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2010年2月

2010年2月25日 (木)

信州人は歌が下手だ!

信州人は歌が下手だ!

これは民放の歌番組で審査員のサトウ・ハチロー、笠置シヅ子、神津善行が異口同音に「信州人は歌が下手だ!しいて上手なのは市丸姐さんぐらいなものだ」と。神津は家の本家は音楽の勉強に留学したけれど***」と云っていた。しかし信州人で音楽に関係した人は多い。

伊澤修二は東大の前身の大学南校を出て、国費留学で米国に渡り不得意な音楽を免除すると言われたが「不得意だからこそ音楽を学んで帰りたい」と音楽をマスターして母国に帰り、恩師メーソン女史を招へいして文部省唱歌の編纂や「紀元節」「すめらみくに」「み国の守り」を作曲し音楽学校(現東京芸術大学音楽部)を創立して校長になった。現在も東京芸術大学音楽部の校庭に彼の銅像が立っている。また神津の本家神津専三郎も米国へ留学後伊澤のあと追って音楽学校の校長になった。

余談になるが伊澤と金子堅太郎は米国留学中、話を発明して間もないベルを研究所を訪ね初めて電話で話した外国語は日本語だったと言われている。

また伊澤は後に音楽はどもりの矯正に役立つとどもりの教育している。子供のころ善光寺の仁王門の空き地で夜どもりが「私は元どもりでありましたー。去る二十七日どもりが直りましたー」と発表会をしているのを見かけた。

飯沢の弟は飯沢多喜男と云う内務官僚でその息子が作家の伊沢匡である。

音楽学校教授の草川信は童謡「夕焼け小焼け」「揺り籠のうた」を作曲し、中山晋平は流行歌一号の「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「船頭小唄」「さすらいの唄」「雨降りお月さん」童謡「てるてる坊主」「背くらべ」「あの町この町」{田植」「証誠寺」「砂山」「波浮の港」「鉾をおさめて」新民謡の「東京音頭」「十日町小唄」「飯坂小唄」と上げれば限がない。

高野辰之日本歌謡史大系で文学博士となり文部省唱歌の編纂員として「故郷」「朧月夜」「紅葉」「春の小川」の作詞をした。「春の小川」は田舎の小川と勘違いしている人が多いが、実は現在渋谷の繁華街の地下を流れる渋谷川で、作詞当時は田んぼの中にぽつんと建つ一軒の水車小屋だけのひなびた場所であった。

小口太郎は三高ヨット部の「琵琶湖周航の歌」を作詞はしている。

信州人は歌は下手かもしれないが多士さいさいである。

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2010年2月23日 (火)

白内障と保険

白内障

昨日左眼の白内障を手術して一泊で退院して帰った。

右眼は数年前目に虫が二三羽飛んで来たので病院の眼科で二か月くらい待ってから前日に入院し翌日手術をしてその明くる日に退院した。当時は手術で失明するかもしれないと説かれ失明におびえながらおっかなびっくり手術を受けた。そのため手術について殆ど覚えていない。ただ「目は近くが見える方がよいか遠くを見える方がよいか」と聞かれ「近くを見える方」と答えた。そのせいかこの年になってもメガネをかけなくても新聞も本も読める。目は乱視が有るため長距離の運転ではメガネをかけるが近くの外出にはサングラスで代用している。

左目の裸眼がよく見えるため不自由はしなかった。しかしここえ来て左目がかすむようになって眼科にかかり即日一週間弱後に空きがあるから入院手術に決定し、当日入院手術翌日退院となった。

日帰り手術クリニックもあるようだが、或る女性が幾ら名医と云っても即日手術でもう通院しなくてもよいと言われ経過も見てもらえず心配でここえ来たと言っていた。どの過ぎた医者だ。患者の心無視している。

数年の歳月は入院も一泊ヘリ手術も落ち着いて観察できた。先ず病室から車椅子で手術室前で前の患者と交代に手術室へ入り手術台に横たわり血圧計、心電図を装着し手術台を上げ準備て眼鏡の位置合わせをして準備OK。

次に眉、目の周りを三回消毒しその間眼球は水洗いする。目の前に布をかぶせ手術する左眼の布は孔があいていて布を捲ると目が見え手術を開始する。眼鏡は眩しいがそのうちに目がかすんでくる。急に眼鏡の明かりがはっきりしたと思ったら眼球を入れて手術が終わったと知らされ眼帯を付けて手術台を下ろし血圧計、心電図を外し,台から降りて車椅子で部屋に運ばれる。

翌日眼帯がとれて目薬をを点眼され家での投薬、点眼の注意を受けて退院。

左眼はやや遠くを見えるようお願いしたので遠近両方見えるようえるようになるだろう。

医学も進歩したものだ。恩恵にあずかって感謝感謝。

保険

保険は嫌いでちょっとした保険に入っていたが、満期となり「しばらくして「ガン」保険に入ったが「ガン」になりそうもなくただの生命保険に切り替えた。

その時の書類審査で高血圧は投薬中。(138から84位)

糖尿病の気が有って食事療法中と正しく申請し許可になり毎月銀行から差し引きになった。

その後白内障の手術をした右眼が眼底出血でレーザー治療をうけた。眼科の先生が親切にこれも保険がきくから申請してはと云われスケベ根性を起こし申請したところ糖尿病による白内障で眼底出血と云う診断で内科の医者は当時糖尿病とは診断せず薬の投与もないのに眼科の医者が糖尿病による***と云う理由で支払い停止と通告してきた。保険会社も入る時はよしよしで料金を取り支払は難癖を付けて中止と。

その後も同じ保険会社から何度も何度も勧誘があるが無回答である。

この年になると高額な保険料を取払うよりその分預金して健康保険を使って差額を支払う方が安上がりと悟った。

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鳩山内閣に苦言を呈す

鳩山内閣に苦言を***

新聞の投書欄に未だかって投稿したこともないが、ブログにはまってしまいあえて鳩山内閣に苦言を呈す。

鳩山内閣には今までの内閣で感じたことのないもどかしさを感じる。それは毒にも薬にもならない「夫婦別姓」「外国人の参政権」「子供手当」「高校の無償化」等々***地方の政治に任せてもよいような事にまでたちいてる。ひとかどの仕事をしているように振舞っている。財政の垂れ流しが目立つ。しかも完全実施は後回しとこれではから手形ではないか。内閣が来年まで持つのか。次の参議院選挙の下準備か。

内閣が解散すれば跡は野となれ山となれでは***。

短期的に解決できる問題だから取り上げるのか。あまりに近視眼的ではないか。

今すぐ解決すべき問題ではなく最大課題は「普天間基地を早期解決して日米問題の改善」「景気刺激策」「失業者対策」「少子高齢化の解決」「農家の過疎対策」等数え上げれば限がなく使命は重大である。

しかも一丁一石には解決する問題ではない。これを解決するのが政治家と云うものである。どうでもよいことに血道を上げて本末転倒と云うべきか、ピンとはずれな政策だ。

これでは不評を買って退陣した麻生内閣の方が具体的な政策をして本道を行っていた。

麻生さんは字を読み間違えると悪評を叩かれたが、自民党時代は「普天間問題は解決」「日米関係は良好」で不況の声で直ぐ「景気刺激策」を次々と打っていた。

鳩山内閣は官僚に頼らない政策と称し蓮鳳のような素人が「科学の研究費」「八ッ場ダムの凍結」など重要性も分らずに予算を切り捨て得意顔である。

官僚は堕落したとはいえ皆が悪くはない。餅屋は餅屋で官僚に大まかな予算を組ませ悪ければ政治家が取捨選択すればどんなに政治がスムーズに行くことか。

それで思い出すのは岸内閣である。東条英樹、星野直樹、松岡洋介、岸信介は「二樹、三介」と云われていた。、岸信介は戦前商工大臣の頃から好きになれなかったが、「安保条約改正」の時「安保反対」のデモで首相官邸は群衆に取り囲まれ警官も首相の生命を保証出来ないと云い閣僚を総て帰し、岸首相と兄弟仲が悪いと噂された佐藤栄作後の首相が官邸に駆けつけ「兄さん一諸に死のう」と踏みとどまり「安保条約改正案」が議会を通過すると岸内閣総辞職した。胸のすくように潔良かった。

そういえば麻生太郎の父は炭鉱王で吉田首相の側近であった麻生多賀吉で母は上述の岸信介の娘で、太郎は信介の孫で佐藤栄作は太郎の大叔父に当たる。

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2010年2月19日 (金)

日本武尊とその地名の由来

日本武尊

日本武尊は倭建命とも書き「やまとたけるのみこと」と読み古事記、日本書紀に書かれている伝説上の人物で、小学校の国史では歴史上の英雄として教えられた。

日本武尊は、景行天皇の皇子で小碓尊(おうすのみこと)と云い、父天皇から嫌われ九州の熊襲建(くまそたける)征伐に出され女に身をやつし建を刺殺した。建は瀕死の状態で小碓命の勇気を称えて「日本武尊」を名乗ることを進言した。

京都にもどった武尊は直ぐ東征を命ぜられる。先ず伊勢神宮に立ち寄り斎の宮の叔母、倭姫命(やまとひめのみこと)から三種の神器の一つ天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を授けられた。この剣は出雲神話では天照大神の弟素戈鳴尊、須佐之男命(すさのおのみこと)が頭が八で尾が八の八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して体から取り出した剣である。 素戈鳴尊は凶暴で高天原で狼藉をして天照大神が天岩戸に身を隠したことは有名な話である。古事記の尊の歌「八雲たつ出雲八重垣***」は世に知られている。ラフカディオ・ハーン事小泉八雲は小泉は奥さんの姓で八雲はこの歌から取った。

武尊は東征を進め現在の静岡県で草むらに火で焼き殺されそうになった時この剣で草をなぎ助かった。そこでこの剣を草薙の剣とも言う。さらに進んで相模国の走水で暴風雨にあい船が沈みそうになった時、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が身代わりとなって入水し海神の怒りを鎮めた。そこで碓井山に差し掛かった武尊は「ああ我が妻恋し」と云ったと神話に書かれている。そこから引き返して伊吹山で神を退治すると山に登るも神のたたりで雹(ひょう)に打たれ、霧に巻かれふらふらになって下山した時は足は「三重」に曲がり能褒野(のぼの)で亡くなり白鳥になって飛び去った。

これが日本武尊の伝説である。これを哲学者梅原猛は戯曲「ヤマトタケル」で書き表し、市川猿之介が歌舞伎で上演した。

日本武尊を祭神の神社を以前見たと思って探したが見っからなくて、素戈鳴尊が祭神名のは出雲大社もそうかと思っていたが、書いてなく八坂神社と埼玉県の氷川神社四国の剣神社であった。

地名の由来

九州の熊襲から熊本県と球磨川を命名している。

また静岡県の焼津と草薙は草むらを焼いたことと、剣で草を薙いだ事に由来している。相模で妃が入水した後を碓井山で相模灘の方向に向かって「吾妻恋し」と嘆いたので関東を東(あずま)と云い碓井山を信州と上州の境の碓井峠として、信濃の国の歌では「あずまはやとし日本武尊(やまとだけ)嘆きたまいし碓井山うがつトンネル二十六***」と歌い、群馬県の万座は吾妻郡嬬恋村(あがつまぐんつまこいむら)と呼び、さらに武尊山(ほたかやま)まであって、長野県と群馬県の境には四阿山(あずま山)が、また福島県と山形県の境にも吾妻山(あづまやま)がある。

しかし碓井峠では相模灘は遠すぎると兼ねて思っていたら箱根山にも碓井山のあることを知りこれこそ碓井山だと納得した。

伊吹山の神のたたりで足が「三重」に曲がったことから三重県の名が付けられた。このようなスケールの大きな神話はそんなにはないのではないか。古事記、日本書紀を読見直すのも面白いでわないか。むかし日本武尊の業績は何人かの業績を一人にまとめたものと気ぃた事がある。

なお草薙の剣は熱田神宮の御神体である。なお補足すると三種の神器は「やたの鏡」「八坂にのまがたま」「天叢雲剣(草薙の剣)であるが、源平の屋島の合戦で安徳天皇ととも三種の神器は海に沈み剣、だけは上がらなかったことになつている。

カテゴリーを歴史から言語に変更しする。

地名ではないが、公園などでよく見かける四方へ「のきを葺きおろした家屋または入母屋づくり」を四阿、東屋、阿舎と書いていずれも「あずまや」と読むのも「あずまはや」に由来して「東国風のひなびた家」の意味だそうだ。

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2010年2月18日 (木)

足尾鉱毒事件と関係した人々

足尾鉱毒事件と関係した人々

足尾鉱毒事件は、江戸時代から資源を掘りつくし廃坑になろうとする足尾銅山を時の政府から払い下げを受けた、古川市兵衛が鉱脈を掘り当て古川銅山として銅を採掘しその鉱毒(現在の公害)を渡瀬川から近隣にまき散らし、農作物に被害を与え、漁業にも打撃を与えた。怒った村人たちが一揆をおこし、それを鎮圧するため軍隊が出動して鎮圧した事件である。

渡瀬川は広辞苑によると、利根川の支流で足尾山塊にたんを発し、栃木、群馬、茨城、の県界を流れ、埼玉で利根川に注ぐとある。

足尾鉱毒事件では、田中正造を第一に挙げねばならぬ。彼は栃木選出の代議士で生涯鉱毒事件を世に訴えて議会に臨席の明治天皇に鉱毒事件の直訴をしている。

一方軍隊の出動を要請して一揆を鎮圧した時の県令(県知事)は鬼県令と云われ、山形、福島、栃木県令、警視総監を歴任した内務官僚で自由民権運を弾圧し、後に子爵となっている。

徳富蘆花の小説「不如帰(ホトトギス)」は武夫と浪子の悲恋物語で、海軍大尉川島武夫と片岡陸軍中将の娘浪子が結婚するも浪子が結核にかかり離婚となり「もう女には生まれたくない」と云って亡くなったことを知った蘆花が小説に表した。

武夫は三島通陽の息子で、浪子の継母は大山捨松こと山川捨松と云い岩倉使節団と渡米した津田梅子(津田英学塾の創設者)ともに留学した会津藩士の子である。兄弟には陸軍中将と東大、京大、九大の総長を歴任した山川健次郎がいる。

作家の吉屋信子は、「父は足尾一体の群長で、足尾事件では東奔西走して席の温まる暇もなく、弟が死んだ時も靴を脱ぐ暇も惜しんで弟の死に顔を見て直ぐ外出していった」

また「当時の足尾銅山の理事長は、作家の舟橋聖一の祖父で、舟橋は祖母に溺愛されていた」と。

後年群馬県側から日光へ向かった時、足尾銅山跡を通ったが、山は植林されているが緑が少なく廃坑は見学者に開放されていた。しかし廃坑を見学せず記念館だけ見たが、古川の二代目は剃刀大臣の異名のある陸奥宗光外相の子供であった。

古川も三井、岩崎、住友、大倉、藤田財閥と同じように金で買った男爵である。

しかし理研(理化研究所、カメラ、コピー機のリコー等)の総帥大河内正敏子爵は違って先祖は智慧伊豆と云われた松平信綱で正敏は現代の智慧伊豆と云われ核、サイクロトロンの研究者仁科芳男、湯川秀樹、朝永振一郎、など頭脳集団を育成した。

大河内正敏の孫娘は女優の河内桃子で正敏は桃子をかわいがったと伝えられている。河内は大河内から大を除いた命名である。

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2010年2月15日 (月)

藁草履と草鞋の違い

藁草履(わらぞうり)と草鞋(わらじ)の違い

ワラソ゛ウリは読んで字のごとく藁で編んだ草履で藁だけのものと、藁と色ものの着物の端切れを交互に入れて編くんだものも藁草履と云う。こちらの方が肌触りがよい。

F100002867F10000781213  他方草鞋はワラグツが転じてワランジになりワラジとなったと言われ、藁で足形に編み、つま先に二本の細い藁縄の藁緒(わらお)とかかとに半分か三分の一の花緒丸い穴を付けその乳とかかとの中間にまた一対の乳を付けたものをワラジと云う。

従って藁草履と草鞋の違いは一目瞭然若いタレントの中に藁草履を草鞋と呼ぶものがいるが知らないことは先人に尋ねるといい。

草履はちっとつっかけて隣近所に行く時か、子供と庭で遊ぶときに適している。

私は草鞋を履いたことがないため履き方は不確かだが、下記に述べる。F100002623

草鞋で足を痛めないように足袋を履き、足を草鞋の上に置きかかとをF100002745 後ろにしっかり固定し藁緒の両側に足袋を履いた足を挟み藁緒を両側の乳にそれぞれくぐらせ更にかかとの両側の藁に藁緒をくぐらせて折り返し前足の膝首で藁緒を花結びで固定する。かくして足と草鞋がぴったりして長旅もできるようになる。

これが草鞋であるが後日写真に撮って実物を示す。百聞は一見にしかずである。

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2010年2月14日 (日)

戦艦大和の最後

戦艦大和の最後

今から三四十年前、通信高校講座でNHKは教材の「戦艦大和の最後」の作者吉田満を招いてその書物を出版したいきさつを聞いた。

その時吉田は「私は学徒出陣で海軍入った。一年の特別幹部候補生の教育を受けて少尉に任官した。戦艦大和に乗り組呉軍港を出港して巡洋艦、駆逐艦と合流して、戦艦大和以下十隻の特攻艦隊は帰りの燃料を持たず、目的は沖縄本島の米軍上陸地点に突入し、そのまま陸兵になることで作戦の成功は即死を意味していた」この時飛行機の護衛は付かず丸裸のままで「艦隊は豊後水道を南下すると米潜水艦ガ出没し、遂に戦闘機、爆撃機の編隊につかまり猛攻撃を受け大和が傾くと、上官は君たちは生きて護国に尽くせと言って兵を海に投げ出した」奇跡的に生還を果たした吉田は「戦艦大和の最後」を一日で書きあげた。戦後出版は占領軍の検閲があり、無修正で刊行したのは講和条約発効後である」と。なお作者吉田満は日銀の理事になってお国御奉公している。

確か司令長官は伊藤整一海軍中将で、兵たちと別れを告げそのまま司令室に入り、最後まで司令室から出ることはなかった。艦長の室賀幸作海軍大佐は艦の羅針儀に体を三か所縛り付け部下が艦長の掌に残した「ビスケット」四枚のうち二枚を口にして食いながらニヤリとして艦と運命を共にした猛者であった。コメントによると室賀艦長は旧制第三高等学校のヨット部の「琵琶湖周航の歌」の作詞者小口太郎と諏訪中学の同級生だそうだ。感謝、感謝。

これが戦艦大和の正しい記事で前回の記事は記憶違いであった。失敗失敗!

ここにあらためてお詫びをする。

前回述べた加来少将は、大和の艦長でなく昭和十七年七月のソロモン沖の海戦で艦と運命を共にした提督であった。墓の立つ鎌倉の本妙寺は日蓮宗の名刹で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の乳母の比企一族の住まいを寺にしたものである。

F100000913_3 F100001116 F10000081112 F10000022 門には仁王がいないが仁王門に当たり隣は本堂で、その左隣は加来少将の墓である。確か本堂に向かって左に大きな墓があったと記憶していたが、三十年もすると様変わりして見つからなかった。そこで寺務所を訪ねご住職に案内してもらって探し当てた。しかし以前より何文の一も小さな墓で記憶の曖昧さを知らされた。しかし墓碑を見ると平成七年に建てたとなっていて記憶の通り小さく作り直したようだ。

比企一族の妙本寺は、屋敷跡で二代将軍頼家が重病で伏していると、北条時政らは比企一族を謀反の疑いで攻め滅ぼし、奥方若狭の局と頼家の子まで皆殺しにし、病から直った頼家は一人ぼっちになり伊豆の修善寺に流され暗殺される悲劇となった。

それを戯曲にしたのが「修善寺物語」で、写真の小さなお墓は頼家の子の墓である。

感謝、感謝。

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痴呆症

痴呆症

有吉佐和子の痴呆症を取り上げた小説「恍惚の人」を目にした時はなす言葉もなかった。最近は周りからも痴呆症の話が出るようになった。

県の福祉作文コンクールの中学生の部で優秀賞とった女子中学生の作文を読んで感激した。

要約をすると「突然交番から祖父を預かっていると電話が来た。家族は訳もわからず交番に駆けつけると、交番の椅子にちょこんとすわっている祖父が小さく見えた。祖父は仕事一筋で家には専門書が山積みされ、慣れないパソコンも本をみながら使えるようになった。語学も堪能で種々の国からのホームステイとの会話はカッコ良く驚きだった。いつも元気でやさしい祖父がどうして***

祖父は入院して「痴呆症」と診断され家族も落ち込み母は泣いたが、祖母はもっとつらかったであろう。祖父を出来るだけ一人にせずテレビも一緒に見たり、ゲームをしたりそばにだれかは居るようにした。祖母、父、母、妹、私も出来ることはしたが、想像以上に大変だった。祖父の機嫌が悪い時はどう接するか困った。その時は祖父の機嫌がよい時のことを考えて接した。病院や買い物、散歩につねに一諸の祖母はさらに大変だ。誰よりも大変な祖母は頑張っていてすごいと思う。認知症は直らない病気だそうだが進行を遅らせて祖父と一緒に過ごしたい」「ジジ楽しくやろうね。長生きしてね」で結んでいる。家族上げての看病、しかも家族を思いやる心、中々しっかりした作文で涙なくしては読めなかった。

艱難なんじを玉にす。である。

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2010年2月13日 (土)

姑息な政治屋集団

姑息な政治屋集団

最近の鳩山内閣と民主党の態度には失望し、ここに苦言を呈す。政治資金規正法違反で小澤幹事長の側近三名が起訴され、幹事長は灰色だが不起訴になった。これが選挙違反ならば、即座に代議士辞任である。それにもかかわらず幹事長はだんまりで続投を決め込んでいる。しかも民社党にはそれを批判する人が一人もなく黙認している。

前民主党参議院議員で任期中衆議院議員に立候補を表明したが推薦を受けられず辞任して諸派から立候補して当選した代議士の所信表明のパンフレットによれば「これが自民党の幹事長であり、民主党が野党であったならば鬼の首を取ったように自民党を攻撃したと思う」と。

昨日の新聞は、国の道路建設の予算は凍結または減額にもかかわらずは、「選挙で自民党に敗れた鳥取県と福井県に集中的にばらまき予算を十から二十%額にして四,五億増額して次の選挙に備えてようとしている。なお自由党政権ならば認可になって発表するのを認可前に各県に伝え、恩を売っている。更に小澤幹事長の岩手県も増額」と報じていた。幹事長はゼネコン疑惑も浮上していたのにこれでよいのか。お手盛りではないか。姑息な手段は政治を損ねる。全く怒りすら覚える。民主党の議員は政治屋の集まりで近視的政策に努め長期的政策は失格ではないか。

「忠言耳に逆らう」と云うが諫言する人がいない。

織田信長が若いころうつけものと云われ奇癖が多かったが、平手政秀は腹を切って信長を諫言した。そこまでしなくても民主等には一人や二人諫言する人もいないのか。

なお信長の父の菩提寺のある大須の近くに政秀を葬った政秀寺がある。

今日の民放テレビ一週間のニュースを紹介する番組で、小澤幹事長が米国の招きで訪米を約束し米大統領との会談を望んだことについて批評家は、米国はこの会談で一挙普天間問題に決着をつけようとしていると想像するがこれは大問題だ。幹事長は招待された時、辞退して政治問題は、首相に任せなかったのか。

また別の批評家は、この際改革をした鳩山首相と小澤幹事長は責任を取って辞職すれば潔かったのに。と云っていた。

驚きで空いた口がふさがらなかった。

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バレンタインデー

バレンタインデー

バレンタインデーは、日本では女性から愛する男性にチョコレートを贈る日が定着しているが、さにあらずでそんなあまい日ではない。

ローマの司教バレンタインが愛する男女が駆け落ちをして逃げて来たのをかくまい追いかけて来た人々に焼き殺された日である。

さしずめ日本では快川和尚と云ったところか。快川は武田家の菩提寺恵林寺の住職で、織田軍に追われた武田軍を寺にかくまって焼き討ちにあったとばかり思っていたが、改めて書物をみると、逃げ込んだのは近江の佐々木の一族で大名だった六角宰相承禎ら三人をかくまい、信長の引き渡し要求をけり、三人を北国に逃したのを怒った信長が百五十余人の僧を閉じ込めて火を放った。

その時快川は「心頭を滅却すれば火もおのずから涼し」即ち「無念夢想の境地になれば火も涼しい〕と云って焼き殺された。

また贈物にチョコレートを送る習慣は以前新聞のコラム欄でまだバレンタインデーが日本根付く前の昭和十一年ごろ神戸のチョコレートの菓子屋が「贈物がチョコレートになればよいが***」と新聞に投書したのがきっかけで、戦後になって花開いたと。日本人は宣伝に踊らされる易いせいなのか。最近になってその菓子屋が「モロゾフ」であることを知らされた。

日本人のお祭り好きはこれに留まらず男どもはバー、飲み屋の宣伝に踊らされクリスマス、イブとパリー祭に馬鹿騒ぎをしていた。

トヨダ自動車の大野専務のお話を直にお聞きした時、「渡米してクリスマスイブにぶつかった時イブの日は、店が早く閉しまうので、食料を買ぃためておかないと食べ物にありつけないと言われたが、間一髪でまぬかれた」と。最近は日本も家庭で祝う習慣がついたようだ。

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2010年2月12日 (金)

グルメ話

グルメ話

以前岩波文庫で各界の名士によるグルメ話を読んだ。名士たちはうんちくを傾けて高級食材のグルメの話で賑わしていた。

それとは異なる一文があった。それは明治時代伊藤博文内閣の蔵相を務めた、渡邊千秋の文であった。蔵相時代伊藤と意見が合わず伊藤は内閣総辞職しようとするが、渡邊は辞職を聞き入れず内閣が宙に浮き、時の明治天皇から辞職したらと言われたというつわものである。彼の兄は千冬と云い宮内相をし千秋は一生独身でとうしたので千冬の息子が養子に行っている。

千秋のグルメは故郷の母の手作りのそばで薬味には裏の畑から取ってきた「ちびった辛み大根のおろし」であると書いていた。

十数年ほど前に、千秋の養子で千冬子孫に当たる九十何歳かになる渡邊元世界銀行総裁がテレビの中でダンスをしていた。彼は「私は新しがり屋で学生時代ライカを買ってもらって撮影に明け暮れた。現在もその癖が抜けないのか、パソコンで遊んでいる」と。

パソコンに触ったこともなかった私は、あんな老人でも操作しているからと一年発起して操作は遅いが、まがりなりにもパソコンが出来るようになった。

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2010年2月11日 (木)

小澤幹事長の責任問題

小澤幹事長の責任問題

小澤幹事長の政治資規正違反の疑惑で、秘書、代議士ら三人の側近が起訴され、小澤幹事長は灰色だが不起訴になりました。そこで幹事長は続投を決め、鳩山首相も了承しましたが、国民は納得出来ません。しかし民主党もだらしがなく声をあげて批判する人が一人もおりません。起訴された石川代議士のはやっと離党しましたが、代議士には居座るようです。

小澤幹事長は田中元首相、金丸元副総裁の失脚を目の当たりにしたはずですが潔くなく幹事長を退陣しません。これでよいものでしょうか。

みなさんのご意見は****

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どんど焼き

とんど焼き

どんど焼きは、佐義長ともい、正月が明けてから門松を集め神社の境内にためておき一月十五日の夕方から晩にかけて、境内の一角に門松を積み上げて火を付けて焼き、人々の無病息災を祈る行事で始めは宮中の行事から民間に広まったと云う。私の町は東之門町と云う善光寺のある元善町の隣町で、越境して大勧進の松と小高い竹との門松をもらい、当日小高い竹を中心に置き、集めた門松で周囲を囲み火を付けて焼いた。門松の下には餅やサツマイモを置いて、灰の付いた餅や芋を食べた。

門松の中に書き初めをした紙を投げ込み、上昇気流に乗って舞い上がると書着初めがうまくなると言う習しがあった。

書道の下手な私は、紙を丸めて門松の下に投げ込むため舞い上がることはなかった。

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2010年2月10日 (水)

信濃の国の歌

信濃の国の歌

信濃の国の歌の作詞者は浅井冽信濃の国のお国自慢の歌である。県外に住む信州人が集まるとこの歌を歌う。歌詞は第一節は信濃の国は十州に囲まれ、松本、伊那、佐久、善光寺と四つの平(盆地)があると歌っている。事実越後、越中、飛騨、美濃、三河、遠江、駿河、甲斐、武蔵、上野、現在の八県に隣接している。第二節は御岳、乗鞍、浅間山と四山を上げ、犀川、千曲川、木曽川、天竜川を歌っていて、第四節は園原、寝ざめの床、木曽の桟、久米路橋、浅間温泉、うば捨山の田子ごと月の名所を上げ、次は旭将軍木曽義仲、仁科の五郎信盛(武田勝頼の弟)、太宰春台(儒学者)、佐久間象山(儒学者、洋学者)と四偉人を述べている。

最後に碓氷峠は汽車のトンネルが26あると言っている。

信濃の国の歌は小学五年生の副読本にあったが、正規に教えられたことはない。しかし小学校の他校の運動会で信濃の国の遊戯をしていた。

これは作詩も作曲も師範の教師なので小学校の教師たちは知らず知らずのうちに生徒たちに教えたものと考えている。

信濃の国は、昭和三十代までは、自然に歌われていたが、その後長野県の県歌になってしまった。

浅井冽も作曲家北村季晴も長野師範(現信州大学教育学部)の教師であった。

しかし浅井冽はしばしば話題に上るが、北村季晴は影が薄いので季晴について述べる。季晴は、東京へ戻ってから音羽ゆりかご会を作り児童の音楽育成に努めている。彼の手になる作曲は「汽車の旅」「ワシントン」などがある。

北村季晴の先祖

北村季晴の七代先の先祖は北村季吟と云う学者で、俳句は松尾芭蕉の師匠で六十六歳の時学問好きの徳川綱吉に江戸城に親子ともども扶持を貰って召抱えられている。北村季吟、湖春親子のお歌方を元禄二年に任命と岩波の日本年表史も三省堂のコンサイス世界年表史にも乗っていて、ともに湖春の死も伝えている。

また広辞苑には北村季吟の項が記載されている。

平和になった幕府では新規召抱えは難しいと言わたが、北村季吟、新井白石、柳沢保吉、田沼意も例外の一人で、柳沢と田沼は加増に次ぐ加増で大名となり遂に将軍の側用人と大老になった。

季晴の父季林はお茶の水学問所(昌平こう)内に屋敷を賜り、幕府最高の学問所の教授と取締役(校長格)を兼ねていた。現在の東大の前身でありさしずめ東大の総長と行ったところである。

幕末来日したヘボンとも交流があり、ヘボンに日本語を教えヘボンから英語を学んだ。ヘボンの和英辞典編纂にあたり助成し、ヘボンは辞典の中で語彙の代わりに季林の林を取り語林としたとして感謝の意を表したという。

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留学生ドルジとラーシ

留学生ドルジとラーシ

元横綱朝青竜は本名ドルゴルスレン・ダグワ・ドルジという。

私の田舎の中学の一年一組に戦時中にドルジとラーシという蒙古人がいた。

当時の蒙古は、外蒙古と内蒙古に別れ外蒙古は親露派で、内蒙古は親日派であり留学生二人は勿論内蒙古である。

蒙古は現在モンゴルと云い朝青竜の出身地である。我々の中学の先輩に大蔵省の三羽烏といわれ三人とも大蔵大臣を歴任し、戦後の公職追放後代議士になった人がいる。先輩もその一人で当時大東亜相をしていた関係で田舎の中学へ留学生として来たものと思っている。

二人はふけて見え無口で、私とは余り話をしなかった。しかし修練の時間かで何回か相撲を取ったが二人は突っ張りが強く連勝を続けていた。しかし足腰が弱いせいか私と組むと簡単に足を掛けて投げ飛ばしていた。今になるとあるいは勝ちを譲って呉れたのかも知れない。

しかし終戦の少し前になって「日本が負けるから国に帰る」と云い帰国した。同級生はそれを聞き憤慨していた。

戦後中学、高校の同期会で一年の時クラスは違ったが、後に医者となり代議士となって政務次官を何回か歴任した友が、「いくら探してもドルジとラーシの消息は知れなかった」と。「朝青竜ほ本名がドルジだと云う」と話すと「モンゴルにはドルジと云う名が多くて一族かどうかわからない」と云っていた。

ドルジとラーシは戦後日本に留学したという理由で処刑されたのかもしれない。

その昔のように相撲は大関が最高位の時代では、朝青竜は識徳円満とは言えず大関にはなれるが、横綱には推薦されず今回の事件は起こらなかったのではなかろうか。

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100円パソコンと携帯電話

100円パソコンと携帯電話

100円パソコンの購入は「安物買いの銭失いで」で失敗例で、携帯電話は無料で入手し便利で儲けものをした成功例である。

100円パソコン

去年たまたま街をぶらついていると、ある店の街頭で机を出して体裁のいい100円パソコンを売っていた。二台目の安いパソコンの購入を考えていた私は、これ幸いと飛びついてしまった。パソコンはDELL、HPの二機種であった。私は大会社に裏打ちされたHPを選んで100円でパソコンを買った。販売会社はEMOBILEで購入規則は、EMOBILEのアタッチメントの借用代は毎月使っても使わなくても最低2,900円から最高6,500円かを二年間払えと云うものであった。しかも解約の場合解約料を最初の月68,000円かを支払以後1ヶ月たつごとに減額し2年するとただになると云う。これは最低支払の24ヶ月分で以後は、23ヶ月、22ヶ月と減額して、しかも入会金3,000円かは初回払いというものであった。

さしずめ販売会社EMOBILEはメーカーから小型パソコンを安く仕入れてもしないシステムになっている。

使って見るとパソコンは屋外でも使用でき、特にインターネット用に便利に出来ていた。しかし屋内で使うと無線の授受が良くないと、つながったりつながらなかったりしていた。しかもインターネットを使うのでノートンのウイルス防止のソフトをダウンロードした。ただ別使用のメールアドレスがそのまま使用できる点は便利でもある。

使っていてしばらくすると、ハードディスクの容量不足のためメモリーが満杯になり不要のソフトを消去して、内臓のゲームにだけ使っていたが、またもメモリー不足になり現在はパソコンの使用を中止している。将来は、ハードティスクを増設するか、ノートンのソフト破棄も覚悟している。

携帯電話

他方携帯電話は「現在使用のFOMAが使えなくなり、MOVAに切り替わる」と云う記事を見て、買い換え時期をにらんでいた。たまたま無料の携帯があることを知り購入した。

機能は数段高く、メールはしやすく、写真もとれて、毎月の料金も前より安い。

現在ではデジカメより軽く、操作しやすいので携帯に内臓の本体メモリーにSDメモリーを増設して使用している。

ドコモのサービス会社の社員の電話による指導で1,000円のSDMケーブルを追加するだけで、ドコモのソフトを使ってパソコンに転送し、既存のソフト使ってデジカメと同じ画像の加工ができる。

最近はデジカメより携帯で写真を撮る頻度が高い。

尚携帯を電話として使用するのは待ち合わせの時と、電話帳として使うだけで後は切って使っていない。

携帯電話を購入した直後は、迷惑電話の記録が日に数十通もあって、あわてて迷惑電話禁止の処置をして貰った。

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2010年2月 9日 (火)

インパール作戦

インパール作戦

今次大戦で一番悲惨であったのは、ガタルカナル島の転戦(実は退却)した。ガダルかナル島はオランダ領ニュー二ヤ島と云い現在はインドネシヤて゛ある。ここから無事帰還した兵隊は同僚を見捨てて帰って来たと皆泣いて語っていた。次はインパールでここはビルマと云い英国領土であった。インド独立の志士チャンドラボースのインドを独立を焦った要望で軍が立ち上がったものでもともと無理があった。

戦場では最高司令官牟田中将が気がふれ散々な戦いで転戦すなわち退却して帰った。

先日ある会合で老人がインパール作戦に参戦しその苦労話をしていた。しかし次の機会に別の老人も自己紹介でインパール作戦で戦ったと話していた。後日前者の老人に後者の老人の話をしたら前者の老人は後者の老人をご存じで「あの人は砲兵隊だた」と云っていた。大砲を引いての突進、退却は大変だったに違いない。。

しかし前者の老人は八十九歳、後者の老人は九十一歳と年をとられた。

今次大戦で一番の激戦地は、東京都小笠原諸島の硫黄島で日米の戦いで両軍の被害は大きく最高司令官栗林中将(戦死後大将)を米軍は今次大戦最高の猛将と褒めている。

硫黄島では、全員玉砕即ち全滅した。

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教育先進国日本

教育先進国日本

明治100年が叫ばれていた四十年ほど前NHKのテレビ番組で日本の教育について論じている日本の歴史をよく知っている外国人がいた。彼は後の駐日大使ライシャワーであったように思う。

その外人は「日本の明治維新後と終戦後の発展は一に日本の教育にある」と云っていた。「現在の日本の小学校は20,000校余りで、明治時代小学校を義務にした時は10,000校余りあった。江戸時代の寺子屋の数も10,000位で明治政府が義務教育制度を施行した時これらの寺子屋をそのまま小学校とした。しかも日本の義務教育制は仏国に遅れること一年、英国に先立つこと一年早く、他の欧米列強に先駆けていた」と。これは驚きであった。確かに終戦で進駐して来た米兵の中には自分の名前すら書けない人々がいたと聞いたことがある。

明治政府の高官たちは外国に追いつけ、追い越せと努力した。また役人たちは官立八幡製鉄所、官立富岡製糸(群馬県)などに最新鋭の機械を投じ御雇外人にその操作を習わせた。「汽笛一斉新橋***太」と歌われた汽車も電話の施設も早かった。ベルが電話を発明して間もなく留学生金子堅太郎と伊沢修二の二人がベル研究所を訪ね日本語で話しあった。そこで電話で話をした外国語は日本語であったと言われている。また富国強兵に努め軍隊は独国式を採用し、憲法制定では伊藤博文が欧州に行き調査し日本国憲法は独国式にした。

教育でも御雇外人に学生を教育させ、その学生たちを先進国に留学させ帰国後御雇外人たちと交代させている。留学した学生たちも必死に学び、後の文部大臣菊池大麓はケンブリッジ大学か、オックスフォード大学を一番で卒業したと聞いたことがある。

途中で病のため脱落する人もいて、桂小五郎こと木戸孝允の子息も留学中かの地で病死し、遺骨は船で無言の帰国をしたと記憶している。

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三渓園

三渓園

三渓園は、横浜の貿易商原三渓が戦前金にあかして自宅の広大な庭園に国宝級の建物を現地P40100022_3から移築したもので、画家横山大観、菱田春草らのスポンサーとなって彼らを自宅に招き長逗留P401002223241_3させ描いた絵を買って自宅に飾ったという。中には菱田春草のあの有名な「黒猫」もあった。しかし戦争で絵画は水浸しになり今はない。インドの詩人タゴールも一ヶ月滞在している。

P40100088 圧巻は小高い丘の上に立つ灯明寺の国宝三重の塔である。また自宅の臨春閣は紀州徳川の別邸で自宅の裏には千利休が愛用したという手水鉢がある。

   P4010010103_7   P4010011115 庭園には豊臣秀吉が母大政所に送った天授院や徳川家光が乳母春日局に送った二条城から移築した月華殿、聴愁閣、天瑞寺と枚挙にいとまがない。

P401001313_3 P401001212  P401001616 P401002426 P401002527 P401002628_2 また

最近になって移築され菱田春草の庵、飛騨の合掌作りと古民家、東慶寺、灯明寺から移築した寺などが置かれている。

現在三渓園は横浜市の所有で常時公開している。

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2010年2月 8日 (月)

紅葉狩り

鬼女紅葉

能の演目に「紅葉狩り」がある。これは鬼女紅葉の伝説を能に仕立てたものである。

信濃の戸隠に住む鬼女紅葉が山里を荒らしていた。鎮守府将軍平維茂が京都から下向して美女に化けて鬼女を退治すると云う伝説を能にしたものである。このほか新歌舞伎、長唄、荻江節、地唄、一中節にも同名の曲があると言う。平維茂は鎮守府将軍で余五将軍とも呼ばれた実在の人物である。。

私の小学生のころ遠足で鬼女紅葉を祭っている寺へ行ったったが、寺には鬼女紅葉の位牌と並んで平維茂の位牌もあり引率の先生たちはこれでは夫婦でないかと首をかしげていた。

鬼女紅葉の住んでいたと言う場所は鬼のいない里で鬼無里(きなさ)と呼ばれて戸隠の中腹にある村であったが現在は長野市に吸収されいるらしい。

別所温泉のある塩田の郷にある北向き観音こと常楽寺の山内を平維茂が整えたという言い伝えがある。

また別所温泉には維茂の将軍塚があるが真偽のほどは疑わしいという。

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鎌倉の府

  • 鎌倉の府

鎌倉は現在観光地として賑っているが、現在の神社・仏閣は総て鎌倉時代末期以降に再建されたものである。小学唱歌「鎌倉」の「七里ガ浜の磯伝い、稲村ケ崎名将の、剣投ぜし古戦場」と歌われた、元弘の乱の新田義貞の鎌倉攻めで総て消失してしまった。

しかも人々は全滅し現在でも地下から男女や子供の刀傷のある人骨が出土すると言う。

大町桂月(1869ー19259)は、広辞苑によれば詩人・評論家で紀行,修養などの文章を多作したとある。彼の文「行雲流水」の一節か名文であるので子供のころから諳んじていたが、一部忘れていたところがあったが、ブログを書くにあたって徐々に思いだしてきた。「青によし奈良の都は荒れ果てて、鎌倉の府はすたれつくして陰鬼むなしく雨に刻す、時に美人のどくろ鋤黎に触れていづるも、たれか当年の面影を認めん、東流の水流れてまた帰らず、人生の富貴よくいずこにかあらんや」要約すると「鎌倉の都は荒れ果てている。水は流れ去ってまた戻ってこない、人の富や権力も同じようにはかないものだ」と。

この文ように鎌倉ではしばしば刀傷のある人骨が掘り出されていると云う。

鎌倉は明治になるまで寒村であってたとも云う。

関東大震災の鎌倉

P614003116 関東大震災の被害が甚大なのは東京だけと考えている人が多いが関東大震災の震源地は大磯沖で、横浜、鎌倉、大磯の被害は大で、震災の被害を示す写真では、円覚寺の正面の門はかやぶきで門は崩れ落ちてかやぶきの屋根だけが道にぽつんと置かれていた。また鶴ヶ岡八幡宮の石の大鳥居は、中間から折れて無残な姿をさらしていた。

関東大震災で多大な被害者を出した陸軍被服廠跡に建てられた東京都慰霊堂には震災の被害状況を描いた絵画が展示されているが、うち1枚は大磯で列車が転覆し、砂浜に横たわっている無残な絵があつた。

また松方元首相が鎌倉の別荘で圧死したという誤報が流れ、松方の息子で川崎造船の社長が神戸から船で父親を見舞うと松方は家の下敷きになったが、隣家の機転で掘り出され無事であつたと。

松方には有名な逸話が残っている。明治天皇から松方に子供は何人いるか、と尋ねられて即答できず後日ご報告したしますと下がったとか。松方はそれほど子福者であった。

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2010年2月 7日 (日)

信州の鎌倉塩田の郷

信州の鎌倉塩田の郷

別所温泉の在る塩田の郷は信州の鎌倉と呼ばれ、鎌倉ゆかりの寺が多い。別所をP925000661_9 吸収した上田市は鎌倉市と姉妹都市を結んでいる。

長野県の国宝第一号の八角三重塔のある安楽寺の開祖は樵谷惟仙和尚で宋から帰国した留学僧である。

以前鎌倉国宝館で樵谷惟仙和尚の展示会を見た時、国宝館の館長はやっと惟仙和尚の像を迎える事ができた。

先代の住職から「おれの眼の黒いうちは貸せない」と云われていが「代が変わって実現できた」と云っていた。

惟仙和尚は、鎌倉建長寺の開祖蘭渓道隆の来日と同じ船に乗り合わせ、日本でも建長寺を訪ねたり手紙の交換もしている。と説明していた。また上田市と鎌倉市が姉妹都市を結ぶ時も鎌倉市長から「何の縁もゆかりもない上田市と姉妹都市を結ぶのか」と云う質問に両市の深い関係を説明し納得してもらったと話していた。

塩田の庄は鎌倉幕府の執権極楽寺北条重時が信濃の守護となり塩田の庄に代官を差し向けた事にはじまる。。その後重時の子北条義政が塩田の庄の祖となった。NHKの大河ドラマ北条時宗で俳優伊藤四朗の役が義政で執権時宗の連署として執権を補佐していたが、途中で「疲れたから国へ帰る」と云う場面があるがこれは塩田の庄へ帰ると云うむことである。

P925000778_2 塩田北条は義政の子国時、孫俊時と三代続いた。北条高時が元弘の乱で新田義貞に攻められたとき、塩田二代国時、三代俊時親子は「すわ鎌倉」と鎌倉に駆けつけ高時が自害する時親子ともども自害して果てた。その模様は太平記に塩田親子の最後として書かれている。

塩田の前山寺に国宝三重塔があるが、これは未完の塔として各階に手すりがない。これはお天P92500077834気博士の倉島厚によればすわ鎌倉で当主が出陣し自害したので工事が中止されたままになったためと説明していた。右の写真は未完の様子を示している。

私が小学生のころ同級生の北条と云う女生徒が「家紋は三つ鱗で北条㋨子孫だ」と云っていたが鎌倉の北条と何の関係があるのかと疑ったが、後年になって塩田北条は近くて、家紋は三つ鱗であるので納得した。

常楽寺は北向き観音と呼ばれ善光寺詣でのP92500043_6 帰りには北向き観音にも参詣するようにと言われていた。常楽寺には塩田二代北条国時の自像が安置されている。右の写真は常楽寺の境内にある高い楼台である。

境内の愛染堂の隣に立つかつらの木は川口松太郎の小説「愛染かつら」のモデルになった。P925000545_3

上田市と鎌倉市 に縁のある人物に作家の久米正雄がいる。久米正雄は鎌倉文壇の大御所として活躍し、鎌倉カーニバルを立案して初代審査委員長を務めた。

久米正雄の父親は幕府の旗本で明治になって乞われて上田の小学校の校長をしていたが、たまたま失火で御眞影(明治天皇の写真)を焼き責任を取って自殺した。久米の小説「学生時代」では父親の葬式の日参列した老人に「坊やお父さんのような偉い人になるんだよ」と頭をなでられたと書いている。

また川端康成も信濃教育会(長野県の教師の教育学会)の学会誌 の第一面 は久米正雄の父親の自殺が書かれていると。

父親の死後久米正雄は福島の母親の実家へ帰り安積中学一高東大を出て作家となり親友芥川らと夏目漱石の門弟となった。久米が漱石の娘を松岡譲と争い敗れて失恋した事件は有名で久米はこの失恋を小説に書いている。またある時昭和天皇が久米の絵を見て「久米さんの絵か」と云われたと、新聞記事になっている。

上田市には先ほどの国宝三重塔のほかに大法寺の国宝三重塔別名見返りの塔と国分寺の国宝三重塔がある。

 

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勝海舟と山岡撤舟

勝海舟

海舟という号は海舟の妹婿で師匠の佐久間象山が勝海舟に送った「海舟書屋」からとったものである。海舟の曾祖父は越後から江戸に出て来て後に男谷検校になった。男谷検校は旗本男谷家から御家人の株を買い海舟の父小吉に与えたもので従兄弟の男谷精一郎は三千五百石の旗本で剣術指南をしていた。海舟は従兄弟から剣術を習った。

広辞苑によれば御家人は江戸時代将軍直轄の家臣でお目見え以下の者とある

御家人株は、江戸時代、御家人がその家格を農民・商人などに売った場合(表向きは養子縁組の形式)の家格とある。

海舟のほら吹きは父親譲りで父小吉は「親子鷹」で面白可笑しくほらを吹いている。

海舟のほら吹きはブログ「清水の次郎長の中で咸臨丸の太平洋横断の中でも述べたがもう一件は歴史の本で知られている江戸城を兵火から救ったことも話半分でやや真実と異なっている。

このことは下記の山岡鉄舟で述べる。

海舟の著書「氷川清談」は西郷隆盛と大久保利通を比較して、西郷は鐘のように大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響くと。

西郷は江戸城明け渡しで、「よか頼む」言って戊辰戦争に出陣していった。信用すれば総て任せてしまう度量の人物だ」

それに対して大久保は、「あれはしてはいけない、これをしろとこと細かく指図してその通りすれば万事解決する」と。

山岡鉄舟

山岡鉄舟は、小野朝衛門の子として江戸に生まれ、無刀流の創始者で蝉の修行し、学問にも励んだ。鉄舟は山岡静山の弟子で静山と三舟の一人高橋泥舟の妹を迎えて山岡家の養子となり山岡鉄舟を名のった。

鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は上野寛永寺に謹慎していることを、官軍に伝えたいと義兄高橋泥舟に相談し、山岡鉄舟が推薦された。

鉄舟は初対面の海舟を訪ね、勝は相良総三らと火付け盗賊を働いて幕府に捕らえられていた薩摩藩士益満休之助を案内役として鉄舟に同行さ西郷への紹介状を持たせた。鉄舟と益満休之助と二人は馬に乗り、人切り半次郎こと後の陸軍中将桐野利秋らの先鋒隊に「朝敵徳川慶喜の家来山岡鉄舟駿府の大総督府へまかり通る」と決死の覚悟で通り抜け西郷と会談し、江戸を兵火からまぬかれる等の約束を交わした。しかし西郷は、慶喜の助命は反対を唱えた。その時鉄舟は「西郷さん立場を変えて島津さんがこの立場に立ったらどうするかを問い遂に慶喜の助命を確約させた。

NHKテレビ「篤姫」では江戸の平和な明け渡しは篤姫の功としているが、鉄舟、和宮(静寛院宮)、篤姫らの陳情の功が実ったものと考える。鉄舟はこの交渉の結果を海舟にも報告をしている。西郷と勝の江戸薩摩藩屋敷の会見はすでに下ごしらえが済みただと調印式と考えている。

勝はその手柄を総て自分のものとして吹聴し世の中に定着してしまった。

事実新政府が自分の功績を書けと言った時、鉄舟は自分のことは他人が功績として申告しているので自分は何もしていないと書いたと語っている。

しかし明治政府も鉄舟の功績は無視できなく明治天皇の侍従にした。鉄舟は侍従としても懸命に励み宮中の火事の時寝巻のまま駆けつけそれを笑った人々を一大事の時に着物を着替える時間も惜しいと言ったとか。

また明治天皇と侍従たちが相撲をした時侍従たちが勝ちを譲った時これではいけないと天皇を土俵の外に放り投げたという逸話も残っている。

山岡鉄舟は、小野朝右衛門の五男と無意識に読んでいたが、小野朝右衛門は代代人切り朝右衛門とよばれ将軍直轄の試し切りの家である。道理で鉄舟は剣の達人である。

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2010年2月 6日 (土)

能、相撲と歌舞伎

相撲、と歌舞伎

明治維後も新能役者と相撲取りは、別格であって歌舞伎役者は河原乞飯とさげすまれていたが、地位が向上したのは明治中期時の総理大臣井之上馨が皇居で歌舞伎役者を招いて明治天皇の天覧に浴させ、翌日昭憲皇太后にその翌日は各国大使公使を招待してからと聞いていた。

能役者と相撲取が別格なのは将軍や諸大名に抱えられていたからとばかり思っていた。しかし今日観世流の能楽師から能の話を聞きそれが間違いで有ることを気付かされた。明治になって大名の扶持をはなれた能役者が四苦八苦している時、岩倉具視が明治天皇の天覧に浴くさせてからと知った。

昭和になっても歌舞伎俳優は地位が上位で映画俳優は一段下に見られていた。

相撲

江戸時代相撲取は諸大名に抱えられ大名の接待に使われていた。横綱谷風梶之助は讃岐高松藩のお抱え力士で、大関雷電為衛門は出雲松江藩のお抱え力士というようにであった。

雷電為衛門は不出世の強力で幕内通算二百五十四勝十敗の好成績を収め大関を十八場所務めている。しかし彼は一生大関であった。昔の相撲は大関が最高位で今もその名残は三役は、小結、関脇、大関である。

私の子供のころ雷電は土俵上で人を殺したから横綱になれなかったと伝えられていたが、NHK放送によれば雷電は松江藩のお抱えで、横綱を授ける吉田司家は肥後の熊本藩であるのでそのとばっちりを受けたのだと報じていた。

吉田司家が横綱を授与したのは横綱栃錦、初代若乃花の頃までで吉田司家が不祥事を起こし相撲協会に横綱の任命権を返上して現在に至っている。

私の子供のころは、吉田司家の当主は小学生の子供であった。、現在横綱は地位であるが昔は横綱は大関で識徳円満な人に与える称号であった。昔ならば朝青竜の騒動は起こっていない。

横綱のように称号が位に変わったものに陸海軍の元帥がある。その昔は元帥は大将で識徳円満な人に与える称号であった。

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農業大国日本

農業大国日本

これは驚きだった。昨日車でラジオをつけると国会討論の真っ最中であった。質問者は自民党の石波元農相でその中で、日本は世界第五位の農業大国である。日本は土地も肥沃で農業に適している。ただ農家人口の高齢化対策と過疎化対策が急務で有ると。かと心配していた。

さしずめ日本の農業の自給率の低いのは、日本人が贅沢になり、農作物の輸入品買いあさるせいか。

ジャーナリストたちは不勉強で農業実態を知らずに日本の農業生産の自給率は世界で最下位に近いとセンセイショナルに騒ぎ立て国民を脅かして実情を伝えていない。

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2010年2月 5日 (金)

石田三成と本田正信、正純親子

石田三成と本多正信、正純親子

石田三成と本多正信、正純親子は同じ運命をたどったような気がして仕方がない。石田三成は、豊臣秀吉の側近として、図らずも次の徳川幕府の大目付のような役を与えられ、加藤清正、福島正則ら武断派の朝鮮征伐での行状を秀吉にちくいち報告した。三成は几帳面でありのままを秀吉に報告し、武断派の人々から秀吉に讒言したと嫌われ、後盾の秀吉亡き後に関ヶ原の合戦で武断派に滅ぼされてしまった。

本多正純信、正純親子も徳川家康の目付、大目付のような役を与えられ講談で有名な大久保彦左衛門に本家の大久保忠隣を失脚させたと嫌われ、正純は二代将軍にも家康に悪い報告をしたと疑われ、家康亡き後に宇都宮のつり天井事件をしかけたという有らぬ嫌いで、失脚し改易となった。

梶原景時も源平の合戦において、源義経の行状を源頼朝に讒言したと嫌われ、更に鎌倉幕府のご家人たちからも疎んぜられ、後ろ盾の頼朝が死ぬと謀反の嫌疑で滅ぼされてしまった。いずれも主君が生きている時は働かせられ主君が死ぬと失脚したり滅亡している。

これは役目上のことをとがめらた例である。

石田三成

石田三成は、小人物でとあると伝えられているが、それは勝者の歴史のせいだ。中国では正史は、五十年たって編纂されると聞いている。理由は公平な歴史が編纂出来るからだと云うことである。しかし五十年では正しい歴史判断は出来ない。数十年経った今でも日本の大東亜戦争の評価は誤りがある。その昔中曽根首相が日本の評価は、後の歴史に任せると言っていた。

石田三成は、見方を変えれば豊臣家最大の忠臣である。しかも加藤清正、福島正則ら武断派よりも先見の明があったことになる。ただ惜しむらくは関ヶ原の合戦で裏切り者を出して敗戦したことである。

石田三成には、家臣の島左近に三成の知行の半分を与えて召抱えている。関ヶ原の合戦の後捕えられた時水を所望し柿を与えると「柿は体を冷すから」と断り捕縛した人たちはすぐ処刑になるのに体が冷えるもないのにと笑われ、三成は「将は最後の最後まで反撃に努めるもの」と言ったと云う逸話を残している。

本多正信

本多正信は家康の家臣であるが三河一揆では家康に叛き一揆側となった。しかし家康が出陣すると常に戦わずに逃げたと言われている。

後帰参が許され家康の側近になった。

加藤、福島らが三成追い三成が家康に助けを求めた時、三成を救ったのは正信の進言で三成を生かしておけば秀吉恩顧の諸大名が家康方に味方するという読みからだと伝えられている。

種々の功績により加増の沙汰があった時正信は同志の羨望の的になると固辞していた。

本多正純

加増を固辞した正信と異なり正純は加増を受け宇都宮にお国変したが、元の宇都宮城主の奥方で将軍と縁戚の讒言や将軍秀忠の勘気にふれお家断絶となってしまった。

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合羽、歌留多、天麩羅

合羽

股旅もので着ている合羽は、日本語と思っている人も多いと思うが、これは信長の時代輸入された外来語すなわちポルトガル語である

旧制高等学校の学生は、破帽に黒のマントをみにまとい朴葉の高下駄をはいて道を闊歩していた。このマントも日本では合羽ト呼んでいた。

江戸時代の合羽にわ和紙で作り油を塗ったものもある。これは日本人のはっめいか。

歌留多

歌留多には「いろは歌留多」とか「百人一首」などいろいろあってこれも日本のものと思いがちであるが、語源はポルトガル語である。

医者が診断して病状を書くカルテはドイツ語読みで「かるた」のことである。

英語ではカードと呼んでいる。

天麩羅

外国人も好んで食べる「てんぶら」は外来語であると知っている人も多いがこれもポルトガル語である。

煙草

煙草は漢字で書くので日本語と間違えている人も少なくない。

煙草はコロンブスのアメリカ(実はコロンブスの勘違い)大陸発見で現地民が吸っているのをコロンブスが欧州に持ち帰り普及したものと云われている。

金平糖

金平糖も漢字で書き表しているので舶来の可菓子出ないと思っている人がいるがこれもポルトガル語である。

有平

有平糖はポルトガル語で砂糖菓子のことだそうだ。有平糖は砂糖に飴を加えて煮詰め棒状、花や果実に摸して着色したものでぁる。

床屋の看板に用いる赤白青のらせん模様の棒が有平糖に似ていることから床屋の看板を有平棒とよんでいる。

天鵞絨と檸檬

天鵞絨(ビロード)と檸檬(れもん)漢字だけでは、日本語と間違うが読んで見ると外来語とすぐわかる例である。天鵞絨はポルトガル語でれもんは英語である。

外来語には英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語。ポルトガル語、スペイン語、梵語と数々有るが以外にポルトガル語が多くいかにポルトガルの恩恵を受けているかが分る。

モールスとモース

電信発明したモールスと大森貝塚を発見したモースは全く別の名前と思いがちだが電信のモールスと貝塚のモースは従兄弟どうして一方はドイツ語よみで他方は英語読みで、どちらも同じ名前である。

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裏口入学

裏口入学

以前なべおさみの息子が明治大学を裏口入学したと世間を騒がせたことがある。昔は私大の裏口入学は公然の秘密であった。私大の教授は数人を合格させる権限があった。戦前本家の息子が早稲田の理工学部に合格した時、おふくろが本家のおばあさんに「オメデトウ」と云うとおばあさんは、本家の親戚で早稲田の理工学部長をしている人が入れてくれたんだろうと言っていた。しかし本家の息子は新設の長野工専(現信州大学工学部)にも合格し、そちらに入学した。

戦後従兄弟が早稲田の政経学部へ受験した時おふくろは、本家に頼んで理工学部長に頼んだらどうかと叔母に進言した。すると後日理工学部長は政経学部長を紹介してくれた。合格して叔母はお礼に「リンゴ」を送ると政経学部長は私は何もしなかった。息子さんの実力ですと言って「リンゴ」を返してきたという。

世の中にはこのような清廉潔白な人物もいた。

また中学の先輩で慶応大学法学部の教授が我々の高校で講演した時、講演後教師との懇談会で裏口入学について教師が尋ねると私大は経営上裏口入学を認めざるを得ない。しかし裏口入学ばかりでは大学が駄目になるので実力で入学する人もいると。

それを聞いた国語の教師は嘆いて戦前は、高等師範学校や師範学校のように教師の養成機関と陸海軍の軍人を養成する学校は授業料は免除され、生活費も支給された。貧乏人でも頭が良ければ進学の道があった。しかし戦後はその制度が廃止されてしまい進学の道が閉ざされてしまったと嘆いていた。現に中学、高校の同級生で中央大学を受験した人がいたが、彼は面接で寄付一口一万円であるが、何口寄付するか問われ三口と答え合格した。しかしその友は東京農工大にも合格し農工大へ入学した。

私大の裏口入学はその後も続いたが、文部省が私大にもを金を援助するようになり裏口入学を厳しく禁じ、私大の援助も加減するようになり裏口入学の悪習はすたれていった。

「なべおさみ」の息子「なべやかん」の事件は昔の悪弊の名残である。

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小栗上野介

小栗上野介

今から数十年前、中央西線で帰省中、大声で話をしている数人の乗客と乗り合わせたことがあった。聞くともなく耳を傾けるとお国自慢で「群馬県からは中曽根康弘という若い代議士がいるが、なかなかの人物で将来総理大臣になる器だ」と。その予言どうり中曽根は首相となった。

話は変わり「新見豊前守とアメリカに渡った小栗上野介も群馬県だ」と云っていたがしかし当時私は新見豊前守も小栗上野介も知らなかったが、妙に両名の名は記憶に残っていた。日米修好条約批准のための使節で正使は新見豊前守、副使は小栗上野介で艦長は勝海舟である。勝は新見に自分を売り込み咸臨丸の艦長になった。勝の手腕に危惧を抱いた新見はアメリカ人ブルック大尉を同乗させ、咸臨丸の操縦を任せた。ほら吹きの勝海舟の自慢話が世に伝わり、咸臨丸は勝海舟により日本人初の太平洋横断に成功したことになった。しかしこれは間違いで、勝は咸臨丸の船底で病気と称して太平洋横断中寝ていたという。このことはブルック大尉の日誌にも書かれ、同乗した福沢諭吉も福翁傳でも認めている。ほら吹きの勝海舟の話が世に伝わり、「勝海舟は咸臨丸の艦長として日本人初の太平洋横断に成功した」となり新見、小栗の名前も消えてしまっている。

これらの事実から勝は軍艦奉行を歴任した咸臨丸の艦長をしたにも関わらず、海軍籍から除かれているという。

一方小栗はアメリカに渡り日本の金が流出する理由は、日本の金と銀との交換の比率が正常でないことを悟り、通貨の交換率を上げ日本に三倍の利益を勝ち取ったという。

小栗は帰国後、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行、陸軍奉行などを歴任し幕府の陸軍を仏式にしたり、造船の必要性を感じ浦賀に製鉄所、造船所を建ている。

この造船所は新政府に引き継がれ浦賀ドックとして最近まで稼働していた。

しかし小栗上野介は、伏見、桃山の戦に敗れた徳川慶喜に主戦論を唱え退けられ上野の国へ隠遁していた。しかし戊辰戦争で進軍して来た政府軍に捕らえられて首をはねられてしまった。

あたら惜しい人物を失ったものだ。

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2010年2月 4日 (木)

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、三傑と言われ信長、秀吉は尾張の出身で家康は三河の出身であるがいずれも今の愛知県の出である。名古屋祭りでは三傑の行列もでる。

織田信長

織田信長は三傑の中では一番人気があるが、戦前は残虐な人物として最も嫌われていた。しかし新井白石の「折りたく柴の記」では信長は中世に別れをつげ近世を迎えた人物として褒めている。信長の残虐の例として比叡山の焼き討ち、最後のころの明智光秀に対するいじめ、家来も役に立つ時は利用し役に立たなくなるとポイ捨てにしてしまいそれは重臣たちへも同様であった。荒木村重の謀反の時も光秀、秀吉が翻意させようとするが、村重は「信長は一度そむいた人は絶対に許さない」と翻意をことはっている。安国寺恵けいも「信長はたか転びにころげおちる」といっている。

信長の弟長益は有楽斉いう茶人で、秀吉に仕え大阪城落城後は京都で暮らした。東京の有楽町は有楽斉から取ったという説と違うという説があって真偽のほどは分らない。明治になって子爵に叙せられ、また信長の三男信雄の子孫二家もそれぞれ子爵となって続いていた。

豊臣秀吉

豊臣秀吉は、尾張中村の水飲み百姓の出で持ち前の明るさと如才なさと仕事に熱心姿勢から皆に可愛がられ、上役もまさか自分より出世しないと思っていたが上司の柴田勝家、丹羽長秀を追い越して天下取りになってしまった

天下を取ってから源頼朝の木像に向かって家来のいない身から天下を取ったのは君と私だと云ったという。しかし頼朝は源氏の嫡流で腐っても鯛である。

戦前最も人気のあったのは秀吉で、戦後でも吉川英治の私本太平記を読んだ人が太平記で面白いのは秀吉が天下を取るまでだと言っていた。

秀吉は女性にも手が早く側室は皆昔は自分より身分の高い女性であった。また男性にも手が早く他人の家来でも籠絡して自分の家来に鞍替えさせていた。石川数正もその一人で家康の家来から秀吉の家来にとてしまった。

徳川家康

戦前はタヌキ親父と呼ばれづる賢いのを嫌われていた。

家康は秀吉と異なり妾は他人の後家さんか他人の持ち物で本妻で苦労した現れと言われている。

関ヶ原の戦いは東軍の徳川家康と西軍の石田三成との戦いと思っている人が多いが実は秀吉の子飼いの武人派と西軍の三成ら文人派の内輪もめで家康はそれに乗って漁夫の利を得たのである。しかも秀吉の正妻北の政所を味方に抱き込み秀吉の子飼いの大名を東軍につけたり北の政所の親戚のものたちを寝返らせている。

明治になって陸軍参謀本部に派遣されたドイツの将校は関ヶ原の布陣をみて西軍の勝ちといったという。謀反が起きるとは想像できなかったためである。

豊臣家を滅ぼすために大阪城を守っていた片桐勝元に難題を吹きかけ、淀君の使者にはうまいことを言ってたぶらかし淀君を疑心暗鬼にさせ片桐勝元を大阪城から追放させてから大阪冬の陣を起こした。

大阪冬の陣で形勢が不利になるとすぐ和睦をし、和睦の条件である大阪城の外堀を埋める約束を破って内堀まで埋めて大阪城を丸裸にして大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼしてしまった。

豊臣家滅亡の後家康は秀吉憎しで秀吉の墓を暴いて跡形もなくしている。

明治に幕府がなくなり秀吉の親戚や恩顧の大名の子孫が京都に豊国神社建てており日光東照宮や久能山東照宮の祭神は勿論家康であるが薩長の明治政府への配慮か秀吉も祭っている。呉越同舟と言ったところか。

徳川本家は慶喜の後を継いだ家達は公爵で、慶喜も後に許されて公爵になり、水戸徳川は公爵、紀州、尾張徳川はそれぞれ侯爵で、御三卿の一つ橋、田安、清水家はそれぞれ伯爵その他松平一族も叙勲され繁栄した。

 

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愛親覚羅一族

愛親覚羅奴児*洽赤

「アイシンギョロヌルハチ」を初めて知ったのは中学生の東洋史であった。非常に不思議な名前で鮮明に記憶している。日本語読みでは「あいしんかくら」と読む。「アイシン」とは金で、「ギョロ」は古い由緒ある姓を意味していると広辞苑にあった。ヌルハチは明朝を破って清朝を樹立した初代太宗のことである。

支那は清を表す言葉で英語のchinaは清から派生したという。chinaは清のほかに陶器の意味もある。陶器は支那の主力輸出品であったため付けられた。

*印は当て字で本字は口編に合である。

愛親覚羅*ふ   *ふは傳の人偏の代わりにシずい

傳儀氏は映画のラストエンペラーのことで清朝最後の宣統帝で後の満州国皇帝でもある。ふ儀氏は戦時中大東亜共栄圏会議に来日し、昭和天皇から歓迎された。

しかし戦後戦争犯罪の裁判で裁かれた時、日本の悪口に終始しひんしゅくをかった。

愛親覚羅ふ傑

愛親覚羅ふ傑氏は、満州皇帝ふ儀氏の弟で嵯峨侯爵の姫君と結婚し二女をもうけ長女は慧生という。戦犯では潔かった。釈放後夫人と仲睦まじく余生を送ったという。

愛親覚羅慧生

慧生は戦後伊豆の天城山中で学習院で同級の男性と心中し男性の無理心中だたとささやかれた。

生前慧生は父の釈放を周恩来主席に陳情していたという。

川島芳子

川島芳子は清朝の一族粛親王の子供で、父と義兄弟の支那浪人川島浪速の養女となり浪速の郷里松本に帰り、県立松本高女(現蟻ヶ崎高校)に男装で通い、男装の麗人とさわがれた。後にスパイとなり「東洋のマタハリ」といわれたが、戦後反逆罪に問われて裁かれた。養父川島浪速は友人蒋介石になんども減刑を嘆願するもむなしく銃殺刑に処せらた。遺骨は蒋介石の好意で養父浪速のもとに届けられ松本市の寺に葬られた。

巷間では処刑されたのは身代わりであったともささやかれているが、真偽のほどは分らない。

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2010年2月 3日 (水)

犬山城

犬山城

全国で国宝の城は、姫路城、彦根城、松本城と犬山城の四っである。その中で犬山城は、木曽川の沿岸の小高い丘の頂上に立つ風光明美な山城である。現在は犬山市の所有であるが、以前は個人の持ち物であった。姫路城は別名白鷺城と呼ばれているが、犬山城は中国の洞帝湖ににたたずむ白帝城にちなんで白帝城とも呼ばれている。

徳川御三家には、それぞれ付け家老がいて、水戸徳川の付け家老は中山備前で、紀州徳川は安藤帯刃、尾張徳川は成瀬正成、それぞれの家老は徳川本家から一万五千石、御三家から一万五千五石をもらい禄高はいずれも三万石であるが大名ではない。犬山城の城主は尾張の付け家老成瀬家である。

今から三十年ほど前NHKのラジオに出演していた東大工学部の成瀬教授は犬山城が成瀬家の個人の所有であるいきさつを述べていた。それによると明治になり犬山城は明治政府に没収されたが財政がひっ迫していた政府は城の修理代の困っていた。それを知った成瀬は成瀬家の所有にしてくれれば修理代を出すといい成瀬家に返還されたという。また成瀬の先祖は家康の末席の家来にすぎなかったからだと笑って話していた。

大阪冬の陣が収まった時家康が大阪城の外堀ばかりでなく内堀も埋めたことで子供心に家康を嫌っていたが、濠を埋めたのは成瀬の先祖だったと語っていた。

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学徒動員と学童疎開

学徒動員

学徒動員は、日本では数え年二十歳のになると男性は、徴兵検査を受け戦時中は甲種、乙種合格の人は全員赤紙一枚で招集させられ戦地へ送られていた。戦局が厳しくなると丙種合格で兵役をまぬかれていた男子も招集させられた。しかし学生は戦時中も招集を免除され学問に励んでいたが、戦局が厳しさをますと、学徒動員と云って文科系の学生は兵役免除の制度が解かれて招集されることとなった。

理科系の学生は兵役免除であるから文科系から理科系に変わる学生もいた。

これが学徒動員で十一月の秋雨の降る中を神宮球場で学徒出陣式が行われ、その様子がニュース、記録映画、テレビなどで放映され皆さんがお馴染みの画面である。

学徒動員は日いずれの国も成り振りをかまっておれないものである。

学童の集団疎開

戦争が激しくなると学童の疎開が始まり、空襲の難を逃れて、縁故疎開といって親と一緒に親戚、知人を頼って疎開をする人もいたが、田舎に親戚、知人のいない人は学校の生徒全員が田舎のお寺などへ集団疎開をして空襲から難を逃れていた。

集団疎開も日本だけでなく日本より早く英国、仏国、独国、伊国で行われ、当時のニュース映画は親子の涙の別れの愁嘆場を報道していた。

私の中学でも疎開の中学生であふれ溢れており終戦後も疎開を続ける人も多かった。特別な国はなく、いずれの国も同じ状態に置かれるものである。

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赤報隊

相良総三

相良総三は、本名を小島将満といい幕末の勤皇の志士である。はじめ水戸の天狗党の挙兵に参加し、西郷隆盛の命を受け江戸の治安をかく乱するため、火付け、盗賊を働いた。後に赤報隊を組織し、その隊長になった。

赤報隊

官軍が江戸城を攻めるに当たって、赤報隊は、東山道の官軍の先ぽう隊として、年貢の半減をうたい文句にして、各地から寄付を募って進んだ。

島崎藤村の「夜明け前」は天狗党や赤報隊が馬籠を通過する様子を伝えている。

しかし官軍の福井藩士三岡八郎(後の由利公正)の計算で、減税どころか増税しなければ成らなくなり、官軍は本陣に相良総三を呼び出して下諏訪で偽官軍として処刑してしまった。

下諏訪には、赤報隊の顕彰碑が建っている。

後に相良総三や赤報隊の隊員の子孫が、偽官軍の汚名をそそぐ努力をし昭和三年になって偽官軍でなく官軍であったと認められ彼らは叙勲されている。

偽官軍の汚名をそそぐ子孫の活動を作家長谷川伸は「草もうの志士たち」という本に書き表している。

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ああ野麦峠

ああ野麦峠

「ああ野麦峠」は、大竹しのぶ主演の映画のような女工哀史だと思うと大違いである。今から四五十年前NHKの通信高校講座で「ああ野麦峠」の作者を呼び「ああ野麦峠」を書いたいきさつを聞いた。作者は、野麦峠があることは聞いて知っていたがどこかも知らなかった。

ある時野麦峠を超えて飛騨の高山へ行き老女たちに岡谷の製糸工場の話を聞くと、老女たちは、嬉々として話してくれた。しかし次に訪ねると老女たちは一人、二人と死んでいった。これは大変と古老たちの話を記録に留めたのが「ああ野麦峠」である。さらに「日本は皆貧しかった。彼女たちは、口減らしのために岡谷の製糸工場に送られた。しかし彼女たちが盆暮れに帰省するとそれを目当てに呉服商などで市が立ち、彼女たちの収入で高山の家々は潤い新築の家が出来たという。しかしいつの時代にも不器用な人はいて失敗して罰金、罰金を繰り返したり無駄使いで借金を増やす人もいた。

工場は繭から糸をつぐむため蒸気の充満する悪い環境のため映画の大竹しのぶの役のように結核にかかり落伍する人もいた。「国は富国強兵に努め彼女たちの作った生糸は外国に輸出され、外貨を稼ぎその金で機械、兵器、軍艦を買ったりした。日露戦争の日本海大海戦で日本が勝利を収めたのも彼女たちの力が一枚かんでいた。日本海軍の軍艦はロシアの軍艦より性能がよくそのためロシア海軍の軍艦の前を横切る作戦を成功させることができた」と。輸出、輸入の決算書やその他統計を使って克明に書いて実積に裏打ちされた記録を残している。

工女たちは自分たちはお国に貢献していると胸を張っていた。事実映画の中にも国のためになっている。と胸を張っている場面も見られた。

作者の話を聞き私も「ああ野麦峠」を早速買って読んだ。一読に値する本である。

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学校遍歴

学校遍歴

私の同級生に東京教育大学(元東京文理科大学・東京高等師範学校で解体後現筑波大学)出身の男がいた。彼の兄も中学の先輩であった。今から五十年も昔私が名古屋の学生会館にいたころ、彼は九段の学生会館の自治会の委員長で、所要で名古屋に来た。彼は皇居前広場で、学生と警官が衝突して流血騒ぎとなった「血のメーデー」に参加していた。そのあと警官の追及が激しくなり一時はなりを潜めていたという。彼は就職は都落ちして、北海道にでも行くしかないといい、後日その通りになった。

彼の兄は、中学四年で海軍兵学校を受験したが、勧められて予科練(海軍飛行甲種予科練習生)も受験して合格し入隊した。しばらくして上官から呼び出され、海兵にも合格しているがどうするか尋ねられ海兵に移った。同じ海軍でなく陸軍士官学校であったらこうは行かなかったろうと言っていた。

終戦後旧制松本高等学校(現信州大学文理学部)に編入し、旧制高校から大学受験に失敗して浪人となった。しかし時の文部大臣天野貞祐の旧制高校浪人救済の計らいで東大へ入学した。しかし年は違うが弟は一年上になってしまったと言う。

新聞によれば後日兄は秋田県の能代高校の教師となり活躍していることが報じられていた。

このように戦中、戦後ににかけて、人生を翻弄された人たちがいる。

しかし北海道の教師になった友人は、数年前に亡くなってしまった。

今日は驚いた。熱心なコメントがあってこれだけのヒントで同級生の兄の名前を当てられしかも松高何期生きかも知らされ、現在は養子に行ったのか苗字が変わっているのを教えられた。驚きと、感謝で一杯。

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2010年2月 2日 (火)

新撰組

清河八郎

清河八郎は出羽の住人で江戸に出て東条一堂、千葉周作の弟子となり、文武両道の達人として、文武塾を開くが後に京都を守護する浪士隊を募集する建白書を提出し、家康の生母伝通院の菩提寺伝通院で旗揚げしては八郎を江戸へ呼び帰した。山岡鉄舟もと江戸へ下向してしまう。残された芹沢鴨らは新撰組を結成する。しかし芹沢鴨局長としてが好き勝手に新撰組を運営することに不満な近藤勇らは芹沢鴨の寝込みを襲い惨殺してしまう。近藤は芹沢の葬儀を大々的に行い、新撰組の局長となり土方歳三は副長になる。

近藤勇

局長になった近藤は周知の活躍をするが、鳥羽・伏見の戦いで狙撃されち戦わずに敗れた。新撰組は、江戸にもどるが、策士勝海舟に煽てられ江戸から甲府へ転戦を命ぜられるも途中郷里の日野で錦を飾り、酒盛りで時を失い甲府へついた時には時すでに甲府は官軍に手に落ちていた。近藤は下総の流山で官軍に捕えられ板橋で斬首された。

土方歳三

土方歳三は、さらに転戦を続け箱館の五稜郭に立てこもるが、遂に五稜郭陥落の日土方は最後の突撃をして戦死してしまう。伏見、桃山で敗れた土方はもう剣の時代ではないと語っていたという。土方は先見の明があったと言える。

子供のころは近藤勇が好きであったが、今は勇ましくてダンディな土方歳三のほうが好きである。

土方は子供のころ上野の松坂屋(呉服店現百貨店)で丁稚奉公するが、すぐ郷里に逃げ帰り一時生家の薬屋の手伝いをして行商をしていた。土方の生家は現在も薬を商っているようだ。後に土方は剣の道に励み新撰組に参加した。近藤、土方は日野の百姓の出身でそのため必要以上に規律を厳しくして、隊員同志で規則に反した者は殺し合いを繰り返した。

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徳川慶喜

徳川慶喜

徳川慶喜は水戸の徳川斉昭と有栖川の宮の姫君の実子であり、エリート中のエリートであった。将来を嘱望され御三卿の一つ一ツ橋家に養子に入っている。十四代将軍を紀州徳川慶福と争ったが、大老井伊直弼の裁断で将軍に付けなかった。このときは各大名からも推薦されたが、斉昭が大奥で嫌われていたからともいわれている。

大政奉還後逆賊として蟄居し、静岡で悠々自適、趣味の人として生活をしている。

明治も中ごろになって明治天皇に召されて宮中へ参内して、明治天皇、昭憲皇太后から懇切丁寧な接待を受けた。明治天皇はあとで借りを返した。と云われたという。その後慶喜は公爵に叙せられ、高松宮喜久子妃殿下は慶喜の孫で、秩父宮勢津子妃殿下は松平容保の子孫で後に参議院議長になった松平恒雄の子女であり、三笠宮百合子妃殿下は、旧幕臣の子孫高木子爵から嫁いでいる。

また高松宮家は、有栖川宮家の祭司も行っていた。

徳川慶喜は孫の喜久子姫が高松宮家に嫁ぐことを大変喜んだという。

皇室も徳川家の処遇には配慮したものと思う、

徳川慶喜の援助をしたのは、実業家渋沢栄一で従兄弟は上野の彰義隊に参加して戦死し渋沢栄一は後に「徳川慶喜傳」を書いている。

慶喜の側室には新門辰後郎の妹や新村姓の女性もいたが、彼女は広辞苑の作者新村出を援助し、後に新村出を養子にしている。

終戦後陸軍幼年学校の英語の教師で、我々の中学の英語の教師になった先生が以前は徳川慶喜は優柔不断な男と思っていたが、国が敗れた今は、敗軍の将はあのようにふるまうしか方法がなかったと悟った。と語っていた。

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幕末の侠客たち

国定忠治

国定忠治は、映画、講談、流行歌に歌われている。末路はちゅうぶで足腰が不自由になり関所破りの罪で破った関所で処刑されている。しかし天保の大飢饉で各地に餓死者が続出した時に忠治の上州長岡村付近を統治する代官は、忠治の住む村の近傍では一人の餓死者がてていないと幕府に報告している。これは忠治が盗みをして、村人を飢餓から救ったためである。

講談や東海林太郎の歌う流行歌「赤城の子守唄」で有名な、忠治の子分の板割の浅太郎が子供を背負って忠治と逃げる場面があるが、これは嘘で忠治が追手十手持ちの浅太郎の叔父をんを切ってこいと言い、叔父と甥を切り殺して帰った浅太郎を講談では忠治が「叔父さんを切れ」と云ったのは浅太郎を叔父さんに帰すためであったが、勘違いした浅太郎は伯父さんを殺し、甥を背負って帰ったことになつている。しか叔父と同日死亡したの子供の墓が一基あるという。

板割の浅太郎は後に藤沢の遊行寺で寺男となり、現在も朝太郎の墓がある。

黒駒の勝五郎

黒駒の勝五郎は、清水の次郎長と喧嘩したことで有名だが、幕末官軍とともに京都に上京したが、後に脱走の罪で官軍に処刑されている。

使い捨ての見本のような人生だ。

会津の小鉄

会津の小鉄は、松平容保が京都所司代として上京する際、容保のお供して京都へ行き口入れ業をしていた。

現在京都に会津の小鉄というやくざがいるが、会津の小鉄は、そのまま京都に留まったものと思われる。

新門辰五郎

新門辰五郎は、浅草の町火消しの親分であるが、幕末徳川慶喜に従って上京し、鳥羽・伏見の戦いで慶喜が逃げ帰る時、あわてた慶喜は将軍の旗を忘れ、辰五郎が東海道を走って旗を持ち帰っている。

笹川繁蔵

天保水滸伝で飯岡の助五郎と利根の川原で喧嘩して切り死にした笹川繁蔵の用心棒平手造酒は、千葉周作の高弟と講談や流行歌で歌われているが、これは間違いで架空の人物だ言う。 

敵役の飯岡助五郎は大親分で十手持ちでもあった。

侠客の出た土地は、いずれも幕府の直轄地が多く、土地も豊かで役人の締め付けも緩いところである。

安濃徳平

荒神山で清水の次郎長と喧嘩して、娘婿吉良の仁吉を死なせてしまった安濃徳平も伊勢の大親分である。

大前田の英五郎

大前田の英五郎は、博打を打たない大親分と言われたが、上州の生まれでもっぱら賭博場の仲裁役を務め、勢力は名古屋を中心に東海道であったという。

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清水の次郎長

清水の次郎長

清水の次郎長は、江戸時代から大親分と思っている人が多いが、次郎長が大親分になったのは、明治になってからである。明治になって次郎長一家に一宿一般の恩義にを受けた天田愚庵が「東海遊侠傳(清水の次郎長傳)」を書き、講談や映画が次郎長を大親分として囃したてた。

次郎長は江戸時代はただの博打うちの侠客にすぎなかった。幕末鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜は敵前逃亡して、大阪から船で江戸に逃げ帰ったが、清水の沖合で慶喜に従った家のかの軍艦咸臨丸が嵐に合い座礁し官軍の大砲の攻撃で軍艦は官軍に没収され、乗組員は切りころされて、死骸が海に充満した。しかし官軍を恐れた民衆はそのまま放置していた。次郎長は「死んでしまえぱ゛みな仏だ」と清水の小高い丘の中腹に建つ清見寺にねんごろに葬った。清見寺は豊臣秀吉が小田原征伐の時一時逗留した名刹で私も以前参観したことがあるがそのようないきさつは知らなかった。

現在清見寺の境内には、戦死者を弔う榎本武揚の顕彰碑がある。静岡に赴任した山岡鉄舟はこれを聞いて、次郎長を見どころのある男だと可愛がり、折に触れて次郎長を教育した。

明治になり次郎長は富士の裾野の開墾をして、子分たちには喧嘩はするなと戒めたという。さらに次郎長は船問屋や英語塾をも経営した。

山岡鉄舟が亡くなると、鉄道のない時代で次郎長は清水から東京へ歩いて上京し、鉄舟の葬儀に参列している。

山岡鉄舟は、自分で建立した谷中の全生庵に葬られている。全生庵には落語の中興の祖三遊亭円朝の墓もある。

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