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2010年1月

2010年1月31日 (日)

グランプリーとボリショイ

グランプリー

戦後しばらくしてカンヌ映画祭で日本映画「羅生門」がグランプリーを受章したとラジオも新聞も大々的に報道していました。フランス語の知らない私は、グランプリーという賞が存在するものとばかり思っていました。後年グランプリーはフランス語で大賞のことだ知りました。なぜあの時大賞を受賞したと云わずにグランプリーを受章したと云ったのか不思議でたまりません。最近はその傾向が更に強く、ラジオもテレビも新聞までもがかな文字で意味もわからない大衆に報道するのでしょうか。

明治時代は、economyは経済、base ballは野球と新語を作ってまで発表したのでしょうか。

「経済」「野球」という造語は現在もそのまま使われています。

ボリショイ

ロシヤからボリショイバレー団、ボリショイサーカスなどが来日しますがこれまたテレビ、新聞はこぞってボリショイともてはやしています。

私はボリショイとは、国立と言う意味だと思っていましたが、大間違いでボリショイはロシヤ語で「大」「大きい」という意味でボリショイバレーは大バレー、ボリショイサーカスは大サーカスのことでした。

報道陣は、なぜ大バレー団、大サーカスが来日したと報道しないのでしょうか。

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2010年1月30日 (土)

たらこと明太子、イクラと筋子、フリーマーケットと蚤の市の違い

たらこと明太子の違い

たらこと明太子の違いをご存じですか。明太とは朝鮮語ですけそう鱈のことで、明太子は鱈の子のことで両者は全く同じものです。

イクラと筋子の違い

イクラはロシア語で、さけ、ます、のたまごのことです。したがってイクラは筋子のことで、これもまた全く同じものです。

広辞苑では、以前このように書かれていましたが、現在は、「さけ、ますの子」ですがイクラは、さけ、ますの子をばらばらにして、塩漬けにしたものという注釈がついています。

言語も時代によって変わって行く例であります。

食べ物ではありませんが

フリーマーケットと蚤の市違い

フリーマーケットのフリーはfreeと思っている人が多いと推測しますが、これは間違いでフリーマーケットのフリーはfleaで蚤のことです。フリーマーケットは英語でも日本語でも「蚤の市」です。ただし蚤の市の発生はフランスだそうです。

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牡丹餅とおはぎの違い

牡丹餅とおはぎの違い

牡丹餅とおはぎの違いはご存じすか。最近の知識人に聞くと「同じもので呼び名が違うだけ」とかひどいものになると「春は、牡丹餅と呼び秋は、おはぎと呼ぶ」という人までいます。これは牡丹餅もおはぎも外観だけ見て食べたことのない人がいうことです。食べれば一目瞭全牡丹餅とおはぎの違いがわかります。

牡丹餅もおはぎも同じものというのは、広辞苑をはじめほとんどすべての辞書とか、インターネットでも言っていると聞きました。以前赤坂虎屋の女性研究員までが新聞に同じものだと書いていました。

あるテレビで「その違いは」という番組で新聞に「牡丹餅とおはぎの違い」が載っていましたが、テレビを見ていると、自信がなかったのか、テレビ局はその場面はカットしていました。

私の子供のころ田舎では「牡丹餅とおはぎ」は、はっきり区別していました。

牡丹餅はもち米を蒸し、臼と杵でつき餅にして小豆、黄粉、ごま、大根おろしなどでからめたもの明らかに餅です。

しかしおはぎは、もち米60から7o%にうるち米(食用の米)40から30%せいろで蒸し、すり鉢とすりこぎで軽くつきご飯粒がくずれない状態であんにまぶしたものです。

おはぎは米粒が萩の葉のように見えることから名付けられたようです。

また牡丹餅は男衆の手を借りて餅が搗くのに対し、おはぎは女衆の手でだけで出来るものです。

以前キッコーマンの茂木会長が新聞でおはぎの作り方を紹介し昔母親に作ってもらったおはぎを懐かしがっていました。

もう一人牡丹餅とおはぎの違いを明確にした人は、歌手の北島三郎でNHKの歌の番組でおはぎの作り方を話していました。

今朝の民放のテレビでおはぎを注文し中を小型フォークで切って食べていた。なかを見ると米粒らしきものが見えてきた。しかしこれはもち米でもうるち米でもなくそばだった。これも新型おはぎと言う^べきか?

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2010年1月29日 (金)

普天間基地移転問題

普天間基地移転問題

沖縄は戦争中米軍に攻撃され苦しめられた。最後の突撃を緘口したのは最高司令官牛島謹爾陸軍中将である。玉砕に当たり「これから最後の突撃をする。国の長久を祈る。最後に当たり沖縄県民はよく戦えり。将来平和が訪れた時は沖縄の復興を第一に考えて欲しい」旨の打電を本国にしている。

しかし沖縄は米軍の統治下に長くおかれ復興どころか現在も基地の街である。

息子が学生生活最後のとき沖縄に行ったが、基地だらけだったと驚いていた。気の毒としか表現できない。

普天間基地移転問題では代替地を米国と約束していたが、政権が変わったことで簡単に反古に出来るものか。

昔小学校の国史で明治時代に不等条約改正をとなえて、日本が文明国になったと仲間入りしたことを示すため毎日鹿鳴館でダンスに明け暮れしたが、その後どうなったか知らなかった。

後に林房雄の「大東和戦争肯定論」を読んで初めてその謎は解けた。不平等条約は、幕末井伊直弼が結んだ日米修交条約のことで、条約改正の目的を達したのは大東和戦争が始まり日本が一方的に前述の条約を破棄したからだという。

中国もしかりでアヘン戦争の結果、英国が香港を百年租借するという条約を結び百年以上経って、先般香港は中国に返還された。

このように国と国との約束はなかなか変えられないものである。

それを政権が交代したことを理由に変更できるものか。しかもオバマ大統領の来日に際しては、鳩山首相は私を信用して欲しいと云いながら実行を先延ばしにしている。

男子の一言金鉄のごとし というが簡単に約束を破り、この五月までに解決すると安請け合いしている。そんなに簡単に解決する問題とも思えない。鳩山首相は八方美人を決め込んで五月になったら何も解決せずに内閣総辞職するのではなかろうか。

そんなことにならないことを祈るのみである。国の信用問題であるる

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八ッ場ダム凍結

八ッ場ダム凍

鳩山内閣に苦言を呈す。鳩山内閣は選挙公約だと云ってダム建設反対をうたい文句にしているが八ッ場ダム凍結はちょっと考えものである

八ッ場ダムは初め住民が反対していたが、下流の関東平野に住む人々のことを考え泣く泣く納得し、住民は住み慣れた住まいを払い新天地に移動している

現在は何十年も投資し刈り取りも間近いという時期である

しかも国の助成金だけでなく、下流の東京都をはじめ各県が費用を負担しあってている。それは夏の渇水期にそれぞれの都民、県民が水で困らないためである。それをただ政権公約のためという単純な理由で事業を凍結廃止して投資を無駄にしてよいものか。ちょっと考えただけでも建設実行と凍結廃止の可否はわかりそうなものだ。

八ッ場ダム建設の予定地川原湯は、何回か訪れているが、吾妻渓谷の風光明美なところで自然破壊は惜しい気もするが全体のための犠牲は住民に我慢してもらうしかない。

戦前から戦後昭和三十年代にかけての小河内ダム、奥多摩湖の建設反対運動は激しいものであったが、現在東京都はこのおかげでどんなに潤っていることか。

しかも奥多摩湖周辺は人工の観光地として住民も観光客で潤ってい。

川原湯の住民にもこのような恩恵を受け、下流の住民は渇水期にも水を心配しなくてすむようにしてやれないものか。

短期的な政治計画では将来渇水期にしっぺ返しを食うのではなかろうか。

鳩山内閣も長期的視野に立ったらいかがか。

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2010年1月28日 (木)

善光寺本尊流転

P1020026111 善光寺の本尊流転

「信濃では月と仏とおらがそば」は信州柏原出身の小林一茶の俳句である。

P52600011 P526000221_2 善光寺の本尊は秘佛で誰も見たものがいない。善光寺のご開帳は、本尊の前に立つ前立本尊七年に一回参詣客に公開することである。

また善光寺は平家物語にもなぜか善光寺炎上の記事があったと記憶している。

善光寺は時の権力者からも信仰されていた。源頼朝夫妻、鎌倉幕府の執権北条泰時、時頼などである。

P1020026111_2 五代将軍徳川綱吉は、生母桂昌院と日光御門主とともに、江戸深川の回向院での出開帳の前立本尊を江戸城二の丸に迎え御印頂戴を行っている。御印頂戴は古典落語にもあって、地獄の閻魔さまかから石川五右衛門が御印を盗んでくるよう命ぜられたが、ついうっかり盗んだ御印を額に当てて仕舞い、五右衛門は極楽へ行ってしまうという筋書である。

上杉謙信と武田信玄の川中島の合戦は、善光寺にも多大な被害を及ぼした。

現在甲府善光寺には鎌倉時代の銘のある善光寺如来三尊像、本田善光夫婦の木像、法然上人木像、当麻曼荼羅、源頼朝木像、実朝木像、聖徳太子木像、熊谷蓮生坊木像がありいずれも鎌倉時代の作だという。これらは武田信が信濃の善光寺から甲府へ持ち帰ったものである。

また米澤市の法音寺には善光寺如来三尊像をはじめ鎌倉時代の銘のある仏具や善光寺如来宝印などが所蔵されているという。これは上杉謙信が持ち帰ったものである。

武田信玄は善光寺本尊を持ち帰るだけでなく、善光寺の別当栗田鶴壽や僧侶を連れて甲府善光寺のお守りをさせていた。鶴壽は後に信玄の子勝頼とともに従軍し戦死をし、鶴壽の子永壽が後を継いでいる。信濃の善光寺は、本尊、僧侶もいなくなり疲弊してしまった。

勝頼が織田信長に滅ぼされると信長゛の子織田信忠は本尊を現在の岐阜の善光寺に安置している。信長、信忠親子が本能寺の変で、明智光秀に滅ぼされると信長の二男信雄は善光寺の本尊を尾張清州の甚目寺に安置した。

後に徳川家康は、本尊を三河の岡崎に移すが最後は甲府に返している。

その後豊臣秀吉は、京都に大仏殿を建立したが地震で大仏が崩れたので甲府から善光寺の本尊を京都へ迎えた。しばらくして秀吉は病に倒れ、北政所は善光寺本尊のたたりと恐れて、徳川家康に本尊を返すことを依頼した。

家康は本尊を一時甲府に返すが、結局信濃の善光寺に返したといわれている。その間本尊は流転すること四十数年で信濃に返還された。

一将功成って万骨枯る。というが民百姓と善光寺の疲弊は想像に難くない。

善光寺は、国内では珍しくどの宗派にも属さない寺で、松尾芭蕉も善光寺に参詣して更科紀行に、月影や四門四宗もただ一つ と詠い善光寺どの宗派に属さない寺だと言っている。

また善光寺は住職のいない寺で、善光寺の近くにある大勧進と大本願が、毎日交互に近くの院・坊三十数軒の自派の僧侶を従えて、住職に変わって善光寺でお教を上げている。

善光寺は、どの宗派にも属していないが、大勧進は、天台宗の大僧正で、大本願は浄土宗の御上人(女性)である。しかも大勧進は別当栗田家の関係からか、紋所は武田菱である。

私見を云えば善光寺の本尊は上杉、武田に持ち去られてないのではないか。とさえ思っている。

先日たまたま能の話を聞き能にも「善光寺」があることを知った。

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学歴社会

学歴社会

学歴社会と云われて久しい。現在は学歴社会ではない。本当の学歴社会は戦前であったと思っている。戦前の官立の大学は、東京、京都、北海道、東北、九州、大阪、名古屋の国内七帝大と京城、台北帝大を合わせて九帝大に東京文理科大学、広島文理科大学と単科大学の東京工業大学、東京商科大学、神戸経済大学に医科大学の金沢、千葉、長崎医大ぐらいで、そのほかに陸軍大学、海軍大学と微々たるものである。しかも学生の数は現在の何十分の一でそれこそ完全なエリート集団である。

しかも現在と違って競争は激しく、官僚の場合は、現在の国家公務員6級職に当たる高等文官試験を1番か2番かで後の出世に影響をおよぼした。

軍隊も同じで、陸大、海大を1番で卒業したか2番で卒業したかで生涯差がつき2番で卒業した人は1番で卒業した人を一生追い抜くことは出来なかった。

しかし戦争末期になるとその基準は崩れて例外もあった。

また優秀な人は小学校5年から中学に入学する制度もあった。

作家の谷崎潤一郎はその一人で東大仏文科の辰野隆教授は随筆に「谷崎ほど華々しい経歴の人は知らない」と書いている。

「麻布小学校5年から府立一中(現都立一高)へ、中学2年を飛び越して3年生になり、府立一中の3年生の谷崎の文学は校内に知れ渡っていた」という。

谷崎だけでなく、2・26の思想的リーダー北一輝も佐渡中学へ小学校5年から入学している。

私の会社の上司にも小学校5年から中学へ中学4年から高等学校へそれから東大を卒業したので、一般の人より2年早く大学をでている。社会へ入社した時昭和生まれの大卒が入社して来たと珍しがられたという。

私の中学でも先輩に小学校5年から中学へ入学した人がいた。

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2010年1月27日 (水)

懐古園、海野宿散策

小諸なる古城

先年秋島崎藤村の詩で有名な小諸の懐古園を散策した。時は紅葉の時期で古城は赤黄で彩られ見事であった。小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ *********

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次は中山道の海野宿である。テレビなどで宿のたたずまいが紹介され、かねてから一度は行ってみたかった場所である。

P10100182 P101002167 P101002495 P101002384 P101002276P102002914P102003217 P102003318 P102003419 P102003520 P102003621  翌日真田十万万石の城下街松代を散策した。真田は大阪夏の陣で徳川家康を追いつめて有名な真田幸村(信繁)の兄信之の家系である。六文銭の紋のある土蔵は、真田の宝物館で、門構え家は旧松代藩士で明治になって松代町長、埴科郡長を務めた横田数馬の家である。数馬の長男秀雄は大審院院長(現最高裁判所長官)を務め後に明治大学の学長を歴任した。秀雄の息子俊夫も戦後最高裁判所の長官になった。二男小松兼次郎は鉄道大臣で、数馬の次女横田英(後に和田英)明治政府が御雇外人を入れ、新しい製糸の機械を導入して作った官立富岡製糸に信州から歩いて行き一等工女となって故郷に錦を飾り、故郷西条村に新しくる製糸工場で製糸技術を指導をするため帰国し、製糸技術の発展に努めた。後年和田英として富岡日記を表し世に富岡勢糸を紹介した。なお西条村は小学唱歌「川中島」で西條山は霧深くと歌われている。

他の画像は松代藩の文武学校である。松代藩の居城海津城は、川中島の合戦のおり武田信玄が築いた城であるが現在は石垣だけが残っている。

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天下り肯定論

天下り肯定論

鳩山内閣は天下り制度は全面廃止を政権公約にしているが、現段階では公務員に厳しすぎるのではないか。

現在の国家公務員制度では、省庁で同じ係りに同期入社の人が係長になると同期の他の人々勇退しなければならない。同じ課も同様同期入社で課長がでると他の人は勇退する。同じ部でも同様同期入社で部長が出ると他の同期の者は、勇退する。同じ局も同様局長が出ると、他の同期の者は勇退する。事務次官も同様である。この制度はそれぞれのセクションでその長が仕事のしやすい制度ではあるが、勇退する官吏は、勇退した翌日から失職する。これを救うのが天下り制度である。

失職後の官吏の身の振り方も考えずに、天下り反対を唱えるのはいかがなものか。

失職後の官吏の身の振り方を付けるならば、悪の温床になりかねない天下り制度の禁止は賛成である。

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2010年1月26日 (火)

上司にしたくない人

上司にしたくない人

余り政治の批判はしたくないが、菅財務相の発言には怒りすら覚える。

財務相として財務省に初登庁した時、部下を前にしての第一声である。

「国民と私は、君たちを罷免できる」と発言した。これは腹に思っても決して云うべき言葉でわないと思うが如何に。財務省の優秀な官僚たちを煽てて使えば素晴らしい力を発揮すると思うが、その出鼻をくじいたこと二になる。

昔清水の次郎長に「沢山の子分たちを使ってゆくコツは」と尋ねたところ「別に取り立てて言うことはないが、しいて言えば子分を褒めるときはみんなの前で褒め、叱るときはこっそりと陰に呼んで叱る」と答えたという。

鳩山内閣は、各閣僚が官僚に対して、厳しい姿勢なので、優秀な高級官僚が続々辞めて行くという。国家としてもゆゆしき大損害だ。

菅財務相は折に触れて「埋蔵金」を口にするが埋蔵金は政治家が口にする言葉ではなく山師が云う言葉で埋蔵金は掘り当てられないからロマンがあるので、そう簡単に発掘出来れば苦労はしない。

菅財務相は、以前農相時代105汚染の「原因は貝割れ大根だ」と発言し無実の嫌疑を貝割れ大根にかけ貝割れ大根生産農家を苦しめたが、その責任をとったという話は聞いていない。

菅財務相は、もっと発言に慎重になることを望む。老婆心ながら*****

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成田山新勝寺

新勝寺と鹿嶋神宮

今年の初詣は、成田山新勝寺で30年ぶりにお参りしてきた。

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本堂は、昔と変わらなかったが、ほかは昔と様変わりしていた。仲見世は時間の都関係で行けなかったので昔との比較はできなかった。

F100004148 F100004443444546_2 鹿嶋神宮は修理中であったので奥社まで行かずに帰ってきた。

鹿嶋神宮の宮司の子供がかの剣豪塚原卜伝で十四代将軍足利義輝の師匠で大名であった。

帰りに佐原へ寄り佐原の街を散策した。佐原を流れる小野川周辺は昔懐かしい建物が林立していた。小野川から石段を上り道を隔てて立っている建物は、伊能忠敬の養家で伊能忠敬が隠居するまで働いていた邸宅である。

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2010年1月22日 (金)

葛飾柴又を散策

葛飾柴又の寅さん

         寅さんの映画で有名な柴又で下車し、P520000256_2 を出るP52000063寅さんの銅像が迎えてくれた。

寅さんのおっちゃん、おばちゃんの家団子屋のモデル高木屋も仲見世にあった。仲見世を通り突き当りは、柴又の題教寺(帝釈天)である。

           帝釈天はお祭りで参詣者が多く、太鼓をたたきながらお題目を唱える信者で賑わっていた。

川原 にでて矢切りの渡しで舟で対岸に渡ると千葉であったが、伊藤P52000108_3左千夫の「野菊」の小説の俤はなかった。

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