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2010年1月28日 (木)

善光寺本尊流転

P1020026111 善光寺の本尊流転

「信濃では月と仏とおらがそば」は信州柏原出身の小林一茶の俳句である。

P52600011 P526000221_2 善光寺の本尊は秘佛で誰も見たものがいない。善光寺のご開帳は、本尊の前に立つ前立本尊七年に一回参詣客に公開することである。

また善光寺は平家物語にもなぜか善光寺炎上の記事があったと記憶している。

善光寺は時の権力者からも信仰されていた。源頼朝夫妻、鎌倉幕府の執権北条泰時、時頼などである。

P1020026111_2 五代将軍徳川綱吉は、生母桂昌院と日光御門主とともに、江戸深川の回向院での出開帳の前立本尊を江戸城二の丸に迎え御印頂戴を行っている。御印頂戴は古典落語にもあって、地獄の閻魔さまかから石川五右衛門が御印を盗んでくるよう命ぜられたが、ついうっかり盗んだ御印を額に当てて仕舞い、五右衛門は極楽へ行ってしまうという筋書である。

上杉謙信と武田信玄の川中島の合戦は、善光寺にも多大な被害を及ぼした。

現在甲府善光寺には鎌倉時代の銘のある善光寺如来三尊像、本田善光夫婦の木像、法然上人木像、当麻曼荼羅、源頼朝木像、実朝木像、聖徳太子木像、熊谷蓮生坊木像がありいずれも鎌倉時代の作だという。これらは武田信が信濃の善光寺から甲府へ持ち帰ったものである。

また米澤市の法音寺には善光寺如来三尊像をはじめ鎌倉時代の銘のある仏具や善光寺如来宝印などが所蔵されているという。これは上杉謙信が持ち帰ったものである。

武田信玄は善光寺本尊を持ち帰るだけでなく、善光寺の別当栗田鶴壽や僧侶を連れて甲府善光寺のお守りをさせていた。鶴壽は後に信玄の子勝頼とともに従軍し戦死をし、鶴壽の子永壽が後を継いでいる。信濃の善光寺は、本尊、僧侶もいなくなり疲弊してしまった。

勝頼が織田信長に滅ぼされると信長゛の子織田信忠は本尊を現在の岐阜の善光寺に安置している。信長、信忠親子が本能寺の変で、明智光秀に滅ぼされると信長の二男信雄は善光寺の本尊を尾張清州の甚目寺に安置した。

後に徳川家康は、本尊を三河の岡崎に移すが最後は甲府に返している。

その後豊臣秀吉は、京都に大仏殿を建立したが地震で大仏が崩れたので甲府から善光寺の本尊を京都へ迎えた。しばらくして秀吉は病に倒れ、北政所は善光寺本尊のたたりと恐れて、徳川家康に本尊を返すことを依頼した。

家康は本尊を一時甲府に返すが、結局信濃の善光寺に返したといわれている。その間本尊は流転すること四十数年で信濃に返還された。

一将功成って万骨枯る。というが民百姓と善光寺の疲弊は想像に難くない。

善光寺は、国内では珍しくどの宗派にも属さない寺で、松尾芭蕉も善光寺に参詣して更科紀行に、月影や四門四宗もただ一つ と詠い善光寺どの宗派に属さない寺だと言っている。

また善光寺は住職のいない寺で、善光寺の近くにある大勧進と大本願が、毎日交互に近くの院・坊三十数軒の自派の僧侶を従えて、住職に変わって善光寺でお教を上げている。

善光寺は、どの宗派にも属していないが、大勧進は、天台宗の大僧正で、大本願は浄土宗の御上人(女性)である。しかも大勧進は別当栗田家の関係からか、紋所は武田菱である。

私見を云えば善光寺の本尊は上杉、武田に持ち去られてないのではないか。とさえ思っている。

先日たまたま能の話を聞き能にも「善光寺」があることを知った。

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コメント

善光寺は特別なお寺なんですね。

一度は行ってみたいです。heart04

投稿: まゆクー | 2010年1月31日 (日) 17時58分

先日能の話を聞いたとき、能の演目に「善光寺」のあることを知りました。また平家物語にも突然「善光寺炎上」が出て来ます。

投稿: まゆクーさん | 2010年2月 9日 (火) 22時27分

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