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2010年2月 7日 (日)

勝海舟と山岡撤舟

勝海舟

海舟という号は海舟の妹婿で師匠の佐久間象山が勝海舟に送った「海舟書屋」からとったものである。海舟の曾祖父は越後から江戸に出て来て後に男谷検校になった。男谷検校は旗本男谷家から御家人の株を買い海舟の父小吉に与えたもので従兄弟の男谷精一郎は三千五百石の旗本で剣術指南をしていた。海舟は従兄弟から剣術を習った。

広辞苑によれば御家人は江戸時代将軍直轄の家臣でお目見え以下の者とある

御家人株は、江戸時代、御家人がその家格を農民・商人などに売った場合(表向きは養子縁組の形式)の家格とある。

海舟のほら吹きは父親譲りで父小吉は「親子鷹」で面白可笑しくほらを吹いている。

海舟のほら吹きはブログ「清水の次郎長の中で咸臨丸の太平洋横断の中でも述べたがもう一件は歴史の本で知られている江戸城を兵火から救ったことも話半分でやや真実と異なっている。

このことは下記の山岡鉄舟で述べる。

海舟の著書「氷川清談」は西郷隆盛と大久保利通を比較して、西郷は鐘のように大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響くと。

西郷は江戸城明け渡しで、「よか頼む」言って戊辰戦争に出陣していった。信用すれば総て任せてしまう度量の人物だ」

それに対して大久保は、「あれはしてはいけない、これをしろとこと細かく指図してその通りすれば万事解決する」と。

山岡鉄舟

山岡鉄舟は、小野朝衛門の子として江戸に生まれ、無刀流の創始者で蝉の修行し、学問にも励んだ。鉄舟は山岡静山の弟子で静山と三舟の一人高橋泥舟の妹を迎えて山岡家の養子となり山岡鉄舟を名のった。

鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は上野寛永寺に謹慎していることを、官軍に伝えたいと義兄高橋泥舟に相談し、山岡鉄舟が推薦された。

鉄舟は初対面の海舟を訪ね、勝は相良総三らと火付け盗賊を働いて幕府に捕らえられていた薩摩藩士益満休之助を案内役として鉄舟に同行さ西郷への紹介状を持たせた。鉄舟と益満休之助と二人は馬に乗り、人切り半次郎こと後の陸軍中将桐野利秋らの先鋒隊に「朝敵徳川慶喜の家来山岡鉄舟駿府の大総督府へまかり通る」と決死の覚悟で通り抜け西郷と会談し、江戸を兵火からまぬかれる等の約束を交わした。しかし西郷は、慶喜の助命は反対を唱えた。その時鉄舟は「西郷さん立場を変えて島津さんがこの立場に立ったらどうするかを問い遂に慶喜の助命を確約させた。

NHKテレビ「篤姫」では江戸の平和な明け渡しは篤姫の功としているが、鉄舟、和宮(静寛院宮)、篤姫らの陳情の功が実ったものと考える。鉄舟はこの交渉の結果を海舟にも報告をしている。西郷と勝の江戸薩摩藩屋敷の会見はすでに下ごしらえが済みただと調印式と考えている。

勝はその手柄を総て自分のものとして吹聴し世の中に定着してしまった。

事実新政府が自分の功績を書けと言った時、鉄舟は自分のことは他人が功績として申告しているので自分は何もしていないと書いたと語っている。

しかし明治政府も鉄舟の功績は無視できなく明治天皇の侍従にした。鉄舟は侍従としても懸命に励み宮中の火事の時寝巻のまま駆けつけそれを笑った人々を一大事の時に着物を着替える時間も惜しいと言ったとか。

また明治天皇と侍従たちが相撲をした時侍従たちが勝ちを譲った時これではいけないと天皇を土俵の外に放り投げたという逸話も残っている。

山岡鉄舟は、小野朝右衛門の五男と無意識に読んでいたが、小野朝右衛門は代代人切り朝右衛門とよばれ将軍直轄の試し切りの家である。道理で鉄舟は剣の達人である。

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