« 合羽、歌留多、天麩羅 | トップページ | 農業大国日本 »

2010年2月 5日 (金)

石田三成と本田正信、正純親子

石田三成と本多正信、正純親子

石田三成と本多正信、正純親子は同じ運命をたどったような気がして仕方がない。石田三成は、豊臣秀吉の側近として、図らずも次の徳川幕府の大目付のような役を与えられ、加藤清正、福島正則ら武断派の朝鮮征伐での行状を秀吉にちくいち報告した。三成は几帳面でありのままを秀吉に報告し、武断派の人々から秀吉に讒言したと嫌われ、後盾の秀吉亡き後に関ヶ原の合戦で武断派に滅ぼされてしまった。

本多正純信、正純親子も徳川家康の目付、大目付のような役を与えられ講談で有名な大久保彦左衛門に本家の大久保忠隣を失脚させたと嫌われ、正純は二代将軍にも家康に悪い報告をしたと疑われ、家康亡き後に宇都宮のつり天井事件をしかけたという有らぬ嫌いで、失脚し改易となった。

梶原景時も源平の合戦において、源義経の行状を源頼朝に讒言したと嫌われ、更に鎌倉幕府のご家人たちからも疎んぜられ、後ろ盾の頼朝が死ぬと謀反の嫌疑で滅ぼされてしまった。いずれも主君が生きている時は働かせられ主君が死ぬと失脚したり滅亡している。

これは役目上のことをとがめらた例である。

石田三成

石田三成は、小人物でとあると伝えられているが、それは勝者の歴史のせいだ。中国では正史は、五十年たって編纂されると聞いている。理由は公平な歴史が編纂出来るからだと云うことである。しかし五十年では正しい歴史判断は出来ない。数十年経った今でも日本の大東亜戦争の評価は誤りがある。その昔中曽根首相が日本の評価は、後の歴史に任せると言っていた。

石田三成は、見方を変えれば豊臣家最大の忠臣である。しかも加藤清正、福島正則ら武断派よりも先見の明があったことになる。ただ惜しむらくは関ヶ原の合戦で裏切り者を出して敗戦したことである。

石田三成には、家臣の島左近に三成の知行の半分を与えて召抱えている。関ヶ原の合戦の後捕えられた時水を所望し柿を与えると「柿は体を冷すから」と断り捕縛した人たちはすぐ処刑になるのに体が冷えるもないのにと笑われ、三成は「将は最後の最後まで反撃に努めるもの」と言ったと云う逸話を残している。

本多正信

本多正信は家康の家臣であるが三河一揆では家康に叛き一揆側となった。しかし家康が出陣すると常に戦わずに逃げたと言われている。

後帰参が許され家康の側近になった。

加藤、福島らが三成追い三成が家康に助けを求めた時、三成を救ったのは正信の進言で三成を生かしておけば秀吉恩顧の諸大名が家康方に味方するという読みからだと伝えられている。

種々の功績により加増の沙汰があった時正信は同志の羨望の的になると固辞していた。

本多正純

加増を固辞した正信と異なり正純は加増を受け宇都宮にお国変したが、元の宇都宮城主の奥方で将軍と縁戚の讒言や将軍秀忠の勘気にふれお家断絶となってしまった。

|

« 合羽、歌留多、天麩羅 | トップページ | 農業大国日本 »

歴史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1320966/33265773

この記事へのトラックバック一覧です: 石田三成と本田正信、正純親子:

« 合羽、歌留多、天麩羅 | トップページ | 農業大国日本 »