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2010年2月 4日 (木)

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、三傑と言われ信長、秀吉は尾張の出身で家康は三河の出身であるがいずれも今の愛知県の出である。名古屋祭りでは三傑の行列もでる。

織田信長

織田信長は三傑の中では一番人気があるが、戦前は残虐な人物として最も嫌われていた。しかし新井白石の「折りたく柴の記」では信長は中世に別れをつげ近世を迎えた人物として褒めている。信長の残虐の例として比叡山の焼き討ち、最後のころの明智光秀に対するいじめ、家来も役に立つ時は利用し役に立たなくなるとポイ捨てにしてしまいそれは重臣たちへも同様であった。荒木村重の謀反の時も光秀、秀吉が翻意させようとするが、村重は「信長は一度そむいた人は絶対に許さない」と翻意をことはっている。安国寺恵けいも「信長はたか転びにころげおちる」といっている。

信長の弟長益は有楽斉いう茶人で、秀吉に仕え大阪城落城後は京都で暮らした。東京の有楽町は有楽斉から取ったという説と違うという説があって真偽のほどは分らない。明治になって子爵に叙せられ、また信長の三男信雄の子孫二家もそれぞれ子爵となって続いていた。

豊臣秀吉

豊臣秀吉は、尾張中村の水飲み百姓の出で持ち前の明るさと如才なさと仕事に熱心姿勢から皆に可愛がられ、上役もまさか自分より出世しないと思っていたが上司の柴田勝家、丹羽長秀を追い越して天下取りになってしまった

天下を取ってから源頼朝の木像に向かって家来のいない身から天下を取ったのは君と私だと云ったという。しかし頼朝は源氏の嫡流で腐っても鯛である。

戦前最も人気のあったのは秀吉で、戦後でも吉川英治の私本太平記を読んだ人が太平記で面白いのは秀吉が天下を取るまでだと言っていた。

秀吉は女性にも手が早く側室は皆昔は自分より身分の高い女性であった。また男性にも手が早く他人の家来でも籠絡して自分の家来に鞍替えさせていた。石川数正もその一人で家康の家来から秀吉の家来にとてしまった。

徳川家康

戦前はタヌキ親父と呼ばれづる賢いのを嫌われていた。

家康は秀吉と異なり妾は他人の後家さんか他人の持ち物で本妻で苦労した現れと言われている。

関ヶ原の戦いは東軍の徳川家康と西軍の石田三成との戦いと思っている人が多いが実は秀吉の子飼いの武人派と西軍の三成ら文人派の内輪もめで家康はそれに乗って漁夫の利を得たのである。しかも秀吉の正妻北の政所を味方に抱き込み秀吉の子飼いの大名を東軍につけたり北の政所の親戚のものたちを寝返らせている。

明治になって陸軍参謀本部に派遣されたドイツの将校は関ヶ原の布陣をみて西軍の勝ちといったという。謀反が起きるとは想像できなかったためである。

豊臣家を滅ぼすために大阪城を守っていた片桐勝元に難題を吹きかけ、淀君の使者にはうまいことを言ってたぶらかし淀君を疑心暗鬼にさせ片桐勝元を大阪城から追放させてから大阪冬の陣を起こした。

大阪冬の陣で形勢が不利になるとすぐ和睦をし、和睦の条件である大阪城の外堀を埋める約束を破って内堀まで埋めて大阪城を丸裸にして大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼしてしまった。

豊臣家滅亡の後家康は秀吉憎しで秀吉の墓を暴いて跡形もなくしている。

明治に幕府がなくなり秀吉の親戚や恩顧の大名の子孫が京都に豊国神社建てており日光東照宮や久能山東照宮の祭神は勿論家康であるが薩長の明治政府への配慮か秀吉も祭っている。呉越同舟と言ったところか。

徳川本家は慶喜の後を継いだ家達は公爵で、慶喜も後に許されて公爵になり、水戸徳川は公爵、紀州、尾張徳川はそれぞれ侯爵で、御三卿の一つ橋、田安、清水家はそれぞれ伯爵その他松平一族も叙勲され繁栄した。

 

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