では父親の葬式の日参列した老人に「坊やお父さんのような偉い人になるんだよ」と頭をなでられたと書いている。

また川端康成も信濃教育会(長野県の教師の教育学会)の学会誌 の第一面 は久米正雄の父親の自殺が書かれていると。

父親の死後久米正雄は福島の母親の実家へ帰り安積中学一高東大を出て作家となり親友芥川らと夏目漱石の門弟となった。久米が漱石の娘を松岡譲と争い敗れて失恋した事件は有名で久米はこの失恋を小説に書いている。またある時昭和天皇が久米の絵を見て「久米さんの絵か」と云われたと、新聞記事になっている。

上田市には先ほどの国宝三重塔のほかに大法寺の国宝三重塔別名見返りの塔と国分寺の国宝三重塔がある。

 

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